聖教新聞 体験談そのほか気になる記事

こころの絆(きずな)読者の体験談 介護

ええんかのう.PNG

 父が喜ぶ楽しさ

 神戸市灘区 山崎稔彦(会社社長 62歳)

 先日、父が亡くなりました。96歳でした。両親は山口県に住んで
いましたが、脳梗塞を患った母が介護施設に入所してから、
父は一人暮らしでした。

 大正生まれの昔かたぎで子どもたちの言うことなどは聞かない、
典型的な頑固おやじ。兄弟の中でも父と話がしやすい私が、
月に数日間、神戸から通って面倒を見ていました。

 会社を経営する私は毎月、山口へ行く時間の捻出に一苦労。
6年ほど通い、父のおむつ交換などに戸惑うこともありました。

 何かと周囲に当たる父。質素な食事が多かった父に喜んでもらおうと、
食事に魚の刺し身を並べても「こんなぜいたくを!」とよく怒られた
ものです。

 そんな父が徐々に、刺し身を出すと「こんなぜいたくして、
ええんかのう」と言うように。私が「ええんや」と言うと、うれしそうに
食べてくれるなど、少しずつ心が通うようになりました。

 いつも一人で過ごすことの多かった父が、日常の中に喜びを見つけ、
笑顔になる手助けができたと思います。

 介護ではつらい時もありましたが、父の喜ぶ様子に”楽しさ”
を発見しました。父の心に寄り添えたことが、私の最高の喜びです。
引き続き、施設で暮らす母の見舞いに通いたいと思います。

 【聖教新聞・2018/02/28(水)】

 


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信仰体験・ブラボーわが人生 第32回 89歳 絹糸の強さよ

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【香川県高松市】「池田先生にお目にかかってなかったら、私はとうに
死んどる」。その言葉がちっとも大げさでないことは、小比賀絹子さん
(89)=香川支部、地区副婦人部長=の足跡をたどれば合点がいく。

 31歳で大腸がんになった。手術費がなく、生きることを諦めた。
母が「最後の花道だから」と用意した振り袖を着て、よたよたと
退院した。足裏の浮腫に死期を感じた時、小比賀さんは4年半も
拒み続けた信心を始めた。

「悪い宗教が元で死ねるなら、それもええ」。捨て鉢な決断だったが、
学会の同志は命に潤いを与えようとした。満足に歩けない小比賀さんを
板に乗せ、瀬戸内海の直島から船に乗せた。

訳も分からず連れてこられた東京の日大講堂。2階席の手すりをつかんで
参加したのは、池田先生の第3代会長就任式だった。

 その後、友の唱題に背を押され、「3人前の信心せんな」と腹を決めた。
心が体を突き動かし、足を引きずって歩けるようになった。
粗末な服で参加した夏季講習会。昼食代もなく、一人で唱題していた。

思いがけず、池田先生と出会う。「何があっても生きるんだ」と、みかんの
缶詰を握らせてくれた。宿に帰って、みんなと湯呑みに分けた。
小比賀さんは自らの口に入れなかった。空き缶だけで幸せだった。

「臨終只今の思い」は、こと信心になると鬼の形相でつかみかかってきた
夫をも、入会に導いた。その直後のことだった。
夫が仕事中の事故で他界した。
悲運に立ち向かう妻は、わが子の手を引いて、故郷の高松市へ向かった。


信仰体験・ブラボーわが人生
 第32回 89歳 絹糸の強さよ

「不可能を可能にする信心させてもろうとん」

実家は厳しいもんや。「聖教新聞が家の敷居をまたぐのは許さん」と。
夫の会社からのお悔やみを少しずつ渡した。3ヶ月で38円しか残らん
かった。そしたら「出て行け」と。

「貸家」いう張り紙を探しては、頭を下げた。雪のちらちら降る日に、
ようやく家を見つけた。でも貧しさゆえに、ご飯がない。小さい子どもが
おる。仕事せないかん。

 ある日、トロ箱(鮮魚を入れる箱)を二つ積んだ自転車がタバコ屋に
止まっとん。「よし、魚の行商をやろう」。自転車の持ち主から
トロ箱を一つもろうた。

   ○ ○ ○

 魚屋で3ヶ月修行した。鐘を鳴らして行商に歩いたけど、
チョロチョロしか売れん。かっぱを買うお金はありません。
行商で雨にぬれることぐらいは頓着せん。

ラーメン買うてきては、お湯沸かした。誰かに「子どもには果物も
食べさせえな、いかんのぞ」と言われた。そりゃ食べさせたかった。
でも果物を買う金がない。子にラーメンをすすらせえて、残りの汁を
私がすすっての。武士は食わねど高ようじで働いた。

 それでも家賃が払えんで、福祉施設の母子寮に入った。
人間の影法師は、動いたらどこまでも、ついてくる。宿業も一緒。
なんぼ逃げても、ついてくる。宿命転換する以外に道はない。

 池田先生に誓うた。「たとえ飲まず食わずでも、子供だけは
広宣流布のお役に立つ子に育てます」。そしたら、先生の声が心に
響いてくる。

「題目挙げてるよ。頑張れ。頑張れ」。不可能を可能にする信心させて
もろうとん。強く生きな、いかんのや。

 3ヶ月で8万円できた。それを元手に店を始めた。薄板で隔てた、
駅の待合所の裏側。正味3坪ないし4坪。セメント分けてもろうて、魚飾る
台を自分で作った。屋号は、徳川家康の康をとって「魚康」にした。


   ○ ○ ○
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「魚康」で水をまく小比賀さん



 鐘鳴らして客呼んで、題目あげて働いた。節穴から目玉がのぞいとん。
目玉のあるじに「信心しましょう」と声掛けた。貧しい身なりを笑われた
けん、こう言うた。

「今は仮の姿。この姿をじっと見よってよ。必ず信心のすごさを示すから」
魚売りながら考えることは折伏だけや。「池田先生、三編とは申しません。
一遍の題目を小比賀絹子に送ってください」。

一生懸命に信心を語った。そうさせまいとする働きも強い。常に魔と
戦うた。常に自分の信心を試された。

 息子が20歳で亡くなっての。昭和50年(1975)や。「船乗りになって、
お母ちゃんを世界航路に連れていく」と言ってくれたのに……。
店の中で、いっとき泣いたです。これからどうやって自分は生きてい
くんやろ。

でもそれ以上泣くことは、貧しさが許してくれんかった。

 午前2時には市場に入っとらないかん。下の娘を起こして、ランドセル
を背負わしての。市場の食堂で朝ご飯食べさせて、学校へ送る。
うれしいこともあったけど、悲しいことがありすぎた。

だけども全部自分の宿業だから、「池田先生、先生」と題目あげた。
ほやから、先生と会えた時は感涙抑え難しでの。


   ○ ○ ○


 昭和53年1月、池田先生が四国研修道場に来られたんや。先生が車に
乗られる寸前にの、くるっと後戻りしてくれた。小学生の娘の肩に
手を置いて、「若い婦人部だね。お母さんを大切にね」と。

 昭和55年1月には「さんふらわあ7」号で神奈川にも行った。
翌年に「紅の歌」が誕生した時も、先生は手を包んでくださった。

 貧乏は不幸ではない。師を持たん人生が不幸や。私はの、母親としては
、失格かもしれん。貧しさから、娘に学問を受けさせてやれんかった。
結婚も3回した。ほいでも信心だけは頑張った。

 人生の指針がある。昭和37年8月に、池田先生から御書を頂いての。
表紙をめくると筆文字で、私の名前が書いてある。届けてくれた人から、
先生のご伝言を聞いた。

「絹糸は、糸の中でも一番細い。だけども強い」。私は子どもに何も
残せん。でも絹糸のように強く生きる姿を見せよう。そう決めた。

 魚売って、折伏して、余事を交えず池田先生のことを考えた。
頭には病気の「病」の字もなかった。子には「親と思うな。信心の
先輩と思え」と育てた。「冬は必ず春となる」(1253ページ)しか
なかった。


   ○ ○ ○
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家族に笑顔に包まれて暮らす




 35年間掲げた「魚康」の看板を下ろした日、私は御本尊と会話した。
「御本尊様、泣き虫の自分が、波瀾万丈の人生を耐え抜きました。
自分で自分を褒めてやりたいです」。泣いた。

 もともと病気だらけの人間や。みかんの缶詰を握らせてくれた
池田先生の手のぬくもりが、私に「生きろ」と励ましてくれた。
その恩がある。先生の名誉学術称号の数だけ折伏すると決めた。
今日までに254人に信心を持たせてきた。

 先日、病院で診てもろうたら片肺は真っ白。いまだに大腸がんも
あるがな。一日の命がどれほど大事か。たまに会合での、行商で使っと
った鐘を鳴らしよん。盛り上がるでよ。

 ひ孫と勤行した時、聞かれたんや。「おばあちゃんは、いつまで
生きる?」「おばあちゃんは130歳まで生きるよ」。驚いて笑われた。
でもの、私の人生、これからが本番だと決めとん。あと41年は
生きる計算や。   (天)


 【聖教新聞・2017年(平成29年)8月2日(水)】


posted by mity504 at 20:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブラボーわが人生

米調査 銃規制賛成66%に急増2/21(水)

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米調査 銃規制賛成66%に急増2/21(水)

フロリダ州の高校で起きた銃乱射事件では17人が死亡した。

銃規制強化賛成、66%に急増=高校乱射事件が影響―米調査
 【ワシントン時事】米キニピアック大が20日公表した

世論調査結果によると、銃規制強化に賛成する米国人は66%で、
反対の31%を大きく上回った。(時事通信)


米調査 銃規制賛成66%に急増2/21(水)



posted by mity504 at 18:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース

世界の体験プラザ・核兵器廃絶こそ取るべき選択肢

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核実験演習に参加した被ばく退役軍人として活動して
きたオリバーさん。ミズーリ州ニクサの自宅前で


 世界の体験プラザ・核兵器廃絶こそ取るべき選択肢
 米国の核実験演習で被ばくした退役軍人
 アメリカSGI ロバート・オリバーさん


 きのこ雲の爆心地に進撃

 
 核爆弾が炸裂した後に生じる巨大な火の玉ときのこ雲。この世のものとは
思えない、その非現実的な光景を、私は何度も直接この目に焼き付けました。
1951年、陸軍の兵士として、核実験演習に参加していた時のことです。

 演習のコードネームは「デザートロック」。米国の核実験において初めて、
実戦を想定して陸軍の部隊が動員された演習でした。

 演習場は、ラスベガスから北西に104キロ離れたネバダ州の砂漠。文明から
完全に隔離された荒野にテントを張ってキャンプを設営し、数ヶ月間、
そこで暮らしました。

 核爆弾を投下した後、生き残った敵戦力を撃つために爆心地に進軍する
という演習だったと記憶しています。塹壕にうずくまって待機し、
爆発の直後、私たちは武器を持って立ち上がり、まるで敵に向かって
襲撃するかのように、あのきのこ雲が上がる爆心地に向かうのです。

 演習場に着いた日、大きなスピーカーを通して指揮官から説明が
ありました。私たちがここに来たのは核実験の補助をするためであり、
ソ連との核競争に勝って冷戦を終わらせるためだと、多くの兵士が、
放射能によって父親になれる可能性を奪われるのではないかと
懸念していました。

 ある実験中、誤算で通常よりもキャンプに近い位置に爆弾が落ちました。
テントはたちまち吹き飛ばされ、砂嵐で空は一気に暗くなりました。
昼間なのに夜中のようなのです。
それでも指揮官は”放射能は低いから気にするな”と言い放ちました。

 身を守るために掘った塹壕も、その上に積んだ土のうも、放射線を
防ぐためには何の役にも立たない。そのことが分かったのは、
後年、私たち「被ばく兵士」が後遺症に苦しむようになってからの
ことでした。


 後遺症に苦しむ仲間たち

米・退役軍人 2.PNG
1951年、ネバタ州の砂漠で行われた核実験。
連動して行われた演習「デザートロック」では
、陸軍兵が爆心地から20キロ以内の距離の塹壕
で爆発の瞬間を待ち、その後、きのこ雲に
向かって歩きだした



 私の部隊には143人が在籍していましたが、今でも生きているのは、
84歳の私一人だけです。仲間たちは「デザートロック」での任務を
終えた後、それぞれの道を進んでいきました。

 私は韓国に派遣され、その後、日本に駐留。そこで生涯の伴侶である
サエコと出会いました。55年1月に結婚。ですが、どうしても子どもを
授かることができません。軍医に診てもらうと、私の体では一生涯、
子どもができないと診断されました。
63年、まだ生後2週間だった娘のエミリーを養子に迎え入れました。

 65年、愛する妻と娘を日本に残して、戦線が拡大するベトナムに
派遣されました。その頃、サエコが創価学会に入会したのです。
サエコは私の無事を懸命に祈ってくれました。

 ベトナム駐留中に、”もうだめだ!”といった場面が3度ありましたが、
奇跡的に生き延びることができました。日本に帰還した私を見て、
サエコは御本尊の功力を感じ、信心の確信を深めました。

 私は当初、奇妙な宗教だと勘違いし信心に反対していましたが、
彼女の意志は固く、題目を唱え続けました。以前より生き生きと
変わっていく妻の姿に、この仏法には何かあるのかもしれないと
思い、私自身も入会。68年のことでした。

 家族でワシントンDCに引っ越し、70年には陸軍を退役。
題目を唱えながら新しい仕事を探すと、願っていた通りの条件で
電気技術者の仕事に就くことができました。信心の功徳を実感し、班長
として、草創期のアメリカ広布の最前線で活動するようになりました。

 私にとってもう一つの功徳は、偶然、あるラジオのニュースに
触れられたことです。それは、多くの被ばく兵士が驚くべき早さで、
がんのために亡くなっているという衝撃の内容でした。
全米被ばく退役軍人協会の存在を知り、私はすぐに会員になりました。

 そこで分かったのは、多くの仲間たちが、すでにこの世を去っている
という絶望的な現実でした。生存者たちも、白血病や皮膚がんなどの
病に苦しんでいたのです。


前を向いて生き抜く勇気

米・退役軍人 3..PNG
昨年まで闘病中だった妻サエコさん
(故人)と共に



 2001年の時点で、同じ部隊で生きているのは、ほぼ私だけとなりました。

 被ばく兵士の妻たちから届いた手紙を、今でも大切に持っています。
それらは、仲間たちがどのような最期を遂げたのかを知る手掛かりに
なりました。その中の誰一人、父親になれた人はいませんでした。
50歳まで生きた人の方が少なかった。

 数年前、私自身もぼうこうがんを患いました。60年以上を経てもなお、
放射線の悪影響を受けていることにショックを隠しきれませんでした。
しかし幸いなことに、早期発見のおかげで腫瘍を取り除く手術を即座に
受けることができ、今もがんは再発していません。

 日蓮仏法の実践を始めたのとほぼ同じ時期に、仲間たちの現状を知り、
自身の体にも異変を感じ始めたのは、決して偶然ではないと思っています。
この84年の人生で、いとも簡単に希望が崩れてしまうような苦しみを、
あまりにも多く目撃し、また自らも体験してきました。
しかし私は、何があっても前を向いて生き抜く勇気を、この信心で
得ることができました。

 南無妙法蓮華経の題目を日々唱え、池田先生の指導を学んでいるからこそ
私は決して絶望しません。創価の青年たちを信じ、人類の未来に希望を
持てる自分でいられるからです。

 今でも唱題するたびに、心の中が晴れ渡っていくような感覚があります。
「命というものはわが身にとって第一の珍宝である。たとえ一日で
あっても寿命を延ばすならば、千万両の金にもまさるのである」
(御書986ページ、通解)との御聖訓をかみ締める毎日です。

池田先生とSGIの同志、そして、被ばくした私を生涯支え、昨年、霊山へと
旅立った最愛の妻に、感謝してもしきれません。

 池田先生は半世紀以上にわたり、核兵器廃絶を訴え続けてきました。
戦争と核の恐ろしさを身をもって経験した一人として、私は声を大にして
言いたい。池田先生のような貢献をしてきた人物は、他にはいないと。

 核兵器が使用される時、そこに勝者はいません。全員が敗者です。
ゆえに私たちには、核兵器廃絶という選択肢しか残されていないのです。


 【聖教新聞・2018年(平成30年)1月29日(月)】


posted by mity504 at 20:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 世界の体験プラザ

四季の励まし「勇気の心」が幸福を築く

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池田大作先生
 四季の励まし「勇気の心」が幸福を築く

勇気あるところ、
正義と希望の太陽は輝く。
「勇気」と「臆病」の差は、
微妙である。
紙一重の差といってもよい。
たった一言の励ましによって、
気力が倍加し、
勇気が漲ることは、実に多い。

励ましは
英語で「エンカレッジ」。
勇気(カレッジ)を
吹き込むことだ。
ゆえに励ましのあるところは、
勇気が満ちあふれる。

 ◇ ◇ ◇

勇気とは、本来、
外に向けられるものではない。
弱い自分、
苦労を回避しようとする自分、
新しい挑戦を
尻込みしてしまう自分、
嫌なことを他人のせいにして
人を恨んでしまう自分など、
自己の迷いや殻を
打ち破っていく心である。
勇気が幸福を確立していく上で、
最も大切な力なのだ。

 ◇ ◇ ◇

自分の境涯が変われば、
物事の感じ方、
捉え方も変わっていくものだ。
逆境も、苦難も、
人生のドラムを楽しむように、
悠々と乗り越えていける。
その境涯革命の原動力は、
強い一念を込めた真剣な唱題だ。
題目を唱え抜いて、
勇気を奮い起こし
て行動し、
自分の壁を打ち破った時に、
境涯を開くことができる。

 ◇ ◇ ◇

かけがえのない
「今日」を悔いなく戦い、
広宣流布のため、
人々のために生ききれ!
「常勝」とは、
断固として「今を勝つ」ことだ。
「今日を勝つ」ことだ。


”常勝の空”が、晴れ晴れと広がっていた。大阪市中央区の大阪ビジネス
パーク。関西の発展を象徴するかのように、
高層ビルが林立する。2007年(平姓19年)11月、池田大作先生が
シャッターを切った。「常勝関西」は、先生が手づくりで築いた民衆の
大城。昭和31年の「大阪の戦い」で、先生は「勇戦」「大勝」と揮毫し、
関西の同志に贈った。
「自ら勇んで戦いを起こす時、生命は大歓喜に包まれ、悠々と苦悩に
打ち勝つ大境涯へ、自身を高めていける」と、先生はつづっている。
勇戦ありて、大勝あり……。
常勝の魂とは、勇んで戦う生命に脈打つ。さあ、勇気の心を燃やし、
幸の連帯を広げよう!

【聖教新聞・2018(平成30年)2月4日(日)】



posted by mity504 at 19:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 四季の励まし

インド創価池田女子大学・2018/01/13


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女性の世紀を駆ける創価池田女子大学の学生たちが、
”イケディアン”として生きゆく宣誓を
 

 インド創価池田女子大学

 1.2 「世界調和の日」記念式典を開催


 南インド・チェンナイの創価池田女子大学で2日、1・2「イケディアン
(池田先生の哲学の実践者)・世界調和の日」を祝賀する式典が行われた。

 同大学は、インドの著名な詩人・教育者である同大学のセトゥ・
クマナン議長の尽力により、2000年に開学した。

 現在、創立時の5学部から15学部にまで發展。卒業生は3200人を超え、
有名企業や行政機関などに、インド社会の発展を支える知勇兼備の人材を
陸続と輩出する。

 「世界調和の日」は、同大学の名誉創立者である池田先生が傘寿(80歳)
を迎えた2008年に制定。毎年、記念式典を行い、学生同志が「イケディアン
」としての誓いを新たにしている。

 池田先生の90歳の卒寿を寿ぐ今回の式典では、代表による「母」の合唱
に続き、昨年11月に学長に就いたM・サムシャット氏が宣誓書を朗読。
その後、全参加者でそれを唱和した。

「心から尊敬する池田博士が願われる平和と国際協調を推進し、暴力を
減らすために人間の絆を広げ、生命尊厳を守るために新たな文化の価値を
創造していくことを、ここに誓います!」

 来賓として出席したインド創価学会チェンナイ西本部のラタ・
ラマヌジャン婦人部副本部長が、池田先生の哲学と行動を通し、
「悩みを成長の糧として、
人生の幸福勝利の土台となる学生時代を」と呼び掛けた。

 チェンナイにあるアディヤールがん研究所のT・G・サーガ所長らが祝辞を
述べた後、クマナン議長が「1・2」を迎えた喜びを語り、「仲間と助け合い、
励まし合う青春の中に、イケディアンの模範の精神があります」
と強調した。

 また、同日、大学内に併設されるハーブ園の開園式も行われ、先生の
卒寿を祝賀する意味を込めた90種類のハーブが植えられた。


 【聖教新聞・2018/(平成30年)1月13日(土)】

 なぜインドに「創価池田女子大学」があるのか



九州・沖縄旅行

沖縄旅行.PNG

 動画
沖縄美ら海水族館
沖縄の海中道路をドローンで撮影
ガンガラーの谷 公式PV

沖縄県人気スポットランキング

1,沖縄美ら海水族館
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九州・沖縄旅行









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第30回 本幹・メキシコに広がる創価の平和哲学

マリアさん.PNG

 世界広布新時代 第30回 本部幹部会から

 メキシコに広がる創価の平和哲学

 活動体験
メキシコ創価学会
 マリア・エウヘニア・ロハス婦人部長

 一、幼い頃に母と死別した寂しさから、私は、いつも心に不安や
不満を抱えていました。17歳のある日、「この言葉を唱えたら
気持ちが落ち着くよ」と、1枚のカードを渡してくれた婦人がいました。
そこには”ナンミョウホウレンゲキョウ”と書いてありました。

 この不思議な言葉の意味を聞こうと数日後、仏教の会合に参加する
ことにしました。

 教えてもらった住所を訪ね、建物の階段を上がっていくと、その
不思議な言葉を皆で何度も唱えている声が聞こえました。私はなんだか
怖くなり、そのまま帰ろうと階段を後ずさりしました。

しかしその時、後ろから婦人と、その娘さんたちが元気に階段を上がって
きてしまいました(笑い)。

「会合に来たの?」と聞かれたので思わず、「違います。見に来ただけ
です」と答えました。しかし、子どもたちに「どうぞ入って」と背中を
押され、そのまま会合に参加することになりました。温かな参加者と
すぐに打ち解け、初めて題目を唱えた後は、とても晴れやかな気持ちに
なりました。

 それから3ヶ月後には、御本尊を受持することができました。
明るく変わっていく私の姿を見て、家族や親戚、職場の同僚などが
次々と入会しました。


 一、1981年、池田先生がメキシコを訪問してくださることを聞いた
時は、あまりの感動で、気が付けば職場でも、常に先生の素晴らしさを
語っていました。

 先生が空港に到着された日、職場のほぼ全員が歓迎に駆け付けてくれ
ました。この時の先生との出会いが原点となり、生涯、広宣流布に
生き抜こうと、心から決意する事ができました。

 日本でのSGI研修会にも、毎年のように参加しました。そのたびに、
数ヶ月でいいから日本で暮らして、先生のもとで師弟を学びたいとの
思いが募りました。

 89年の研修会からの帰国後、採用希望の書類を提出していた外務省から
連絡がありました。なんと、1年契約で東京のメキシコ大使館への赴任が
決まったと告げられたのです。

 来日後は入省試験にも合格し、正式に外交官になることができました。
「使命の分野で第1人者に」との先生のご指導を胸に、ますます誠実に
仕事に取り組みました。

 頑張りすぎたのか、そろそろメキシコに帰国したいと思っても帰らせて
もらえなくなり(笑い、拍手)、結局13年、日本で働くことになりました。
千代田区の新世紀地区の皆さんと共に活動した思い出は、生涯の宝に
なっています。

滞在中に、2人の友人に弘教を実らせることもできました(拍手)。

 その後、アメリカ、再び日本への赴任を経て、2012年にメキシコに帰国。
以来、メキシコ広布に全てを懸けて奮闘しています。



メキシコ広布.PNG

 一、昨年7月、メキシコにとっても、大変に重要なニュースが飛び込んで
きました。国連での「核兵器禁止条約」の採択です。世界に先駆け、
ラテンアメリカの各国で核兵器の使用・製造・取得などを禁止した「トラテ
ロルコ条約」の調印から、昨年はちょうど50年目でした。

 原田会長がメキシコを訪問中の8月25日、条約調印の舞台となったメキシ
コ市トラテロルコ地区にある、わが国の歴史にとって大変に意義深い
「三文化広場」で、「核兵器なき世界への連帯」展が開催されました。

 この展示は、SGIがノーベル平和賞を受賞した国際NGO「ICAN(核兵器廃絶
国際キャンペーン)」の協力のもとに制作し、共催団体にはメキシコ外務省
、トラテロルコ条約の実施機構であるOPANAL(ラテンアメリカ及びカリブ
地域核兵器禁止条約機構)も名を連ねました。

OPANALと私たちは「核兵器は絶対悪」という理念を共有し、長年にわたって
信頼を深めてきました。

 この展示の開催に合わせ、三文化広場には記念の銘板が設置されました。
銘文には、条約調印50周年と共に、
戸田先生の原水爆禁止宣言60周年記念と刻まれました。


 戸田先生が生前、世界広布を夢見られたメキシコに、青年への第一の
遺訓とされた核兵器廃絶の先見を永遠に顕彰するモニュメントができた
……
私たちにとって、これ以上の誇りはありません。

 OPANALのソアレス事務局長は「信頼してくださっている池田SGI会長の
期待に応えられるよう、われわれは活動を推進していきます」と
力強く語っていました。

 同じ日、原田会長は外務省を表敬訪問し、カバニャス外務副大臣と
会見しましたが、副大臣は、かつて駐日大使を務めた私の上司です。

 会見では「皆さん方が推進している平和運動や対話運動は、大変に
素晴らしい。心から尊敬しています」と語っていました。
いい上司を持ったと心から感謝しました。

 さらに、創価の師弟の平和哲学をメキシコ中に広げていけるよう、
ますます語りに語っていく決意です。

 メキシコは「11・18」を記念し、青年部5000人を結集する文化祭を
開催します。各部の団結で拡大に勝利し、必ずやメキシコから栄光の
新時代を開いていきます(拍手)。

 【聖教新聞 2018(平成30年)1月16日(火)】

posted by mity504 at 16:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本部幹部会

ブラボーわが人生・第40回 105歳 連勝記録更新中

チヨさん 105歳 1912年.PNG

ブラボーわが人生・第40回 105歳 連勝記録更新中

「幸せすぎて申し訳ありません」



 【東京都品川区】一見、そのつぶらな瞳は、穏やかな色をたたえている。
だが近くで見つめると、心の底まで射抜かれるようなすごみがある。

新宅チヨさん(105)=戸越公園支部、地区副婦人部長=の使う言葉は、
言い知れぬ苦労ゆえか、きれいで慈悲の心がのぞく。
話すと止まらない補聴器なしの取材。放たれる言葉には、胸の奥に
突き刺さるものがある。


 第40回 105歳 連勝記録更新中

 ■朝起きて
 朝起きますと感謝しかありません。
「御本尊様、今日も目が覚めました。ありがとうございます」。
ベッドから下りて、身支度をしまして、お題目をあげさせていただきます。
大正元年(1912年)の生まれです。
一日一日の奇跡に感謝しております。

 ■清潔であれば
 家族にしゃべり過ぎだって言われます。だけど、語る力も御本尊様に
いただいているからですもの。孫がくれた花束もはっきりと見えます。
あまりに鮮やかなので、造花かなと思って触ったら、本当の花でした。

幸せを確かめる目も、御本尊様からいただきました。
もう何もいりません。物もお金もいらないんです。心と体が清潔であれば
いいと思います。

 ■デイサービス1年生
 この7月からデイサービスに通っております。皆さん本当によくして
くださるんですよ。105歳の誕生会もしてくれました。行くとこ行くとこ、
いい人ばっかり。皆さんが諸天善神に見えますよ。
お友達がいっぱいできたから、いつか信心の話ができればいいな。

 ■息子よ
 よく息子にあきれられます。年寄りは同じことを何回も言いますからね。
「それ、さっきも言ったぞ」。そんな時は、空がなぐさめてくれます。

 昔、よく息子と手をつないで歩きました。「おかあちゃん、おそらが
きれいだね」。優しい目で見上げてきた日が懐かしいです。息子は
70歳を過ぎたけど、かわいい時もあったんです。
それを思い出して、息子に心で言ってあげるの。あなたも今に
こうなるわよ。

 ■わが師
 池田先生のこと……言葉では語り尽くせません。わたしの全てです。
班長。班担当員(当時)の記念撮影をしてくださいました。
写真を見ましても、自分の顔が分からないんです。だけど、あの日の
ドキドキだけは覚えています。

 亡くなった夫は「池田先生は、世界に二人とないお方だよ」と
言いました。先生と奥さまは世界の希望です。いつまでも健康で長生き
なさってくださるよう、祈ります。

 ■青年部に
 池田先生の教えをちゃんと守って、後継者になってください。
私たちは戦争で苦労しましたから。信心する上で大事なことは、
感謝の気持ちです。皆さんを尊敬しています。ありがとうございます。

新聞を読む.PNG
「聖教新聞で毎日、池田先生とお会いしております」
……チヨさんの師弟の距離はこれほど近い



 ■連勝記録更新中
 池田先生のことを知っていただくには、聖教新聞を読んでもらうしか
ないと思います。新聞を読めば、創価学会が何を目指しているのか、
分ります。

 生きています限り、購読の推進は続けます。役目ですから。でも毎月、
息子の家に行っては、「今月できないけど、どうしょ。どうしょ」。
そう言って、ご近所をもう一回りしてきます。

 わたくしがどこへ行っても、御本尊様がちゃんと見ててくださるん
ですね。だって、新聞とってくれる人が必ず現れるんですから。
(チヨさんは本誌の購読推進を十数年間、毎月続けている)

 ■座談会
 皆さんを座談会にお誘いするのは、創価学会はこういう楽しいところ
ですよって分かってもらいたいからです。勇気はちょっといりますけど、
「グラフSGI」を一緒に見たりして、お誘いします。今月もご近所の方が
参加してくださいました。

 ■一番の幸せ
 人生で一番の幸せですか
105年ほど生きておりますが、結局のところ、折伏できた喜びに勝るものは
なかったように思います。

 みんな折伏できるのに、自分だけできなかった時がありました。
そんな時は、もう涙が出るんですね。悔しいのか、情けないのか自分でも
分かりません。「池田先生、どうすれば折伏できるか、教えてください」
って題目あげました。
もったいない言い方ですが、御本尊様が電話になって、池田先生と
お話させてくれた気がします。
やつと折伏できた時、うれしくてまた泣きました。

 ■平和よ続け
 今は平和で、ありがたいです。子どもたち、孫たちがいつまでも幸せに
暮らせればと願っています。戦中戦後、自分でもよく生きたなあと思うほど
でした。食べ物もありませんし、世の中に色がなかった気がします。

 だけど今は、食べきれないほど食べ物がある。朝はパンとシーズ。
果物をたくさん食べます。昼は栄養のバランスを考えて、麺類に野菜を
添えます。夜は嫁が作るおいしい手料理を。

こんなありがたい世の中が、ずっと続いてほしい。ですから何としても、
世界平和を願っている創価学会が広宣流布されるよう、祈っております。

 ■かなうんです
 今、はっきり言えます。お題目をあげれば、願いは絶対にかないます。
かなうんです。「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ
信じさせ給え」(御書1124ページ)。経王殿御返事ですか。
御本尊様は本当にありがたいです。この素晴らしい信心を教えてくださった
大工さんに、感謝しております。

 皆さんに助けられて、ここまで生きることができました。ありがとう
ございます。こんなにしゃべって、ほんとすいません。記事にしないで
くださいね。ああ、はずかしい。

手押し車で買い物.PNG
手押し車でお買い物

 

 取材中、チヨさんは「岸壁の母」を歌ってくれた。セリフもすらすら
出てくる。母を思うという。古里・島根県は隠岐の島の母を。

 国鉄(現・JR)で働く夫との結婚は、母が決めたものだった。縁談を
断れば母が困る。だから受けた。でも心がついていかず、結婚式の朝まで
部屋の隅で泣いた。
 夫は働き者で素直な心を持っていた。夫婦で信心を始める。
自宅を広布の会場に提供し、友の激励に走った。若き日に看護学校に
通っていたチヨさんは助産師の免許を取り、助産師の看板を掲げた。
「御本尊様にお預かりしたお産」。60歳まで生命の誕生に立ち会った。

 師弟に生きた夫と妻。1973年(昭和48年)11月、池田先生を迎えた
品川区幹部総会には、一番いい着物で参加した。「今考えますと、親の
言うことを聞いてよかったと思います」。
歌を歌えば思い出す。チヨさんが島を出る日、港に一人立ち、船が見え
なくなるまで手を振ってくれた母の姿を。

 取材の帰り、握手を求めた。その手を千代さんは両手で包み、額を
つけてくれた。手に伝わるぬくもりだけで、寒い冬を越せそうだ。(天)


 【聖教新聞・2017年/12月28日(木)】


posted by mity504 at 16:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブラボーわが人生
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