聖教新聞 体験談そのほか気になる記事

2016年05月03日

世界の体験プラザ 失意の青春から社会貢献の人生へ(1)


世界のプラザ003.PNG
右、モーター制御の仕組みについて説明する張さん
左上、国際的にも評価が高い香港理工大学
左下、香港「黎明聖報」紙


世界の体験プラザ 失意の青春から社会貢献の人生へ(1)

香港SGI 張宙(チョンチャウ)さん

省エネと環境技術で脚光を浴びる
香港理工大学准教授として活躍

画期的な自動車両通関システム


 1997年の香港返還から19年。中国本土と香港の流通量は一貫して増加し
てきましたが、大きなネックになったのが通関・入境手続きの煩雑さ
でした。

 かつては1時間以上要することもありましたが、今では、10分余りで完了。
事前に車種とナンバー、ドライバーの指紋を登録していれば、運転席に
座ったまま手続きができる「自動車両通関システム」を導入したからです。

 最大の難関は、どれだけの車種に対応できるかでした。小型車から大型
トラックまで、運転席の高さはさまざま。また決められた停止線から
前後左右にずれることもある。

 あらゆるケースに対応させるため、まずカメラで車のフロントガラスの
位置を瞬時に判断。次いで、指紋読み取り端末をドライバーの手の位置まで、
スムーズに移動させるシステムを開発しました。

 私はチームを率いて、この制御部分を担当。”素早く、正確に動くこと”
が高く評価され、私の勤める香港理工大学から「最優秀製品開発賞」を
受賞することができました。

効率性や利便性以上に、省エネルギーや環境保護に貢献できたことが
うれしかったです。

 また香港のEV(電氣自動車)保有台数は、この5年間で40倍以上に
増加しましたが、充電スタンドの制御システムも私が設計。
今や、大きな駐車場には必ず設置されるほど普及しています。

 さらに中国南部の海南島に立つ「風車海岸」のモーターも私が設計
しました。中国は、風力による電力供給が世界一ですが、その一翼を
担っています。


自動車両通関システムのイメージ図.PNG
自動車両通関システムのイメージ図


豪州(オーストラリア)の名門校で博士号を取得

 私は59年、3人兄弟の長男として生まれました。幼いころに父を亡くし、
高校時代にイギリスへ留学。81年にロンドン大学を卒業し、
米ゼネラル・エレクトリック(GE)の香港支社に電子工学技士として
就職しました。

 職場で、後に結婚する妻と知り合いました。香港SGI(創価学会イン
タナショナアル)のメンバーだった彼女は、悲観的な人生観を持つ私に
仏法を語ってくれました。
会合に参加し、温かい励ましを受けて、84年に入会しました。

  とりわけ感動したのは、池田先生が学生や青年に対し、”勉学に励み、
その結果として、社会に貢献する人材に成長してほしい”という指針を
贈っていることでした。

 ”この信仰は、自身の幸せだけでなく、人のための貢献を勧めている。
よし、自分ももう一度、勉学に挑戦しよう”と決意。
87年、働きながら香港大学大学院修士課程(二部)に挑戦し、終了するこ
とが出来ました。

 92年には、池田先生の「童話ー輝く子供の世界」展が香港で開幕し、
テープカットの後、先生と握手を。”必ず博士になり、社会に貢献します!”と誓い、
生涯の原点となりました。

 電子工学の分野では世界トップクラスで、父も留学していた、オースト
ラリアのニューサウスウェールズ大学大学院博士課程へ留学。
妻、2人の子供と共に移住したのです。

 大学での研究を終えると、SGIの活動に奔走し、子供が寝静まって
から、リポートを作成する日々。

しかし、想像以上のレベルの高さに行き詰まりました。
貯金は2年で底をつき、妻と子供は香港に戻ることになりました、、、。

一人になると、生活は、さらに色彩をなくしたようでした。
心臓の弱い妻に心配を掛けないため、国際電話でも
明るく振る舞いましたが、八方ふさがりだったのです。

第2回につづく 『聖教新聞 2016/04/25(月)』

 まとめ
世界の体験プラザ 失意の青春から社会貢献の人生へ(1)
世界の体験プラザ 失意の青春から社会貢献の人生へ(2)

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2016年05月04日

世界の体験プラザ 失意の青春から社会貢献の人生へ(2)

開発書」を贈られる張さん.PNG
香港理工大学の学長から「最優秀製品開発書」
を贈られる張さん


世界の体験プラザ 失意の青春から社会貢献の人生へ(2)

香港SGI 張宙(チョンチャウ)さん

省エネと環境技術で脚光を浴びる
香港理工大学准教授として活躍


英米で”最優秀研究賞”に輝く


そんなある日、長男から一枚の絵が送られてきました。窓を大きく開け、
遠くを眺める長男は不機嫌そう。「パパが早く帰ってくれるように」
という題名が付いていました。

 その瞬間、信心で立つしかない、と気づきました。あらゆる時間を
見つけて題目を上げ、勇気と知恵を奮い起こすと、状況は大きく変化。
オーストラリアのメンバーの励ましもあり、わずか半年で論文を完成し、
年間最優秀論文賞に輝いたのでです。

 95年、香港では理系トップの「理工学院」の研究職に就くことを心に
期して帰国。ところがこの前年、「理工学院」が「大学」に昇格し、
教員の採用基準が大幅に変わりました。
香港での研究成果や教職経験を持っていない私は対象外になったのです。

 再び妻が家計を支え、私は”専業主夫”に。数か月後、ついに教職を
諦め、電子工学技士として、会社に勤めました。同僚には、とても
自分が「博士」だということは打ち明けられませんでした。

 ”何のために留学し、博士号を取ったのか、、、”。悩みながらも、
SGIの活動は一歩も引きませんでした。

張さん一家.PNG
張さん一家(左から妻・葉文珠さん、次男・張晧深さん、
張さん、長男・張金深さん)


 香港返還の97年には、世界100か国・地域の友が集い、第16回世界青年
文化祭が開催。その役員に奮闘する中、理工大学から上級講師の採用通知
が届きました。

応募したのは一年も前。数百人の応募に対して、採用枠はたった一人。
私はついに池田先生に勝利の報告をすることが出来たのです。

 2004年には准教授に。これまで国際会議や学術機関誌などで、
200以上の研究成果を発表し、イギリスやアメリカで”最優秀研究賞”
等を受賞。

また論文の引用や索引を調査する「サイエンス・サイテーション・
インデックス(SCI)」によれば、私は電子工学分野では常に
世界20位以内です。

 今、少しでも社会に恩返しをと、香港職業訓練協議会のメンバー、
政府の科学技術専門家団体の顧問、国際機械電子工程学会・香港支部の
会長を務めています。
香港SGIでは副本部長、学術部長として、活躍しています。

 失意の青春時代から、社会貢献の人生へと転換でき、感謝と喜びで
いっぱいです。池田先生の励ましでここまで来られた、という自身の
体験を語り抜き、次世代の人材育成に全力を挙げていきます。

おわり  『聖教新聞 2016/04/25(月)』

 まとめ
世界の体験プラザ 失意の青春から社会貢献の人生へ(1)
世界の体験プラザ 失意の青春から社会貢献の人生へ(2)

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2016年05月09日

人間と共存する野良ネコたち

メスの野良猫.PNG
海岸の岩場に置かれた雑魚がネコのエサに
なっている(福岡/相島で、筆者撮影)


人間と共存する野良ネコたち(1)

 西南学院大学准教授 山根明弘

「相島」では自然な距離感 ハンターの姿を隠し持つ

ネズミを退治するため


学生時代から通称・ネコの島という相島(福岡)で野良猫の調査を
しています。ここの猫たちは、完全に野生化しているわけではなく、
民家のそばで生活し、人間と共存しています。

漁業が中心の島だけに、港では魚をさばいたとき、アラや内臓などが
生ごみとして出ます。それをネコが食べて育つという仕組み。
廃棄物をまとめておくと、猫がたちどころに食べてくれるので、島民に
しても助かっているわけです。

もちろん毎日生ごみが出るわけではありません。漁に出られない日も
あります。そんな時、猫たちは、野山で小動物などを捕らえてエサに
しているのです。

日本人とネコの関係は1400年ほど前。中国から渡ってきた仏教にの経典
をネズミから守るために、一緒に持ち込まれました。農耕民族の日本人に
とって、米を食い荒らすネズミを退治してくれるネコは、非常に役に立つ
動物。

また、漁師にとっても、船体をかじるネズミを退治するために重宝した
のです。”人間のそばに野良ネコがいて、自然に共存できている状態”。
これが昔からある人間とネコの距離感なのだと思います。

 しかし、近年、都市部などで、おなかをすかせた野良ネコを見て、
かわいそうだからと簡単にエサを与えてしまい、結果的に野良ネコが
繁殖して、殺処分になるという悪循環が起きています。

 地域ネコとして繁殖を管理して、不妊去勢手術を施しているところも
あるほど。都市部では仕方がないことなのかもしれませんが、最終手段
としての不妊去勢であって、相島のように人間とネコが同じ町の中で
暮らしていける方法があるのではないかと思うのです。

 相島では、野良猫のために、買ってまでエサを用意することは
ありません。野生動物と同じように、エサが少なくなれば、子猫が育た
なくなって、自然と数が減っていきます。

人間は人間としての生活を守り、野良猫は野良猫として生活する。
双方ともあまり干渉せずに、それでもそばにいる。これが理想の関係だ
と思っています。

野良ネコ 2.PNG
消火栓の上で安心しきって眠っているネコ、
住民も気にしていない(同)


メスの子育ては命懸け

ネコの身体能力は、1万年前の野生のヤマネコ時代から、ほとんど変わっ
ていません。音もたてずに獲物に忍び寄り、一気に飛びかかって、
息の根を止める。

普段は一日中寝ているような飼い猫でも、そんな野生のハンターの姿を
隠し持っています。

 ネコの身体を観察すると、狩りをする仕組みに気づきます。代表的な
ものは、鋭い牙(犬歯)と爪。ネコの牙は細く、先端が鋭くとがって
います。これは獲物の頸椎の間に突き刺して、瞬時に脊髄を
切断するため。

また、猫の前脚は獲物に抱き着けるよう、前後だけでなく、内側や外側に
も自由に動かすことができます。

 よく子猫が人間にじゃれついて遊ぶ時、私たちの手足に爪を立てて抱き
着いてきて、甘噛みをしていることがあります。
これは私たち飼い主を獲物に見立てて、とどめを刺す練習をしているの
でしょう。

 このような野生的な荒々しさも魅力ですが、私が感じる一番の魅力は
「メスの強さ」。一般的に哺乳動物は、メスが子育てをして、
オスは何もしません。ネコの場合も、妊娠したメスは単独で出産し
子育てをします。

 相島で見かけたメス猫は、安心して出産・子育てができるよう、まずは
慎重に場所探し。オスによる子殺しの危険性があるため、隠れ家をオスに
見つかると、すぐに場所を変えてしまう程。

お腹が大きくなると、胎児のために栄養も取らなければなりません。
そのためのエサ探しも自分だけで。もちろん生むときも単独です。さらに、
子猫たちに乳をやるためには、ものすごいエネルギーが必要です。

子供たちを守りながらエサを探し、食べ物がない場合には、自分の身体が
痩せ細ってガリガリになってしまう程。

 野良猫の子育ては危険と隣り合わせ。でも、子孫を残すために
精いっぱい生き抜いている。この生き物としての強さがネコの魅力だと
思うのです。 =談 (西南学院大学准教授)

 やまね・あきひろ 1966年、兵庫県生まれ。国立環境研究所、
京都大学霊長類研究所、北九州市立自然史・歴史博物館学芸員を
経て現職。著書に『ねこはすごい』『ねこの秘密』がある。

   (聖教新聞)


野良ネコ.PNG
この写真の野良ネコたちは(3,4ひきはいるけれど、写真は1ぴき、いつも一緒に
いるとはかぎらない。私が住む地域の柳島海岸にいる野良ネコたち)
野良ネコと言っても近所の心根の優しい人たちが「えさ」を持ってきてくれる。
この人たちは私の知人でもある。


 
「人間と共存する野良ネコたち」を読んで

 西南学院大学准教授 山根明弘

「人間と共存する野良ネコたち」を読んだ感想はメスの野良猫の生き方が
強烈に印象に残りました。メスの野良猫はすごい!

出産から子たちを守り育て、そして、自分だけでエサ探しまで
しなければいけない。

 人間でいえば、旦那がいなくて、一人で働き、子育てしている離婚した
女性ですね。いや、それ以上に厳しい。野良猫の生活は危険がいっぱい。

これに反して、ペットの飼い猫はネコ本来の本能を忘れたようにぼけて、
好きなように飼われている。今は野良猫以外は、野外を自由に動ける
ネコはほとんどいない、ようだ。

子供のころ、田舎の我が家で飼ってたネコたちは、この野良猫に近い生活を
していた。ここに書かれているネコと形態はほぼ同じ。

 家の出入りは24時間出入り自由、出かけたい時に出かけ、家にいたい時に
家にいて、どこでも好きなところで屋内でも、屋外でもごろ寝している。だが、

ネコだって、昼寝してるだけではない。獲物も狙うし、縄張り争いで喧嘩も
するし、季節になれば、恋愛もする。

昼はもちろん、夜も猫の出入り口はいくつもあった。

 ネコは複数、長期にわたってかっていた。その中で頭のいいネコは窓が空いて
なければ、前足で開けて、入れたし。でも、そんなことしなく
ても、床下から、破れ障子からなどなどいくらでも入れた。

エサも家族の食べ残しを与えるくらいで決まった食事は与えなかった。
これは田舎だから出来ることであって、今の都会ではやりたくても出来な
いことだ。


2016年05月15日

信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(1)

93歳と100歳の兄弟、ハワイ在住の100歳のお兄さんは
毎年、春と秋には福岡の弟を訪ねてくるという。
しかも、一人で、驚きですね!

しかも、その時ピンポイントで日本旅行される!これらは
時間の自由と経済力、旅行にかかわる知識、
更に体力、気力がないと出来ませんね。

193歳.PNG
兄の九州男さん(右)の好きな言葉は「笑顔」弟さんは
「今年の年賀状は、手書きで436枚出しました」


信仰体験、ブラボーわが人生
第16回 わしら193歳ブラザーズ(1)

「池田先生が大好きじゃ。それが信心の根っこたい」


【福岡県・桂川町】先月の上旬、多田新さん(あらた、93)
=桂川支部、副本部長=に電話で取材を申し込んだ。
すると、こんなやり取りになったー。

「それでは来週お願いします」「はあ、ちょうど兄も
来ますけん」「お兄さんは何歳ですか」
「100歳たい」「おお」「ハワイに住んどる」

「え!ハワイから来られるんですか」
「はあ、春と秋には毎年来るけん」「え!家族と一緒に?」
「一人たい」「え!」。

数日後、アメリカSGIメンバーである兄の九州男さん
(100)が笑顔満開でやって来た。


九州男(以下、九)やっぱり、日本はええなあ。
新 そりゃ、よかばい。時差ぼけは大丈夫かいな?
九 全然ない。新 ほうね。明日はどげんするな?

九 わしの観光ルートに桜島が入っとるけん、
行かないかん。それと北海道新幹線が開通したけん、
函館にも行かないかん。

新 そら忙しか。九 帰りは金沢と和歌山の知り合いに
会ってくるよ。(三日後)

新 どうじゃった? 九 やっぱり日本はええよ。
世界一よ。函館の朝市はさいこうじゃ。
新幹線の隣の人に「あんた、どこ行くんね」と話しかけてな。

新 すぐ仲良しになるね、あんた。九 100歳じゃ、
ハワイじゃ言うと目の色が変わるけん。
「私は創価学会に入っとる。あんたも題目唱えてみなさい」
と言うてやる。

新 ビックリしょろうが。九 「ええことあるか?」
と聞くから、「わしの願いは全部かなった」とスマイルよ。
八ワイで家も建てたし(座談会の会場になっている)、

孫もひ孫も優しくしてくれる。生活にも困りゃあせん。
新 ほんま、幸せもんたいね。

○ ● ○

新 ほれ、懐かしい写真が出てきたばい。
九 ほお、持っちょったか。コリャあ「パイナップル部隊
(草創のハワイ男子部)」の写真じゃ。

新 池田先生のそばで写っとるんが、あんたやろう。
九 そん通りよ。みんな白シャツと黒ネクタイで決めとる。
先生に「多田君、(ハワイ広布を)頼む」

ち言われて、握手してもろうたんよ。ダイヤモンド支部長じゃった。
新 この写真も懐かしか。1985年(昭和60年)7月4日の独立記念日
パレードだい。ハワイのカラカウア通りはすごかった。

九 そういえば、75年の「ブルー・ハワイ・コンベンション(大会)」
を覚えちょるか。浮島のステージが見事じゃったのぉ。

新 忘れるもんか。兄さんが「来い」言うて電話くれたけん、
池田先生にお会いできたんじゃ。先生は遠くにおられたけん、
わしは首を伸ばして、ずっと見ちょった。

九 ほう、そうじゃったんか。そんころに、わしの家から
ブーゲンビリアの挿し木を持って帰ったろ。
あれはどうなったか。

新 庭に植えて太く育てたばい。鉢植えして筑豊文化会館に
持って行きよるばい。

九 わしもハワイの会館に届けよった。
花は兄弟の絆じゃの。

新 みんな喜んでくれちょるよ。

第2回へつづく (聖教新聞)

まとめ信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ
信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(1)
信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(2)
信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(3)

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2016年05月16日

信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(2)

九州男さんの家族.PNG
九州男さんのハワイの家族


信仰体験、ブラボーわが人生
第16回 わしら193歳ブラザーズ(2)

「池田先生が大好きじゃ。それが信心の根っこたい」



九 もう朝の勤行したか。
新 まだよ。一緒にやるか。(力強い勤行を終えて)

九 わしはの、題目を命と思うとる。
人間にはいろんな悩みがあるよ。題目をあげて悩みを
越えても、また悩みが出てくるよ。

新 そん通りたい。

九 「難来(なんきた)るを以て安楽と意得可
(こころうべ)きなり」(御書750ページ)よ。
悩むたびに、題目をあげて通り抜けたら、人間が強うなるよ。
その蓄積が人生なんよ。

新 初心を忘れたらいかんばい。自分を慎まな、道理が分からん
ようになったり、増上慢になるとよ。
唱題して素直な気持ちを思い出さな。

九 題目は何でも通じる。ありがたいことよ。
家内のことも忘れん(妻は91歳で他界した)。
死いうのは悲しいよ。残された連れは寂しいよ。

新 ・・・・・。
九 でも信心のおかげで、一緒におるというのが
よう分かるよ。だから全て感謝。毎日、感謝ばっかりよ。
おい、ティッシュ取ってくれ。

新 ほれ。
九 年取ると、子供みたいになるよ。
どいうわけか涙が出る。

新 わしも自然と涙が出ると。
九 いつな。

新 題目あげよっても、池田先生のこと考えるけん。
先生は自分の時間も自由に使われんで、
新聞書いてくれよっとでしょうが。
そげんこつ思うと、涙が出るばい。

九 わし、池田先生が大好きじゃ。
新 それが信心の根っこたい。

九 よし。今から博多ラーメン食べてくる(最寄り駅から
電車で約30分)。豚骨は最高よ。
ちょっと駅まで送ってくれんね。

新 満足げな顔して、わしを小間使いのごと使い回すけんね。
九 動かな、命がもったいない。ついでに帰りは、
別府温泉に寄るから遅くなる。

新 こんな年寄り、おらんたい。

第3回につづく (聖教新聞)

まとめ信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ
信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(1)
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信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(3)

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信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(3)

新さんとお奥さん.PNG
ブーゲンビリアを育てる新さんと、妻の綾子さん(92歳、支部副婦人部長)


信仰体験、ブラボーわが人生
第16回 わしら193歳ブラザーズ(3)

「池田先生が大好きじゃ。それが信心の根っこたい」


官約移民(ハワイ政府と明治政府が結んだ契約に基ずく移民)
の父を持つ九州男さんはハワイで生まれた。
日本で暮らした少年期。

戦争に足音が聞こえると、父は九州男さんを
カナダの親戚へ預けた。

近所から「国賊」と指を刺されたが、父は「命ほど
大事なものはない」と息子に言葉を残した。

だがオンタリオ州の収容所に収監された。
背中に赤い丸の付いた服を着せられた。
日の丸かと思ったが銃の的だと知った。

死ぬか生きるかの極限状態で痛感したのは、
命の尊さと、はかなさだった。

一方、新さんは戦史で最も無謀と言われた。
「インパール作戦」の将校だった。
ビルマ(現ミャンマー)で銃撃戦をくぐり、血に染まった。

撤退路では、帰国を目指す多くの兵が病と飢えに倒れ、
自決も目にした。生き延びた兄弟は、戦後の漠たる
不安にあえいだ。詐欺にもあった。

転機は1962年。くしくも2人は同じ年に、創価学会に
入会する。兄はハワイで、弟は日本で。

信仰の力は凄まじく、戦後初めて、生きることに
胸を張れた。生かされた意味と向き合う中で、
ブルー・ハワイ・コンベンションへの参加は、
2人にとって大きな原点となった。

人種と言語を越えた人間主義の連帯。夢のようだった。
池田SGI会長は紛れもなく、「平和の体現者」
だと確信した。

師弟の道を迷わず走った幾山河。
新さんには一つの「やり残し」があった。
3年前、ミャンマー中央を流れる旧称イワラジカワを
訪れた。

凄惨な記憶を残す地には、穏やかな風が吹いていた。
20人程と小舟に揺られた。新さんは一人、
手を合わせて追善の勤行をした。

「俺についてこい。日本に帰ろう」。
流れる涙はどうしょうもなかった。大きな花束を
土色の川面にささげた。

取材中、2人が口にしたのは「命を全うする」
という真実の叫びだった。

「命限り有り惜しむべからず遂に願うべきは
仏国なり」(御書955ページ)。

その一節が、兄100歳、弟93歳の「生きる」
ということだ。(天)

おわり (聖教新聞)

まとめ信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ
信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(1)
信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(2)
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2016年05月20日

子育てぷらざ、イヤイヤ期を乗り越えるコツ

イヤイヤ期.PNG

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子育てぷらざ、イヤイヤ期を乗り越えるコツ

2つの選択肢を用意

神戸市長田区、古水永美子(主婦 49歳)


現在24歳の息子と20歳の娘がいます。息子は
2歳からイヤイヤ期になりました。育児書を読むと、
「自我の芽生えと捉えましょう」
と載っていました。

何をするにも「イヤー!イヤー!」と反発するありさまで、
ちょっとした外出にもてこずっていました。

そんな時、公園でママ友に相談すると、「そういう時は
、二つ選択肢を出して、『○○と△△だとどっちがいい?』
って聞くと、スムーズにいくよ」と教えてもらいました。

なるほどと思い、すぐに実践。服を着る時には2種類の
服を用意して、「どっちがいい?」と聞くと、
「これー!」と選んでくれました。

ジュースを選ぶ時も「リンゴとミカン、どっちにする?」
と、二つ用意しておくことでスムーズに。
それまで悩んでいたことがうそのようでした。

育児書の知識も自分の気持ちを整理するために必要でしたが、
いざ、実践となると、同じ年代の子を持つママ友の
アドバイスがありがたいなと感じています。


「早くして」は言わない

大阪府東淀川区、森 恵美子(元保育士 56歳)


1歳半から3歳くらいの子供がいる若いママさんから、
「もう、イヤイヤばかり言うんです」と
相談されることがよくあります。

そんな時、横にいるお子さんに「そうなん?」
と話を向けると、言われることが分かっているのか、
私の顔をじっーと見つめてきます。

保育士をしていたころ、職場でよく「駄々をこねる」
と「わがまま」の違いや、反抗期をどう豊かに
乗り越えるかなどについて、話し合いしていました。

しかし、いざわが子となると、共働きの忙しさから、
何をするにも”早く”と気持ちが焦ってしまいました。

そんな中、私が心がけていたことは、「早くして」
と言わないことです。

子供が「イヤ〜」とひっくり返っても、一度は
「そうなん、嫌やったんやな〜」と、気持ちを
受け止めるようにしました。

一度抱いて気持ちを受け止めてあげると、
子供はそれまで嫌がっていたことがうそのちょうに
落ち着いてくれました。

急いでる時にイヤイヤされると、親も余裕がなくなり、
いらだってしまいがちですが、一度止まって受け止める、

その一瞬のやりとろいが子供の気持ちを
切り替えるポイントになると思います。

        (聖教新聞)

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2016年05月22日

世界の体験プラーザ ブルーの殿堂に迎えられる(1)

トミーブラウン1.PNG
「ブルースの殿堂」入りを果たしたトミーさん
(中央)の一家。< br>左端が息子のリチャードさん


世界の体験プラーザ
ブルーの殿堂に迎えられる(1)

仏法に巡り合った伝説のシンガー
アメリカのSGIトミーブラウンさん(本年3月に逝去)

R&Bのスターーダムに!


「ブルース」は19世紀後半に、米国南部のアフリカ系
アメリカ人の間に誕生した音楽。
ジャズやロックンロールも、ブルースから育まれていった。

2015年、全米ブルース財団は、新たに3人の偉大な
アーチィストの名前を「ブルースの殿堂」に加えた。
世界最高峰のギタリストとして名高いエリック・クラプトン。

”ロックの生みの親”ともいわれてきたリトル・リチャードと、
トミー・ブラウンだ。トミーさんは1931年、
ジョージア州アトランタに生まれた。

6歳になると友達の影響でタップダンスを覚え、
同時に音楽のとりこになった。母親が買ってくれた
ピアノとドラムセットに夢中になり、楽譜は読めなかったが
、一度耳で聴いた曲はそのまま演奏できるようになった。

10代半ばには、バンドを組んで州内の各地で
コンサートをするようになる。

トミーさんが49年に録音した「アトランター・ブギー」
の中に、当時はまだ珍しかった「夜明けまで
ロックンロールしようぜ!」という歌詞が登場する。

彼がロックの創始者の一人に挙げられるゆえんとなった
伝説的な歌詞だ。トミーさんは一躍、R&B
(リズム・アンド・ブルース)のスターダムに
押し上げられた。

51年には「ウィービン・アンド・クライン」で、
ついに全米R&Bのヒットチャート1位に輝く。

第2回につづく (聖教新聞)

世界の体験プラーザ ブルーの殿堂に迎えられる、まとめ
世界の体験プラーザ ブルーの殿堂に迎えられる(1)
世界の体験プラーザ ブルーの殿堂に迎えられる(2)
世界の体験プラーザ ブルーの殿堂に迎えられる(3)

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2016年05月25日

はなちゃんのみそ汁 亡き母 と娘の約束,動画

はなちゃんのみそ汁.PNG

はなちゃんのみそ汁 亡き母 と娘の約束

何時とは分からぬ近い将来の死期を宣告されたら、
あなたは!


20代半ばでガンになった後、愛娘を授かった
まだ若き母親が一人でも生きられるように愛娘に残した遺訓。

それを素直に受け入れて、実践する愛娘とその父親との日常の生活。

皆さんにシェアしたくて、投稿しました。

◇  ◇  ◇

母親の安武千恵さんは25歳で癌を患い、
33歳で亡くなられるまで自分がいなくなった後、

娘が母親なしでも生きていけるように
真剣にいろいろ娘に教えました。胸を打たれます。

安武千恵さんはありのままを受け入れ、短い生涯を
終えられました。

もし、千恵さんに病魔に打ち勝ち、病を克服してみせる
という強い信念があったら、
また境涯は変わったのではないかとも考えます。

強い信念と言っても、かってに生まれるものではありません。
こんな病に負けてたまるかと

一次的に強く思っても、困難が重なれば、
負けてしまうのが人間です。

しかし どうでしょう!強い信念を持てて、助けてくれる
仲間がいたら、境涯を変えられると思いませんか

人間は弱くても、正しい信心があれば、強くなれる。
正しい信仰は正しい生き方を教えてくれます。

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2016年05月27日

世界の体験プラーザ ブルーの殿堂に迎えられる(2)

トミーブラウン2.PNG

世界の体験プラーザ
ブルーの殿堂に迎えられる(2)

仏法に巡り合った伝説のシンガー
アメリカのSGIトミーブラウンさん(本年3月に逝去)

フアンクの帝王の感謝の叫び


ある夜、アトランタでのステージ。一人の若者が、歌を
披露させてほしいと言ってきた。
トミーさんは「もちもんさ!」と若者をステージに上げた。

その若者こそ、のちの”フアンクの帝王”と呼ばれる
歌手ジェームス・ブラウンだった。

後年、ジェームス・ブラウンは、ニューヨークの
ハーレムにある劇場アポロ・シアターで
満員の客席にトミーさんの姿を見つけると、こう叫んだ。

「僕のキャリアは、全てあの人から始まったんだ!」
だが、その後のトミーさんの人生は紆余曲折だった。

人気に目をつてた音楽出版会社に著作権料を
だまし取られるなどし、60年代に入るとブルース歌手を
やめて、コメデアンに転身した。

17年間、地方を回りながら、人々を笑わせ続けた。
「私のパフォーマーとしての真の目的は、
観客を喜ばせることだと気づいたんです。

だって夜通し笑ってる人が、家に帰ってケンカ
をすることはないでしょう」
(2015年、アメリカSGIの機関誌「ワールド・
トリビューン」のインタビューに答えて。
以下、同)

1977年に母親が亡くなったことを契機に、
それまで母親が運営していたケアハウス
(老人ホーム)を引き継ぐことになった。

「時々コメディーショーに立つこともありましたが
人のお世話をする”第2の人生”にも
十分やりがいを感じていたのです」

プロテスタントの家に生まれながらも、15歳の時に
教会に行くことをやめた。

「当時の牧師は、ミュージシャンなどろくな
仕事ではないと、私たちを見下していたからです」

第3回につづく (聖教新聞)

世界の体験プラーザ ブルーの殿堂に迎えられる、まとめ
世界の体験プラーザ ブルーの殿堂に迎えられる(1)
世界の体験プラーザ ブルーの殿堂に迎えられる(2)
世界の体験プラーザ ブルーの殿堂に迎えられる(3)

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2016年05月28日

世界の体験プラーザ ブルーの殿堂に迎えられる(3)

トミーブラウン3.PNG

世界の体験プラーザ
ブルーの殿堂に迎えられる(3)

仏法に巡り合った伝説のシンガー
アメリカのSGIトミーブラウンさん(本年3月に逝去)

今いる場所で幸福になれる


実は以前から、息子のリチャードさんに、たびたび
誘われていることがあった。

SGI(創価学会インタナショナアル)の会合だった。
リチャードさんは、30年前からSGI
の信仰をもっていたのだ。

これまでも、何度か参加をしていたトミーさん。

そこに集っている誰もが、どうしたら自他ともに
幸福な社会を築けるかと、真剣に話し合っている姿に、
自分と同じように人生を考えている人々だと感じた。

世界平和に尽くしてきた池田SGI会長の足跡にも、
深い感銘を受けた。

しかし、組織に対する抵抗感から、入会は躊躇していた。
2009年、ある会合の終了後、リチャードさんが言った。

「父さん。この世界を良くするために、一人で
闘わなくてもいいんだよ。多くにDGIメンバーが、
既にその戦いをやっているんだ。
父さんも一緒にやってみない?」

トミーさんは唱題の実践を開始し、確かな力を感じて入会。
御本尊を受持した。「題目を唱えると、いっもたどり着く
結論は一つです。私は何物にも負けることはないし、
紛動されることはないと」

栄光と失意の両方の波に翻弄された過去の全てに
感謝できるようになった。与えられた才能にも、
世界中を旅して得られた豊かな経験のも、
一段と感謝を深めることが出来た。

それこそが、トミーさんの実感した”功徳”だった。
息子のリチャードさんは、父が異なる宗教や価値観の
人にも、これまで以上に忍耐強く寛容を以て接し、
静に仏法を語るようになっていく姿に目を見張った。

華やかな芸能界のトップスターの座を離れて数十年。
むしろケアハウスを運営する仕事が、
人生の半分になろうとしていた。

「ほとんどの人が、私のことなど忘れていると
思っていました」15年春。思いもかけず、
全米ブルース財団の会長から、トミーさんに
電話がかかってきた。

そして、5月。トミーさんの名前は、歴代の音楽界の
巨人と並んで「ブルースの殿堂」に刻まれたのである。
人を喜ばせること。ただそれだけに生涯を捧げてきた。

晴れの日も、曇りの日も、助けを必要とする人々に
寄り添い続けてきた。息子の積年の祈りに包まれて、
生涯の最終章を師匠に見守られ、
SGIの同志と共に歩むことが出来た。

そして、堂々たる人生の勝利の証しを打ち立て、
トミーさんは本年3月、逝去した。伝説にブルース歌手の
訃報は全世界を駆けめぐった。

生前、機関誌への最後のインタビューで、こう語り残している。

「人間は、今いる場所で”幸福の楽土”築いていけるのだと、
このSGIの信仰は教えてくれました」

おわり (聖教新聞)

世界の体験プラーザ ブルーの殿堂に迎えられる、まとめ
世界の体験プラーザ ブルーの殿堂に迎えられる(1)
世界の体験プラーザ ブルーの殿堂に迎えられる(2)
世界の体験プラーザ ブルーの殿堂に迎えられる(3)

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2016年05月31日

与那覇歩 初関東ライブ/ヒヤミカチ節 動画

与那覇歩.PNG
与那覇歩 初関東ライブ/ヒヤミカチ節

これは沖縄民謡を与那覇歩さんがある居酒屋で(初関東ライブ)
で唄われたものですが、歌者が唄って、

お客さんが歌にあわせて、踊り踊って、
お客さんと一体となって盛り上がっています。

こういうのは見ててたのしいですね!
ぜひ 見てほしいです。

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