聖教新聞 体験談そのほか気になる記事

2016年08月18日

戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(1)

植野さんの体験談1.PNG

信仰体験。人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(1)

いま想う E 戦後71年の歩み

ビルマ(ミヤンマー)からの生還 (1)


【兵庫県西宮市】4年前のこと。植野正次さん(95)=春風支部、副本部長
=が、散歩の途中で公園に立ち寄ると、お年寄りたちの話し声が聞こえた。
「あんたはどこの部隊?」「食うや食わずで行軍しましたな」
「空襲も激しかった」、、、、戦時中の話のようだ。
「交ぜてもらってよろしいですか」。そう言って、植野さんも
輪に加わった。


1944年(昭和19年)7月8日、植野さんのいた第49師団歩兵第106連隊は、
戦艦大和で広島の呉を出発。タイを経由し、鉄道でビルマ(現・ミャンマー)
へと向かった。

41年の太平洋戦争開戦後、日本軍はビルマに侵攻し、全土を制圧する。
だが43年末から、英、米、中国などの連合軍反攻に遭い、形勢は逆転。
膨大な数の死者を出した(日本軍の死者数は、終戦まで16万人に及んだ)。

23歳の植野さんに不安はなかった。「”決して沈まない船”
と言われた大和に、意気揚々と乗り込みましたから、負けるなんて
少しも思いませんでしたな。

”敵を打ち負かしたる”とね」連隊は、翌45年3月から、ビルマにおいて
対英国の戦闘に加わる。植野さんの所属は、機関銃中隊。
歩兵の突撃を、銃撃で援護するのが任務だった。

「突っ込めー」の号令で進む仲間の歩兵たち。上空には戦闘機、
眼前には戦車と大砲が待ち構えていた。「あんな兵器の前に、銃剣1本
突き立てたって勝てるわけありません。でも、引いたって死ぬ。
どちらも死ぬなら、行くしかないわな」

戦艦大和で抱いた高揚感は、すでになかった。がむしゃらに機関銃を撃つ。
敵の人影が倒れていくのが見える。耳が張り裂けんばかりの戦車と大砲の
ごう音。その中で、次々に敵味方が死んだ。”これが戦争か”

ある日、敵の砲弾が目の前に落ちて爆発。破片が多数、両足に突き刺さる。
さらに2発目の砲弾。大木に直撃し、植野さんは折れた木々の下敷きに。
生き埋めとなったまま、日が暮れた。

”このまま、死ぬのか”。故郷の兵庫で農家を営む両親の顔が浮かんだ。
どれ程の時が過ぎただろうか。足音が聞こえた。「助けてくれ」。
敵か味方か分からないが、声を振り絞る。日本軍の別部隊に救助された。

負傷兵となり、川を下って軍の野戦病院に向かった。
搬送中、船が攻撃を受ける。甲板から川岸に投げ出され、意識を失った。
気づいた時は病院のベッドの上。間一髪で難を逃れた。

「破片が食い込んだ傷口から、ウジが湧いてきましてな。
蜂の巣みたいにへばりついた包帯をはがすと、ウジがポトッと
ベッドの上に落ちるんです。痛みと高熱がひどくてな。やっと眠れたと
思っても、また痛みにのたうち回る夢を見る」!

足に食い込んだ破片は13か所に上った。1週間後、9か所の破片を取り除く。
薬は底をつき、麻酔なしで手術を行う。
4か所は、戦後も破片が入ったままとなった。

負傷兵は続々と運び込まれた。ある時、植野さんは、病院の中庭に
薪がくみ上げられているのを目にする。その上には、手術で
切断された負傷兵の手足が。屋外で燃やした。

「曲がっていた手足が、燃やすと、ぴゅんと真っすぐに伸びるんですわ。
山のように積まれていてね。何とも言えんかった」
終戦の8月15日は、病院のベッドの上で迎えた。

「”ああ、やっと終わったー!”と思いましたよ。”負けたのか”も
”悔しい”もない。”こんなにまでして、人を殺すのは、もうええやろ”
と。そう思いましてな」

 2につづく  (聖教新聞)

 まとめ
戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(1)
戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(2)

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2016年08月19日

戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(2)

植野さんの体験談2.PNG

右の写真。ビルマ戦場において負傷兵を担架で護送する衛生兵
(毎日新聞社提供)
左の写真。日に3回の散歩を習慣にしている植野さん、右。
大半は、妻・君子さんと共に出掛ける。「いろんなことがあったけど、
うち(妻)のと一緒に歩いている今が、人生で一番幸せな時やで」と

戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(2)

いま想う E 戦後71年の歩み

ビルマ(ミヤンマー)からの生還

戦後、植野さんは、大阪で鮮魚店を開く。戦前、奉公していた店の大将が
植野さんを呼び寄せ、のれん分けをしてくれた。
妻・君子さん(89)=婦人部副本部長=と、懸命に働いた。
時として、夫婦は衝突することも。

鮮度が命の商売で、植野さんはせっかちだが、君子さんは自他ともに認める
「おっとりして性格」。君子さんが一人のお客と話し込んでいると、
「日が暮れるわ!」と植野さん。カッとなり、客の前で手を上げることも
しばしばだった。

そんな様子を見ていたのが、隣に店を出していた「天ぷら屋のおっちゃん」。
店先で声を掛けられた。「きょうの晩、座談会言うのをやりますのや。
一緒に来てみまへんか?」と。座談会で仏法の話を聞いた。

「この世に、神も仏もありますかいな。そんなんがおる言うんなら、
わしに、あんなにたくさん、弾の破片が当たるわけがおまへんやろが!」
”神国日本は無敵”と教えられ、戦場で目にした現実、、、植野さんは、
とうとうとまくし立てた。

しかし、”天ぷら屋のおっちゃん”は、柔和な笑顔でこう応じた。
「植野さん、宗教には、正しいものと、そうでないものがある。
何を信じるかが大事なんや。あんた、言うてましたな。

『500人の中隊で、13人しか生きて帰らへんかった』『残りの12人を
、この先も面倒見ていきたいと思っとる』って。なら、
この信心で幸せになってもらおうやないか」

その言葉に感心した。”うまいこと、言うもんや”。
家に戻ると、君子さんに告げた。「明日から、うちは創価学会や」。
終戦から10年後、1955年(昭和30年)のことだった。

入会の翌年、若き日の池田SGI会長が広布拡大の指揮を執り、
1万1111世帯の金字塔を打ち立てた「大阪の戦い」に巡り合う。
以来、折伏へ挑み続けてきた。

「残りの戦友12人に折伏が実った、、!と言うたらかっこええんやけど、
なかなかそうはいきまへん。やっぱり折伏は大変ですな」と植野さん。
冗談めかして笑うが、仏法対話は、最後の一人が亡くなるまで、
真心を込めて続けた。

「この信心で教えてもらったことは、”人を大事にせえ”いうこと。
ほんで”折伏してみんなを幸せにせえ”いうことや。
”人を殺してなんぼ”から、”人を幸せにしてなんぼ”、、、
それを教わったんやね」

正しい宗教と証明するため、仕事にも精が出た。鮮魚店は2店舗に拡大。
その後、次女夫婦が開いたスーパーマーケットでも、84歳まで鮮魚の
仕入れを担う。夫婦仲も、同志から一家和楽の模範と
尊敬されるようになった。

長年、大阪の地で広布に励み、2011年(平成23年)に三女夫婦の
住む西宮に越した。一年が過ぎたころ、植野さんは心に決める。
「新天地一周年に、折伏をやって池田先生にお答えしよう」。

そのころ、公園で戦時中の話をする”井戸端会議”に遭遇したのだ。
植野さんは、戦争の体験を語った。話は戦時中にとどまらない。
創価学会で生きてきた戦後の話も余すことなく。

後日、そこで意気投合した一人の壮年が学会に入会した。
91歳にして、有言実行の弘教を実らせた。

「天ぷら屋のおっちゃんのおかげやで」と笑う。
学会と出会い、心に定めた”人を幸せに”との誓い。
戦後71年の今も、少しも衰えることはない。(良)


  おわり  (聖教新聞)

まとめ
戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(1)
戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(2)

今年は終戦71年、戦後5.6年は物もない食料も乏しい
貧困の時代であった。
現在70歳以上の高齢者がすべてこの世を去れば、
生で戦争体験や戦後の貧困の時代を語る人々は
いなくなる。

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2016年08月20日

今年、高校1年になった孫娘、なぜか弓道部に入りました



今年、高校1年になった孫娘、なぜか弓道部に入りました。
中学時代は父親の影響でバスケットやっていました。
高校でなぜ弓道部を選んだのかは分からない。

なんでも、やりたいことはやってみれば、いいんじゃないの、と思う。


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2016年08月22日

戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(1)

1戦後の樺太.PNG

写真上 思い出したくもない、つらく悲惨な体験も、
「平和のために語り継いでいかねば」と栗田さん。
「私たちが経験した苦しみや悲しみは、子や孫、
そして子々孫々まで、絶対に味わわせたくないから」と
写真下 栗田さんが電話交換手として、勤めていた樺太・
豊原逓信局の建物。にぎやかな駅前通りにあった
(1939年撮影、写真:近現代PL/アフロ)

戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(1)

いま想うーGー戦後71年の歩み

樺太 終戦後の戦争

命を懸けて声を届けた電話交換手


【北海道苫小牧市】昨年7月、栗田八千子さん(88)=錦岡支部、副白ゆり長
=は、戦後の引き上げ後初めて、ロシア極東サハリンのホルムスクを
訪れた。かって「樺太」の「真岡」と呼ばれていた町。戦前の面影はない。
70年前の記憶を頼りに、栗田さんは中心街の一角で足を止めた。

持参した花を供え、題目を唱える。目を閉じると、同僚だった乙女たちの
声がよみがえってきた。恋を語り夢を語り合った、懐かしいあの声。
短い青春に別れを告げる、苦しみと無念のあの声、、、。
かつてそこにあった建物で、悲劇は起きた。”終戦後の戦争”である。


樺太 終戦後の戦争
「どうしょう!真岡が攻撃されている!」同僚の突然の声に、
栗田さんは慌てて、ブレスト(電話交換手の受話器)を取った。
終戦から5日がたった1945年(昭和20年)の早朝。

南樺太の中心都市・豊原(現在のユジノサハリンスク)の
逓信局で、17歳の栗田さんは当直勤務をしていた。
逓信とは、音信を取り次ぎ、送り伝えること。当時は、交換手が
手作業で電話回線をつないでいた。

栗田さんはとっさに、「だめよ、逃げて!」と叫んだ。
「死なないで!」と何度も声を上げた。
ブレストの向こうから、別の声がする。(苦しい、、、)

服毒自殺だと直感した。彼女たちは日頃、”もし敵が攻めてきても、
決して持ち場を離れず、堂々と自決しましょう”と確認し合ってきた。
数日前から、女性に対し、緊急疎開が命じられていた。
しかし、彼女たちは交換台にとどまった。

”電話が使えなくなれば、町はさらに混乱する。軍の通信にも
支障をきたしてしまう。仕事を続けなければ!”
この日の早朝、ソ連軍が艦砲射撃をしながら真岡に上陸。

だが、彼女らは職場を死守し続けた。そして、次々と青酸カリを。
9人が若き命を自ら断ったのである。
「70年以上たった今でも、彼女たちの最期の声を忘れることができない。
思い起こすたび、心臓をえぐられるような気がします」

2日後の22日午後、栗田さんがいた豊原の町も、空襲を受けた。
逓信局の2階にいた彼女は、地下室にかけ下りた。
そこは、逃れてきた人々であふれかえっていた。血まみれで横たわり、
生死も知れぬ人。

頭が吹き飛ばされた赤ん坊を、ぼうぜんとしておぶったままの母親。
爆音が収まると、地獄のような光景が怖くて、栗田さんは職場に戻った。
外は一面、火の海である。

毛布を頭からかぶり、震える手を押さえながら、惨状を札幌の逓信局へ
伝えた。だが、日本軍は解散しており、援軍は来ない。
具体的な指示や助言も得られなかった。

「”戦争が終わった本土”と”戦争中の樺太”との間には、
埋めがたい空気の温度差がありました。」
夕方、女性は帰宅を命じられ、栗田さんも自宅へ。
ソ連兵が襲ってくるかもしれないと、部屋の明かりを消し身を潜めた。

この日、引揚者を乗せて、樺太から北海道へ向かっていた舩3艘が、
潜水艦の攻撃を受け、1700人以上が死亡。
これにより、引揚事業は中断。栗田さんら大勢の日本人が
樺太で孤立することになる。

豊原では、焼夷弾による火災が、翌23日まで続いた。
同日深夜には、ソ連軍の進駐が始まる。戦闘は終結したが、各地で、
暴行や略奪が頻発。

そうした行為をソ連当局も取り締まったが、一部の蛮行は
なくならなかった。夜、住民は表戸を板で打ち付け、女性を天井裏や
地下室に隠す。

いざという時、すぐに家の外へ出られるように、「どんでん返し」
と呼ばれるからくりも作られた。栗田さんも、何度も危険な目に遭った。
便所の小窓から外へ飛び出し逃げたこと。

拳銃を突き付けられていたところを、通リすがりの人に助けられたこと。
理不尽な嫌疑でシベリア送りを命じられたこともあったが、
友人にかくまってもらって逃げ延びた。

出征中の夫・幸次郎さん(故人)の留守を守り、生後間もない病弱な
長女・幸子さん(70)を、懸命に育てた。過酷な収容所生活でも、
み知らぬ人に頭を下げ、母乳を分けてもらったことも。

”もう無理”と何度思ったかしれない。だが、幼子の寝顔を見ては
涙を拭いた。”この子のために、何があっても生き抜いてみせる!”
と。

  第2につづく  (聖教新聞)

まとめ
戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(1)
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2016年08月23日

戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(2)

2戦後の樺太 .PNG

長女・幸子さん(前列左端)ら子や、孫、ひ孫に
囲まれて。「立派に育つ後継の子らに大事にされて、
私は本当に幸せ者です」と。(同中央が栗田さん)

戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(2))

いま想うーGー戦後71年の歩み

樺太 終戦後の戦争

命を懸けて声を届けた電話交換手


栗田さんが、本土へ引き上げを果たすのは46年末。
その後、東北や北海道各地を転々とし、復員した夫・幸次郎さんと再会する。
家族一緒に暮らしていくが、10年、15年とたっても、生活は貧しいまま。

幸次郎さんは酒乱で、真面目に働かない。5人の子を養うため、栗田さんは
働き詰めの毎日。”幸せなんて私とは無縁”。そう思って生きてきた。
そんな中、「あなたも必ず幸せになれる」と熱く語る人に出会う。

創価学会の壮年だった。そんなことを言われても、信じられるわけもない。
62年4月、幸次郎さんが酔った勢いで入会を決め、栗田さんも渋々従ったが、
学会活動に取り組むことはなかった。

ただ、亡くなった家族や樺太の同僚たちの供養にと、勤行・唱題は
地道に続けた。その後、幸次郎さんが班長(当時)に任命されたが、
学会活動を真面目にやらない。

仕方なく、栗田さんが班員への連絡など、活動せざるを得なくなる。
弘教にも歩いた。そのうち、徐々に変わったことが起き始めた。
長年苦しんできた貧血が、すっかり治った。
そして幸次郎さんが真面目に働くようになった。

さらに、貧乏から抜け出せなかったのが、一軒家を建てられるまでになった。
それだけではない。「終戦直後から、ずっと、目の前の悩みで
いっぱいだった私が、気づけば、人の幸せを祈れる自分に変わっていた。
性格も明るくなった。それが、一番の功徳かもしれません」

戦中戦後を生きてきた人は、誰もが、生きることに精一杯だった。
時には人をだまし、陥れてでも、自分を守る時がある。
そんな人間の醜さ、心の弱さを、栗田さんも幾度となく目にしてきた。

それも仕方ない、と思って生きてきた。
だがそうではない、と学会が教えてくれた。もっと自分を高められる。
そう訴える「人間革命」という哲学に出会えた。

そして、”自分も幸せになれるんだ”と思えた。
この時、栗田さんの”戦争”は終わったのかもしれない。
今、人々の要望に応え、各地で戦争体験を語る活動も続けている。

来年で卒寿を迎えるが、「体が動く限り、平和の尊さを訴え続けたい」
と心に決めている。

命を懸けて声を届け続けた、あの乙女たちの分まで、と、、、。

 (北海道支局編集部発) (聖教新聞)

  おわり

まとめ
戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(1)
戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(2)

昭和20年8月15日に戦争は終わっている。本篇の記事にあるように、戦争は終わり、
樺太から日本兵はひきあげた。そんな状況の中、ソ連兵は攻撃してきた。そのため、
これからという若い女性の電話交換手たちは無為に命を終えた。
終戦後、日本軍が引き揚げた後、ソ連兵は武器を持たぬ一般庶民を攻撃してきた。

多くの日本人が殺された。こらは犯罪ではないのか。
ソ連がここまで強硬に出れたのは、英、米、ソの首脳によろ
ヤルタ会談の戦後処理の密約があった。

ソ連が犯した反逆行為は決して忘れてはならない。

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2016年08月25日

戦後70周年 奇跡の将軍・樋口季一郎、動画

樋口季一郎.PNG

戦後70周年 奇跡の将軍・樋口季一郎

樋口季一郎中将はソ連から満州に逃れてくるユダヤ人2万人を
人道上の立場から救った。
米軍の攻撃からキスカ島に残る5000人の軍人の
の撤退に成功した。
戦後、ソ連軍が占守島を攻めてきて、
その戦いに勝利した。

一人でも多くの人に教科書では教えない
近代の歴史を知ってほしい。
そいう願いを込めてこの動画をお送りします。


昭和20年8月15日終戦、その3日後8月18日
ソ連軍が深夜就寝している時に
日本の領土の千島列島千守島に進攻してきた。

この時点で千守島は武装解除を半ば終えていた。
こういう状態下で進攻してきたソ連軍と交戦した。

この時、北海道本部には樋口季一郎中将がいた。
この報告を受けた樋口中将は断固撃退を命じた。

終戦になり、司令部からは武装放棄の命令が出ていたが、
現地では樋口中将は断固撃退を命じた。
自衛のためである。


日本がドイツや朝鮮のように分断されなかったのは、
日本軍がこの千守島を守りきったからだと言われる。

「ヤルタの密約」チャチル、スターリン、ルーズベルト。
戦後の日本領土割拠について、スターリン、ルーズベルトは
密約を交わしていた。それで

ソ連は北海道、東北までも占拠する野望があった。
これが実現していたら、日本も分断されていた。
もしくはソ連領土になっていただろう。

朝鮮は北はソ連、中国、南は米国が後押しして、
未だ分断されたまま。

ソ連は北方四島を現在もずる賢く占拠しいる。
戦後、兵器を破棄したばかりに日本兵はソ連の捕虜になり、
シベリアに送られ、死亡した日本兵多数。

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2016年08月26日

ブラボーわが人生「この信心、分かんない人はお気の毒です」(1)

ナツさんの場合1.PNG

【茨城県ひたちなか市】自分のことを「家で一番の偉さま」という。
4世帯で暮らす、池田ナツさん(95)=津田支部、支部副婦人部長。
ひ孫に「ばあちゃん、ご飯だよ」と呼ばれる食事のおいしいこと。
いつも一番風呂で、湯船を「年寄り用に作り替えてくれた」
らしい。子犬とじゃれあい、洗濯物を畳み、掃除機をかける日々。
「みんな信心で一致してるから、この家庭にふったく(不満)
がねえの」。その声に、一家和楽がにじむ。

信仰体験 
ブラボーわが人生「この信心、分かんない人はお気の毒です」(1)

第20回 一家和楽 ナツさんの場合

昔のことを言うと恥ずかしいけど、それはそれは大変でした。
父は大酒飲みでむなしく暮らすもんだから、若くして死んじゃった。
オレは5人きょうだいの一番上。

足が悪かった母の代わりに、オレが家族を支えたんだ。
養蚕の時期は蚕さん、農業の時期は農家さんで働いた
朝4時から汗水流して1日60銭ほっち。
でもその金が欲しかった。

米を食べた記憶がないほど、貧乏の底に生きてきたよ。
3人の母となったけど、戦後のひもじさってないね。
3年前に亡くなった主人(米蔵さん)が炭鉱で働いて、オレは
ダムで働いた。

つるはしで穴掘ってると、一度だけ濁流に命を取られかけたんだ。
働いて、働いて、働き抜いて。それでも貧乏の棒が取れなくて。
結核のきょうだいを養ってたもんで、子供には粗末なご飯しか
出せませんでした。

心が疲れたのかもしれないね。オレは皮膚の病気になったんだ。
毛が抜けて、膿が出た。どこへ行っても治んない。
アタマに包帯巻いてたもんだから、近所の子供が鍋をたたいて
オレを囲むんだ。

それが嫌で、昭和32年(1957)に信心したのさ。戸田先生は
「やればやっただけ功徳は大きい」と教えてくだすった。
信心を語り歩いたよ。まさかりで追いかけられたことも
あったっけ。

あれは冬の日だ。頬被りして街灯のない道を急いでいると、
道端の家の窓から明かりが見えたんだ。
こたつに入って、楽しそうに笑ってた。オレはちょっぴり
悲しくなったけど、仏法は勝負だもん。

この人達が勝つか、オレが勝つか。
子供にだけは、オレのつらさを味わわせたくなかったからね。
自分にムチ打って、折伏したもんだ。

昭和39年9月でした。池田先生が水戸会館にいらしてな。
オレは縮こまって自己紹介したの。そしたら、先生がオレの手を
握ってくれたんだ。「私と同じ名前だね。前世は親戚だったかな」
って。

すぐに地区の皆さんに話したよ。オレの手を代わる代わる
握って来たんだ。この時ばかりは万歳万歳で、
涙がポロポロと流れたね。

三度の飯より学会活動が好きになりました。
バス代がなくても学会歌を歌いながら、遠くの村まで折伏の足を
運ぶんだ。

気づけば皮膚病が治ってた。生活は貧しかったけど、
心が裕福になりましたよ。子供は気まずさそうに給食袋を
見せるんだ。オレは「心配すんな。うちには金のなる木があんだ」
とご本尊様の前に置いて、題目あげんの。

なーに、子が寝た後、夜なべしたお金を給食袋に入れて、
木の枝にぶら下げてやるのさ。
もつたいないけど、子供は御本尊様を「金のなる木」だと思ったようだ。

信心を教えるのは、そんなところから始まるんじゃないかな。
一丁前に皆さんと肩を並べられるようになったのは、何時だったかねえ。
腹をすかせた男子部に家でラーメンを食べさせたんだ。

小さい食卓で、オレの子も身を寄せ合うようにして、すするんだ。
その後ろ姿を見た時に、ようやく一息つけた気がしたねえ。
学もねえ、取りえもねえオレだけど、貫いたことは一つです。

「聴聞する時は・もえたつばかりをもえども・とをざかりぬれば・
すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たいせず信ずるなり」
(御書1544ページ)。これなんだ。

 2につづく  (聖教新聞)

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2016年08月27日

ブラボーわが人生「この信心、分かんない人はお気の毒です」(2)

ナツさんの場合2.PNG

信仰体験 
ブラボーわが人生「この信心、分かんない人はお気の毒です」(2)

第20回 一家和楽 ナツさんの場合

どんな会合にも
子供を連れて行きましたよ。
オレの生き方を一番近くで見てほしかったんだ。
子供は立派な信心をしています。だってオレに、気合を入れるように
なったんだもん。

十数年前、オレは坐骨神経痛になってなあ。
ノコギリで切られるほど痛いから、いろんな煩悩が湧くわけだ。
もう駄目だなと弱気になるところへ、娘が「何十年信心してるの!」
と、一喝するわけ。

オレもカチンときて、朝4時から題目ですよ。
畳に汗が染みこむぐらい、題目あげたんだ。ひょいと思い出したのは、
池田先生と握手したことなんだ。手のぬくもりって不思議だねえ。

だんだん湧き上がってくるんだもん。そしたら楽しい題目になっちゃうの。
御本尊と境地冥合した時の涙は、なんともいえない。
生きてきて、こういう幸せはないね。
腰の痛みが3週間で治ったよ。

煎じ詰めればオレの人生、池田先生と御書以外には何もない。
「池田先生」と言うだけで、胸が詰まっちゃう。南無妙法蓮華経が
オレになかったら、今の幸せはなかったよ。

過去のつらさは全部、今の幸せにつながる準備だったんだ。
この信心、分かんない人は、お気の毒です。
主人がまだ生きている時、娘夫婦が「一緒に住まないか」って言ってくれたんだ。

そりゃあ年金があるから、普通に暮らせるよ。でも年を重ねると、
面倒になるんだ。おなかすいたら、お膳が出て「さあどうぞ」
っていうのは無いもんかねえ、と一緒に題目上げてたわけです。

おかげで今は、朝起きると手も濡らさずに食べたいものが、ちゃーんと
出てくる。ひもじい思いをさせた子供が、オレを食べさせてくれるんだ。
「ありがとう」と言える幸せがある。

不自由なく暮らせる今こそ大勝利。だから信心の確信が、ドンドン湧いちゃう。
ああ今日も、ひ孫がオレを呼ぶ元気な声が聞こえてくる。
こんな楽しい人生、まだまだ終われないから、おじいちゃん、もう少し待っててね。

 おわり (聖教新聞)


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2016年08月28日

八田與一 台湾の教科書に載っている日本人の物語

八田與一.PNG

八田與一 台湾の教科書に載っている日本人の物語

日本は1895年、日清戦争に勝利し、その後、
日本国として台湾を統治し始めました。

この当時台湾は貧しかった。
1945年、日本は太平洋戦争に敗れ、敗戦国になるまで
台湾を日本国として統治しました。

その間に日本は台湾の発展の基礎を築いた。
だから 台湾の当時を生きた体験者は日本語が話せます。

「八田與一 台湾の教科書に載っている日本人の物語」

では八田さんは何をやったのか。
当時、台湾1大きい嘉南平野は作物がほとんど獲れない
荒地でした。嘉南平野に農業を起こすには巨大なダムが

必要である。だから 八田與一さんは巨大ダムを困難を
乗り越え建設しました。

台湾発展に多大の貢献をした八田與一さんを
台湾の人々は現在でもあがめています。


烏山頭ダム 建設
1920年(明治28年)
烏山頭(うさんとう)ダム 建設始まる。
だだし 予算の半分は現地住人の負担。

1923年 関東大震災発生(大正12年9月1日)
予算削減のため日本人作業員解雇された。
現地の人々を残したのは八田さんの采配。

1930年(昭和5年)
この後、不毛だった嘉南平野は台湾1の穀倉地帯へと
開拓されていった。 



東日本大震災、あれから6年目になります。

東日本大震災、あの時、台湾からの義捐金200億円
を送られました。
この動画では八田さんを取り上げていますが、
台湾の人達が日本に協力的なのは、
八田與一さんだけの力ではありません。

台湾は50年の間日本国として、国全体が開発されていた。

日本国は八田與一さんが完成させた烏山頭ダムだけではなく、
教育、インフラ、産業、農業、すべてに関わり、
学校教育は日本語で行われていた。

50年にわたる日本の台湾への貢献を忘れてはならない。

日本は台湾を自国として、建設していたのだ。
それが戦後の台湾の成長に大きく貢献している。

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2016年08月29日

とてつもない日本、動画



普通に暮らしていて、普通にあるものだから普通と
思っているのですが、外国から見たら、「日本はすごい」
日本人の日常の振る舞い、交通機関の時間の正確さ、

世界最速リニア中央新幹線などなど。

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2016年08月30日

戦後71年の歩み・悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(1)

体験談、中澤さん1.PNG
ひ孫を抱いて、笑みをこぼす中澤さん。「信心という宝を
一人一人に伝えていかなきゃね」と(左から、孫の拓海さん
、長女・純子さん、中澤さんとひ孫の早川真珠ちゃん、
孫の早川瑠美さん)


【茨城県つくば市】戦争が終結すると、戦地や日本の植民地、
占領地にいた軍人や民間人、合わせて600万人以上が日本へ帰還した。
その中の一人、中澤とく江さん(77)=館野広宣支部、婦人部
副本部長=の引き揚げは、「悲惨という言葉では言い尽くせない。
生きて帰れないのが当たり前だった」。
今、6月に生まれたばかりのひ孫の世話に励む彼女。
死を直視し、人生の意味を問い続けたからこそ、新たな命を育む
喜びは深い。

信仰体験 いま想う 戦後71年の歩み 

悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(1)

親子を引き裂いた満州からの引き揚げ

1932年(昭和7年)、中国東北部に日本の傀儡国家「満州国」
が建国された。
中澤さん一家は、新たな農地を求めて41年に茨城県から満州へ。
当時2歳。たどれる記憶はない。

だが6歳からの出来事は、残酷なほど心に刻まれている。
日本の敗戦を機に、生活は一変した。
満州国を支配していた日本は、ソ連兵や現地人の襲撃に
さらされた。

引き揚げまでは命の危険ばかり。関東軍(日本陸軍の満州駐屯部隊)
から、自ら命を絶つための青酸カリが配られた。
ある日、燐家の婦人が血相を変え、家に駆けこんできた。

事情を聞いた母は、すぐさま燐家に走った。
中澤さんも後を追う。家の中には、婦人の5人の幼子が布に覆われて
横になっていた。枕元には、白米に箸が刺さった茶碗が。
「お父さん、お母さんも後で逝くから」と、
青酸カリを飲まされて亡くなっていた。

年長の娘さんが血を吐き、のたうち回っていた。
娘が死に切れなかったため、燐家の婦人は、中澤さん宅に青酸カリを
もらいに来たのだった。口に含ませると、すぐに息を引き取った。

中澤さんは泣きじゃくって家へ帰った。「母は生涯、毒をわたすしか
なかったことを悲しそうに話していました」
後日、母と共に、6人の子が埋められた場所へ向かった。

そこで、地面から飛び出した腕や足を見た。周りには、
数匹のオオカミが死んでいた。オオカミが遺体を掘り返し、
毒が回ったのだろう。母は無言で土をかけていた。
中澤さんは母の身体にしがみつき、家のそばで摘んできた
紫色の花をたむけた。

妊娠していた母は、46年春に、弟・塚越良安さん(70)=副支部長=
を出産した。中澤さんの胸には、喜びと同時に恐怖も湧いた。
「子どもは足でまといになるから、小さい子ほど殺されました」。
不安に駆られ続けた。眠れぬ日々を重ねた、ある夜、物音で目が覚めた。

何かをすりつぶすような音。父が青酸カリを水に溶かし、
生後まもない弟に与えようとしていた。「あんちゃん、早く助けて!」。
中澤さんの叫び声に飛び起きた兄は、弟を抱きしめ、「俺が育てる!」
と。以来、兄と一緒に弟の世話を担った。

父は事あるごとに、母と言い争った。そのたびに母は、
「死ぬ時は、みんな一緒だ」。それが口癖だった。
父親が信じられなくなった。生きて日本に帰れるとも思えなかった。
「親に殺されるかもしれない。生きていても、地獄のようだった」

引き揚げまでの道のりは、よく覚えていない。ハルピン、新京・・・
耳にした都市の名前だけが、家族の足跡を物語る。
いつ襲われるかもしれない恐怖の日々。女性は連れ去られた。
当時16歳の姉も姿が消え、二度と会えなかった。

47年の春、引き揚げ船に乗った。京都の舞鶴港に着くと、声を掛けられた。
「お人形さんを背負っているの?」「人形じゃないよ。弟だよ」
家族と同じように、弟も痩せ細り、はたから見れば、生きているのか
どうかも分からないような状態だった。

2につづく  (聖教新聞)

まとめ
悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(1)
悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(2)

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2016年08月31日

戦後71年の歩み・悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(2)

体験談、中澤さん2.PNG

満州からの引き揚げ孤児33人が臨時列車で品川駅に着き、
引き取り先が決まるまで保護された
(1946年12月5日撮影、朝日新聞社提供)

信仰体験 いま想う 戦後71年の歩み F

悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(2)

親子を引き裂いた満州からの引き揚げ

苦悩は引き揚げ後も続いた。茨城県稲敷群で一家は農家を始めるも、
貧乏のどん底だった。小学生の中澤さんには、一本の鉛筆すら
買えなかった。足には母の編んだわら草履、背中に弟を背負って
小学校へ。

「満州帰り!」と、ののしられた。家の手伝いもあり、
学校から遠のいていった。父は酒を浴びるように飲んでは、
母に暴力を振るった。父を避けようと、夜は野山へ。

月明かりに照らされ、土の上で寝るのが日常だった。
15歳で東京へ出稼ぎに出た。小・中学校にろくに通えず、読み書きは
おろか、数字の計算も全くできない。

お金も触らせてもらえず、惨めな思いを何度も味わった。
長生きもしたくないが、死ぬのも怖い。辞書で、「幸福」の意味を調べては、
ため息をつく青春だった。

「人なんて誰も信じられない。自分には幸せなんて、ほど遠かった」
結婚し、出産を控えた63年、創価学会に入会する。
明るく生きる近所の婦人から折伏をされると、母の姿が浮かんだ。
「この信心で、母親を幸せにしたかった」

”ただ幸せになれるのなら”と信心を真っすぐに貫いた。
砂利道を歩き、「泥だらけになって折伏に走った」。
聖教新聞を読むために辞書を開いた。ほとんどの漢字に振り仮名を付け、
学んだ。

「私にとって、創価学会は人生の全てを学べる総合大学でした」
座談会で同志の変毒為薬の体験談に触れれば、境遇を嘆かない自分になれた。
夫、弟、そして母親が、入会するのに時間はかからなかった。

中澤さんは幼少から歌が大好きだった。いつも学会歌「今日も元気で」
を歌いながら、2人の子を乗せ自転車をこいだ。
山を越え、砂ぼこりにまみれても、「私たちは誇り高き親子よ!」と、
笑い飛ばした。

母もまた新聞の文字が読めず、その分、会合に参加しては、
うれしそうな顔をしていた。69年、胃がんと闘った母が亡くなった。
最後の言葉は、「題目を唱えられて幸せだよ。ありがとう」。
試練の連続を越え、迎えた最期の姿に、中澤さんは妙法の力を感じた。

「法華経を信じる人は冬のごとし冬は必ず春となる」
(御書1253ページ)。
”この一節の証明者になる”。そう心に定めて、
建設業を営む夫を支え、時に自らも軽トラックを運転した。

98年、夫が58歳で亡くなった。「事あるごとに、人間は悲しくなる。
それでも、同志がいて、池田先生がいるから、
立ち上がってこられたんです」
池田SGI会長は、つづっている。

「世界の平和とは、お母さんが幸福になることである。
一日また一日、まじめに生き抜く女性が、一番、
幸福を勝ち取っていくことである。そのように、文明の中心軸を
変えていくことが、広宣流布であり、立正安国である」

中澤さんが「私の境涯革命」と語ったのは、中国への思いの変化だ。
日本が蹂躙したがゆえに、中国にも苦しんだ父母、子どもが大勢いる。
日中友好に徹し抜くSGI会長の行動に触れ、「恨んでばかりだった
中国の方々に申し訳ない」と題目を唱えてきた。

8年前、両膝に人工関節を入れたが、学会活動の足は止まらない。
話せば笑顔が絶えず、明るい中澤さんは、「父と母に、人生に、
心の底から感謝できる。そんな自分になれたことが本当に幸せなんです」
と。

人生に悲嘆した彼女は、孫、、ひ孫たちの笑顔に囲まれ、
今月3日、喜寿を迎えた。(光)

 おわり  (聖教新聞)

まとめ
悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(1)
悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(2)


戦争ほど、残酷なものはない。 戦争ほど、悲惨なものはない。
(人間革命 第1巻 黎明)この体験談の中澤さんの終戦から
引き揚げ中の恐怖と苦しみ、見知らぬ異国でいつ殺されるかもしれぬ
日々。

幼少の女の子が弟を背負い、必死に生き抜こうとする不憫と哀れさ。
帰国後の日本での貧乏時代の体験、
「満州からの引き揚げ」といじめられ、学校にも行けなかった女の子。

戦争ゆえの悲劇である。

引き揚げに際して、関東軍から、
まさかの時には自決せよ。と「青酸カリ」を渡される。
6,7歳の女の子が弟をおぶって、引き揚げでさまよう。
いつ殺されるか分からない恐怖。

親がわが子を殺さざるを得ない、極限状況。
16歳の姉は誘拐されて、その後二度と会えない。
なんて残酷で悲惨なのだ。しかし 敵味方どちらでも、

戦争そのものが残酷で悲惨なのです。敵も味方も苦しむ。
戦争で破壊されたものは、また 再建しなければならない。

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福光の象徴(シンボル)新東北文化会館

新東北文化会館.PNG

福光の象徴(シンボル)新東北文化会館
11月の開館へ 竣工引渡式
最新の免震構造安全性が格段に向上

新生・東北のシンボルとなる新「東北文化会館」が、仙台市
宮城野区に完成。竣工引渡式が30日午前、同会館で行われた。
新会館は、鉄筋コンクリート3階建て。

最新の免震構造となっており、安全性が格段に向上している。
災害時には地域の一時避難所としても利用できる。
今後、備品の搬入等を経て、本年11月の開館を予定している。

 2011年3月11日。東日本大震災の発生直後、学会が自主的に
一時避難所として解放した42会館の一つとして、東北文化会館
も約1000人の避難者を受け入れた。

  (聖教新聞)

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