聖教新聞 体験談そのほか気になる記事

2016年12月08日

信仰体験 いま想う 戦後71年の歩み 信心で無力感は使命感へ(1)

通信兵として 1.PNG
磯村さんは、「戦争とは破壊。全てを破壊することじゃ。
いいことは一つもない」と戦時を振り返る。戦後は、
価値を創造する創価の哲学を一心に広めてきた


【山口県周南市】」本年、93歳になった磯村勝美さん=熊毛栄光支部、
副支部長=は、感慨深そうに振り返る。「まさか、この年まで元気で
生きられるとは思わなかった」。
19歳から3年間、戦地で過ごした。生きて帰ったものの、たびたび
体調を崩した。ふとした時に脳裏に浮かぶ、戦場で目の当たりにした
兵士たちの亡きがら。心に刻まれた傷が癒えることはなかった。

信仰体験 いま想う(9)戦後71年の歩み

戦場で奪われた無数の命を胸に――

信心で無力感は使命感へ(1)


通信兵として中国大陸に出征

うせ戦争に行くんだから、早く兵隊に入ろう”。軍需会社に
徴用されていた磯村さんは、太平洋戦争が始まり、1年がたった1942年
(昭和17年)12月、通信隊に志願した。

大東亜共栄圏の名の下に、中国大陸に侵攻していた日本陸軍の第39師団に
配属され、師団司令部と大隊の交信を担う通信兵として、長江中流部に
位置する湖北省へ向かった。

”生きては帰ってこられない”と覚悟して。45年3月下旬、米軍による
空襲が激しさを増す中、磯村さんにとって初めての作戦が決行される。
荊門から襄陽を目指し、歩兵大隊と共に北上した。

昼は空襲を避けて木陰に隠れ、日が沈み始めると敵陣へ突っ込む、
切り込みが行われた。後方からは、野砲による援護射撃が。
通信隊はどんどん前進する歩兵を、無線機を背負ったまま必死に
追い掛ける。

夜が明ければ、敵も味方も入り乱れた、無数の死骸がそこかしこに
横たわっていた。「見たくない。早く通り過ぎたい。ひどいもんじゃ。
殺し合いじゃ」

通信兵として 2.PNG


通信兵とはいえ、磯村さんも、いつ流れ弾に当たって命を落とすか
分からない。「いつも、おふくろのことを頭に浮かべていた。
それしか考えんかった」途中、民家が炎に包まれている光景を
何度も目にした。

「中国兵が使わんように、日本軍が燃やしたんじゃろう。家のそばで、
ぼうぜんとしている年寄りが、あまりにもかわいそうじゃった」
「戦争なんかやるもんじゃない。上の者はどうか知らん。わしら下の者は
戦争に出たくないよ。だけど、しょうがない。義務じゃからな」

日本軍は襄陽を占領。一部の兵隊は北上を続けたが、反撃が予想され、
反転。約20日間、続いた作戦は4月上旬に終了した。
磯村さんの分隊は襄陽占領後、当陽での警備に就いた。

8月になると、師団司令部からの無線を傍受していた戦友から、
「日本は負けるらしいで」と聞かされた。そして15日、敗戦が伝えられた。
”ああ、終わった”と力が抜けた。

捕虜となり、使役を課せられ、半年後、帰国が命じられた。

 第2につづく (聖教新聞 2016/09/01 木)

まとめ
信仰体験 いま想う(9)戦後71年の歩み 信心で無力感は使命感へ(1)
信仰体験 いま想う(9)戦後71年の歩み 信心で無力感は使命感へ(2)

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2016年12月09日

信仰体験 いま想う 戦後71年の歩み 信心で無力感は使命感へ(2)

通信兵として3.PNG
中国大陸の戦場で連絡を取る通信隊の兵士
(毎日新聞社提供)


信仰体験 いま想う 戦後71年の歩み

戦場で奪われた無数の命を胸に――

信心で無力感は使命感へ(2)

通信兵として中国大陸に出征

 戦から10ヶ月後、山口県のわが家にたどり着いた。玄関に飛び
出してきた両親は、生きて帰った息子を前に、しばらく絶句していた。
その後、闇米を求めて鹿児島へ行ったり、出稼ぎのために北海道の
炭鉱へ行ったりするうち、48年に、戦友から横浜での仕事を紹介された。

ところが、体調が良くない。元気が出ない。戦場での日々が、磯村さん
の心身をすり減らせていた。半年間、休養しては仕事に復帰し、
しばらくしてまた休養、、、そんな生活を繰り返した。

結婚もしたが、健康は取り戻せなかった。そんな磯村さんを見ていた
近所の知人から、創価学会の座談会に誘われた。参加すると、中心者から
諭された。

「この信心をやったら、必ず元気になる。一緒にやろう」その場で
決めた。53年8月のことだった。「『その代わり、折伏をやらにゃいけん』
って言われてね。そのころ、住んでいた会社の寮に10世帯ぐらい入って
て、片っ端から信心の話をして、6世帯が入会したよ」

 56年には、若き池田SGI会長が指揮を執った山口開拓指導に加わり、
故郷で家族や友人33人を入会に導いた。
人の幸福に尽くす日々に喜びを感じた。気づけば体調を崩すことは
なくなっていた。

「入会を決めた座談会で『あんたは病気じゃない。しっかりしなさい』
って励まされたんじゃ。戦争で感じた無力感を引きずっていたのかも
しれん」

65年、折伏した実家の家族へ信心を教えるため、横浜から山口へ転居。
妻の勢津子さん(故人)から、「うちにはお金がないけれど、7人の
子どもたちのために、必ず宿命転換しょうね」と背中を押され、
貧乏と戦いながら、電気工事店を開業。
やがて安定した生活を送れるようになる。

60歳だった85年から町議会議員を3期12年務めるなど、地域の発展に
尽くした。その懸命な仕事ぶりは、それまで学会に偏見を抱いていた
知人が、周囲に「磯村さんを見習って、創価学会に入りなさい」
と勧めるほどだった。


暦を迎えた磯村さんは、”世界平和のお役に立てれば”と、
国際協力機構(JICA)が推進するホームステイの受け入れを始め、
昨年まで約30年間、続けてきた。アフリカのギニアビサウ、
南太平洋のフィジー、東南アジアのフィリッピン、マレーシア、
そして中国、、、言葉も文化も異なる人との交流の原点は、戦中にあった。

 当陽にいた時のこと。警備に就いていた磯村さんに、現地の住人が
泣きながら訴えてきた。「日本兵に鍋を持っていかれた。返してくれ」。
戦友と付いて行くと、工兵が鍋で料理をしているところだった。

磯村さんが「返してやれ」と叱ると工兵は素直に応じた。すると後日、
その中国人が、磯村さんと戦友を自宅に招き、ごちそうで
もてなしてくれた、、、。

「わしらが遠慮するだろうからって、相手のお父さんが料理を
取り分けてくれてね。いわば敵地なわけで不安もあったし、言葉も
通じなかったけど、同じ人間として真心が通じ合った」

だが、現実には命令に従い、日本兵は中国兵を攻め、殺さなければ
ならない。戦後になり、磯村さんは、心のどこかで、戦争の不条理を
解決する方途を求め続けていた。そして、創価学会の信仰に励む中で、
その方途を見だしていった。

「人間革命を進めていかなきゃいけない」。磯村さんは自分自身が
そうだったように、折伏した相手も、唱題と折伏の実践によって
蘇生する、数々の実証を目の当たりにしてきた。

SGI会長は、仏道修行によって得られる「心の財(たから)」
について語っている。〈「心の財」とは、生命の強さ、輝きであり、
人間性の豊かさである。さらに、三世永遠にわたって、崩れることの
ない福運ともいえよう〉

60年間、真面目に信心を貫いてきた磯村さんは実感している。
「日蓮大聖人の仏法は、わしらが『生も歓喜、死も歓喜』の絶対的
幸福境涯を開けることを教えてくださっている。全ての人間生命に、
計り知れない可能性があるっちゅうこと。それほど生命を尊ぶ宗教
なんじゃ」

戦場で奪われた無数の命を思う時、磯村さんの胸は痛む。


そして今も世界各地で争いが続き、悲惨な事件は後を絶たない。
「だから、創価の生死不二の正しい哲学を世界に流布していかないと、
平和はない。それを今、池田先生が進めておられるんじゃ」

磯村さんが、これまで入会に導いた人は100人に上る。そして
90歳を過ぎた今も、使命感を燃やし、平和を創る戦いを続けている。
 (幸)
 
 (聖教新聞 2016/09/01(木))

  おわり

まとめ
信仰体験 いま想う(9)戦後71年の歩み 信心で無力感は使命感へ(1)
信仰体験 いま想う(9)戦後71年の歩み 信心で無力感は使命感へ(2)

 
 戦争ほど、残酷なものはない。
 戦争ほど、悲惨なものはない。
 人間革命 第1巻 黎明

人間革命 (第1巻) (聖教文庫 (8))

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2016年12月11日

池田先生のリオ初訪問50周年を記念 ブラジルに響く勝利の歌声

池田先生 50周年 ブラジル.PNG


ブラジルに響く勝利の歌声

池田先生のリオ初訪問50周年を記念

歴史的な広布拡大を達成し盛大に希望総会 リオデジャネイロ圏
 


 池田大作先生のブラジル・リオデジャネイロ初訪問50周年を記念する
「世界広布新時代 希望総会」が「リオ五輪アリーナ」で盛大に
開催された。(11月27日)。

これには池田先生がメッセージを贈り、「『生涯青年』の心意気で、
みずみずしい建設の人生を共々に歩んでいただきたい」
「リオに希望あれ!栄光あれ!平和あれ!そして、皆さまに幸福あれ!
和楽あれ!勝利あれ!」と呼びかけた。

総会の席上、リオデジャネイロ州議会、メスキッタ市議会、ジャペリ
市議会から池田先生の平和への貢献を讃える「顕彰状」が授与された。


池田先生の平和貢献讃え 3自治体が顕彰状

 その瞬間は、総会の途中で訪れた。昨年1月からのリオ圏の弘教数が
7250世帯に達し、目標であった「支部50世帯」の弘教を超えたことが
発表されたのである。

吉報が発表されるやいなや、地鳴りのような参加者1万人の歓声と拍手
が会場を大きく揺るがす。「エ・ピケ、エ・ピケ、エ・ピケ、ピケ、
ピケ!、、、」と、総立ちとなって歓喜の勝鬨が湧き起こった。

その熱気は、同じ場所で行われたオリンピックの盛り上がりにも
引けを取らない。いや、それ以上かもしれない。参加者の一人である
アレシャンドレ・ピニェイロ・ダンタスさん(総合方面長)は、
満面の笑みをたたえて語っていた。

「私の地元の支部では、今日までに70世帯を実らせ、自身8世帯の弘教を
成就することができました。何よりもうれしいのは、師弟の絆を結び、
喜びに包まれて入会した同志の笑顔です。まだ見ぬ多くの人が
仏法を求めていることを思うと、私たちの使命の深さを実感します!」

「支部50世帯」の発表に続き、リオで生まれた愛唱歌「サウダソン・ア・
センセイ(ようこそ、センセイ)」を全員で歌い上げた。

 先生、あなたをブラジルに迎えることができて、
私たちの夢はかないました。
私たちの鼓動は高まりこだましています。
ムイト・オブリガード(本当にありがとうございます)先生、、、


池田先生がリオを初訪問した1966年3月、広布の陣容は166世帯だった。
それから84年、93年と計3回にわたり師を迎え、そのたびに
リオの同志の陣列は水かさを増してきた。
初訪問から半世紀を経た今、その連帯は、当初の130倍に拡大。

池田先生は、南米最大の都市であるサンパウロの友と並び、模範の拡大
を続けるリオのスクラムを”ブラジルの関西”と讃えてやまない。
マリア・アンジエラ・ロカテーリさん(支部婦人部長)は語る。

「私たちの住む地元には、大変に貧しい地域が多くあります。
だからこそ、幸福の源泉である妙法を弘めたいと、題目根本に訪問激励に
歩き、地域中を駆け回ってきました。
そして、支部で59世帯の弘教を達成することができました」

 〈2面に続く〉 2面以下省略します。

 (関経新聞 2016/12/10(土))




池田先生がブラジルを初訪問を計画し実行した時、ブラジルは池田先生
の入国を拒否しました。「訳の分からない宗教を弘められたら、困る」と
いうことも「入国の拒否」の一つの理由でした。

それが今、ブラジルは池田先生にあまたの感謝状を贈り、
また、あまたの「名誉市民賞」が贈られている。その他にも多数。

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2016年12月12日

21世紀の大陸 アフリカで第1回統一教学実力試験

アフリカ教学試験.PNG

21世紀の大陸 アフリカで第1回統一教学実力試験

池田先生が求道の友にメッセージを贈る
希望の大哲学を社会へ

仏教史に輝く大運動 15ヵ国で実施

「一生成仏抄」「阿仏房御書」「日蓮大聖人の御生涯」など
フランス語・英語で出題



 「21世紀の大陸」アフリカの15ヵ国で11月26,27日、第1回統一教学
実力試験が実施された。これには池田大作先生がメッセージを贈り、
尊い求道の心を燃やして研鑽に励んだ友を賞讃。
「希望の大哲学を、一人また一人と伝え広めていこう」と呼びかけた。


第1回アフリカ統一教学実力試験が行われたのは、トーゴ、ガーナ、
カメルーン、コンゴ民主共和国、ザンビア、南アフリカ、マダガスカル、
モーリシャス、ケニア、ベナン、ウガンダ、セネガル、タンザニア、
ジンバブエ、ナイジェリアの15ヵ国。

今月には、コートジボワールなどでも開催される予定だ。まさに、
仏教史に燦然と輝く大教学運動といえよう。
アフリカ各国では、日本でのSGI研修会で学んだ内容を参加者が
母国に帰ってメンバーに伝え、拡大の波動を起こしてきた。

その中で、教学研鑽の重要性を再認識し、仏法の法理や師弟の精神を
さらに深めようと、統一試験の開催を決定。
これまで、教材を冊子にまとめて活用したり、地区の座談会等で
勉強時間を設けるなど、研鑽に励んできた。

試験問題はフランス語と英語で作成され、「日蓮大聖人の御生涯」や
「一生成仏抄」「阿仏房御書」の御書2編、「仏教の人間主義の系譜」
などから出題。

終了後、その場で採点する方式で行われた。試験に向けた勉強を通し、
メンバーは仏法への理解を深め、行学二道の実践への決意を新たにした。

「入会して17年間、教学試験を受けてことはありませんでした。
今回の挑戦を通して、教学を学ぶ重要性を実感できました」(ジンバブエ)
、「受験者とリーダーが共に、仏法哲理を学ぶ喜びを感じることが
できました。これからも御書根本で進んでいきます」(ガーナ)、
「試験を通して学んだことを、家族や友人に語っていきたい」(ザンビア)

 創価学会が宗門と決別した”魂の独立”から本年で25年。「破門通告書」
が届いた1991年11月29日には、アフリカ大陸19ヵ国の大使・大使代理と
ANC(アフリカ民族会議=南アフリカ)の駐日代表が一堂に会し、
在東京アフリカ外交団から池田先生に「教育・文化・人道貢献賞」が
贈られた。

この歴史を池田先生は、「世界は断固としてSGIを支持するとの、
忘れえぬ天の声でありました」と述懐し、25年を経たアフリカ
統一教学実力試験を「創価の勝利の象徴」であると訴えている。

21世紀の「希望の大陸」を照らす仏法の旭日、、、アフリカ広布の
新時代の前進は、大きく勢いを増している。

 (聖教新聞 2016/12/09 (金))

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2016年12月18日

「南湖の左富士(神奈川県茅ケ崎市)」って何?




2106/12/17(土) 外に出て、富士山を見ると、少しかすんでいるが
今の季節、こんなもんだろう。それで
「南湖の左富士(神奈川県茅ケ崎市)」と言われる地点まで行き、
動画で撮った。と、写真一枚。
国道1号にかかる橋が「鳥井戸橋」鋭角に南に「石原橋」
この写真、動画の富士山は石原橋、橋上からの撮影になります。

「南湖の左富士」って何?これは「江戸から京都までで、その行程の
中に宿場町「東海道五十三次」その目印として、一里塚(4Km)
があった」



その道中で左手に富士山が見えるから、地名をとって「南湖の左富士」
と言われます。この鳥井戸橋の交差点から下り約30mの所が江戸から15里
に当たる一里塚があります。現在「一里塚」はありませんが、
標識があります。「日本橋から from niponnbasi 60km」の表示。

「一里塚」で「いっぷく」して、富士山を眺めるに恰好の場所
だったと思われる。動画にあります石碑には、文字が見えませんが
「南湖の左富士」と書かれています。

鳥井戸橋、石原橋下を流れる川は「千の川」です。ロマンチックな名前ですね。

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南米ペルーでGKI(ガンジー・キング・イケダ)展

ペルーでGKI展.PNG
写真上、「非暴力は人類に託された最大の力」と
ガンジー(森本達雄訳) 多くの見学者が訪れている
ペルーでの”ガンジー・キング・イケダ展”
写真下、開幕式で、ペルー文化省カヤオ地域局から
池田先生に「顕彰状」が授与された。
列席者が祝福のカメラに


南米ペルーでGKI(ガンジー・キング・イケダ)展

3人を貫く非暴力の精神を社会へ

文化省カヤオ地域局が池田先生に顕彰状
「博士の人間主義を人類が希求」


南米・ペルー共和国の文化省カヤオ地域局庁舎で「ガンジー・キング・
イケダ 平和建設の遺産」展(アメリカ・モアハウス大学主催)
が開かれている(明年1月12日まで)

同展は、インド独立の父・ガンジー、アメリカ公民権運動の闘士・
キング博士、そして池田大作先生の足跡を紹介しながら、3人に通底
する非暴力の精神を伝えるもの。

連日、多くの人々が見学に訪れ、反響を呼んでいる。
各界の来賓が列席した開幕式(11月16日)の席上、文化省カヤオ地域局
から池田先生に「顕彰状」が授与された。

これは、文化・教育運動を通して人類の向上に貢献しゆく功績を
讃えたものである。カヤオ市は、首都リマの西部に位置する同国最大の
港湾都市。近代的な施設が整備され、同国有数の貿易拠点として
知られる。

 国の機関である文化省カヤオ地域局は、これまで、「世界の少年少女
絵画展」や、波涛会(海外航路に従事する壮年・男子部のグループ)
の写真展「波涛を越えて」を開催。

池田先生のダイナミックなリーダーシップのもと、幅広い平和・文化
運動を推進するペルーSGIに深い共感を寄せてきた。
そして今回、同地域局からの強い要請を受け、”ガンジー・キング・
イケダ展”が実施される運びとなった。

開幕式であいさつに立った同地域局のファン・フェルナンデス・バージェ
局長は、次のように語った。
「この展示会は、平和の闘志である3人の業績を伝える、大変に意義深い
ものです。特に池田先生の貢献は素晴らしい。博士の人間主義の哲学は
人類が希求しているものです」

池田先生への「顕彰状」がペルーSGIのファーレス理事長に
託されると、来場者から拍手が高鳴った。

 (聖教新聞 2016/12/18(日))

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2016年12月19日

信仰体験 NISSAN GT-R エンジン組み立ての匠(1)

黒沢さん 1.PNG
柔和な黒沢さんの表情が引き締まる。
匠の仕事に一切、妥協はない。
作業は、気温、湿度、気圧が徹底管
理されたクリーンルームで行われる


黒沢さん 2.PNG
バルブクリアランスと呼ばれる工程。
部品同志の隙間の幅を、わずか
10ミクロン単位で調整する


【横浜市鶴見区】「クルマ造りへの想いと挑戦を体現するスポーツカー
」。それが、日産自動車(株)のフラッグシップカー「GT−R」。
2017年(平成29年)モデルが本年7月、発売された。
その要といえるVR38型エンジンは、一台一台、人間の手で
組み立てられる。作業を任されているのは、「匠」と呼ばれる熟練
技術者。現在、わずか5人。中でもリーダー的存在が、黒沢工さん(55)
=東寺尾支部、地区部長=だ。


 信仰体験 NISSAN GT-R エンジン組み立ての匠(1)

ぬくもりを込めたい。だから技も心も磨く

コンピューターではできない ミクロン単位(千分の1ミリ)
の調節を人の手で

誤差は+−1%


「エンジンが、かわいいんです」柔和な表情が、さらに緩む。
黒沢さんがエンジンについて語る時、その瞳は、まるで少年のように
輝く。

「空気の通り道の摩擦が小さくなるよう、部品同志のつなぎ目を手作業で
調整します」例えば、エンジンの吸気バルブと排気バルブを開閉させる
部品と、バルブの隙間の調整は、実に10ミクロン(0.01ミリ)間隔。

シックネスゲージという金属板を隙間に差し込み、幅を測る。
基準を満たすよう、部品のサイズを変更する。これを、指先が受ける
抵抗の、ほんのわずかな変化を頼りに行う。

「コンピューターでできないか、メーカーに相談しました。ですが、
”そんな精密な機械は作れない”と言われて。では、人間の手で
やるしかない、と」

一度、測定した後、部品を稼働させ、なじませる。すると隙間の幅が
変化する。再度、測定し、誤差が大きければ、分解して組み立て直す。
この、なじませた後の変化も想定できるほど、匠の技は熟練している。

「見学に来た海外のお客さまが、『クレージー』と言って、一番、
驚かれます」厳密な仕事ゆえ、性能の誤差は、わずか
プラスマイナス1%。

基準では、許容範囲はプラスマイナス5%と定めているにもかかわらず、
だ。「匠の技術は言葉で伝えられるものじゃない。”感能”の世界です」
一人で一台のエンジンを組み上げ、最後にネームプレートを装着する。
「品質への責任を示す覚悟の表れ」である。


黒沢さん 3.PNG
エンジン一台一台に、組み立てた
匠のネームプレートが装着される


買った車を分解

日産のCMに出演もしている黒沢さんだが、入社時、「車のことは
何も知らなかった」。それもそのはず。19歳だった1980年(昭和55年)
には、日本サッカーリーグ所属クラブと契約を結んだ選手だった。

ほどなく膝を故障し、偶然の出会いから日産自動車のサッカー部へ。
ところが、練習になじめず退部。エンジン部門に配属された。
工具の名前も分からず、先輩から「何しに来たんだ」と怒鳴られた。

悔しくて、本を読みあさり、勉強した。「でも、機械をいじるのは
好きでした。子どもの頃、家のテレビや冷蔵庫をバラしては、
戻せなくて、親に怒られて、(笑い)」

エンジンの仕組みを理解すると、自分で車を購入し、エンジンを分解して
組み立てた。
「キーを回して、エンジンがかかった時は感激しました。すっかり、
エンジンの組み立てにハマっちゃいました」
仕事に没頭すること26年。「助けてくれないか」。2006年(平成18年)
12月、突然、他部署から声を掛けられた。

 社運を懸けた新商品のエンジン開発が、遅れているという。責任は重い。
設計統括者が黒沢さんに語った。
「ポルシェとフェラーリを抜こうよ」。

職人魂が燃えた。組み立てやすい設計かどうか。工程順や工具の種類の
決定。組み立てに必要な条件が、黒沢さんにより織り込まれた。

翌07年10月、日産スポーツカーの象徴だったスカイラインGT−Rの
事実上の後継車「NISSAN GT−R」が、華々しく発表された。

 第2につづく (聖教新聞 2016/10/22(土))

 まとめ
信仰体験 NISSAN GT-R エンジン組み立ての匠(1)
信仰体験 NISSAN GT-R エンジン組み立ての匠(2)

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2016年12月20日

信仰体験 NISSAN GT-R エンジン組み立ての匠(2)

黒沢さん 4,5.PNG
「お客様の喜びの声を聞いた
時は、最高の気持ちですね」。
GT−Rの前で語らう黒沢さん
(右)と上司の小野寺さん


 信仰体験 NISSAN GT-R エンジン組み立ての匠(2)

ぬくもりを込めたい。だから技も心も磨く

コンピューターではできない ミクロン単位(千分の1ミリ)
の調節を人の手で


「よし」「よし」


以来、匠としてエンジンの改良にも携わる。「当初、”エンジンによって
馬力にばらつきがある”どのと、苦情がありました。悔しくて、どの匠が
作っても100%の性能を発揮するエンジンを作ろうと、皆で研究と経験を
重ね、誤差1%の世界にたどり着きました」

 それでも、GT−Rのオーナーは、自分のエンジンが一番だと誇る。
「俺のGT−Rは黒沢のエンジンだ」と、SNSに写真を投稿したり、
工場まで会いに来たりする海外客もいるほど、タクミ・クロサワの
名は、世界に知れ渡っている。

その黒沢さんが、匠として最も大切と感じるもの。それは、「マインド
(心)」。「日蓮大聖人は、『心の財(たから)第1なり』
(御書1173ページ)と教えてくださっています。

押しつけではなく、乗る人が、どんなエンジンを求めているのか、
考えながら作る。そんな人間性豊かな匠でありたいし、そんな
後継者を育てたい」

だから、定期的にオーナーの集まりに参加し、意見を聞く。作業中は、
心で部品と会話しながら、微妙な調整を行う。合間に「よし」「よし」
とつぶやいていることは、同僚に指摘されて初めて気が付いた。

「コンピューターでは出せない、人間のぬくもりを、エンジンに
込めたい。そのために、技も心も磨くのが匠です」

黒澤さん 5.PNG
娘の未来さん(中)に、頑張る姿を見せ
たいという黒沢さん(左)。娘と妻・麻
理子さんの前で、優しい父親の顔に


取材後記

黒沢さんは、心に残った聖教新聞の一節を切り抜いては、いつも読み
返せるよう、持ち歩く。「”悩みは智慧に変わる””苦しんだ人が
幸せに”との池田先生の哲学に、心が磨かれる思いです」

19歳の時に創価学会に入会したが、「よし」真剣に信心を始めたのは、
2006年に、女子部員だった妻・麻理子さん(37)=地区副婦人部長
(白ゆり長兼任)=と出会ってから。

当時、仕事の多忙を理由に学会活動から遠ざかっていた。「それで、
妻から『座談会に出なさい』と怒られて(笑い)」唱題すると、
目標が明確になった。

「この候補生に、この工程を、いつまでに覚えさせる。
匠をいつまでに何人増やすなど。上司と相談しながら長期的な展望を
描けるようになりました。」

この上司というのが、小野寺正志さん(57)=横浜市旭区在住、
地区幹事(広宣長〈ブロック長〉兼任)。若い頃は社宅が一緒で、
小野寺さんと妻の法子さん(58)=地区副婦人部長=が、
いつも笑顔で声を掛けてくれた。

「ここまで頑張ってこられたのは、信心を続けさせてくれた、妻と
小野寺さんご夫妻のおかげ」感謝を口にする時、黒沢さんの目には、
じわりと涙がにじむ。

 (聖教新聞 2016/10/22 (土))

 おわり

 まとめ
信仰体験 NISSAN GT-R エンジン組み立ての匠(1)
信仰体験 NISSAN GT-R エンジン組み立ての匠(2)

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2016年12月27日

信仰体験 真田幸村ゆかりの地でがんに臆さず(1)

九度山町 1.PNG
和歌山が誇る柿を並べる溝端さん。病いに屈せず、命を燃やす


九度山町 茶屋店舗.PNG
九度山町に活気を広げる「真田いこい茶屋」


九度山町 茶屋.PNG
茶屋の店内は、いつも明るい笑い声にあふれる
(右側が溝端さん)


【和歌山県・九度山町】今年のNHK大河ドラマ「真田丸」が描いた
真田幸村(信繁)。彼が、14年の時を過ごした舞台、九度山町が今、
赤く染まっている。武具・旗を赤でそろえた名将になぞらえ、
商店の品も、たなびく旗も赤一色。
戦場では狙われやすい”赤備え”だが、赤を身にまとうことで、
”戦い”の腹を決めたという。幸村ゆかりの地で町おこしに取り組んで
いるのが溝端たえさん(68)=福光九度山支部、県副婦人部長。
16年間、がんと対峙し続けるとは思えないほど、穏やかな笑顔で
観光客をもてなしている。


信仰体験 真田幸村ゆかりの地でがんに臆さず(1)

生きるよろこび 赤備えの甲冑にも勝る「熱」と「炎」

環境に負けるものか!


夜明け前、数人の婦人が幸村グッズの並ぶ店に集まった。
慣れた手つきで、その日の予約弁当を作る。溝端さんは、自宅で塩漬けに
した山菜を調理して盛り付けた。

昼下がり、町のパンフレットを手にした団体客で店内はにぎわう。
ここは、「真田いこい茶屋」。古民家を再利用した休憩所で、「真田丸」
ブームに沸く町へやって来る人々を癒している。

真田家の家紋「六文銭」が描かれた制服を着たスタッフは、皆がボラン
ティアだ。「地元の誰よりも、九度山が大好き」と言う溝端さんは、
週2回、茶屋の当番に就く。気さくで飾らない人柄に、観光客からも
「また会いに来ます」と声が掛かる。「全国から多くの方がお見えになり
ますんで、そんな言葉に、こちらが元気をもろてます」と目を細める。

横顔は、数多い。月に1度、高齢者のために給食弁当を作って配る。
更生保護女性会では刑務所へ慰問し舞踊を舞い、保護司歴は10年、
公平委員としては総務大臣表彰も受けた。

 多岐にわたる活動を通し、「前から見ても、後ろから見ても、『創価
学会の溝端』として、胸を張れる自分でありたいんです」と。
その心は常に、師と共にある。

ーー生まれは、愛媛の山深い町。幼い頃から病弱だった。結核を患い、
将来を嘆いた1966年(昭和41年)、大阪で入会する。
本当の意味で信仰の火がついたのは、阪神甲子園球場での”雨の関西
文化祭”。

人文字を形作りながら、雨粒と涙が頬を伝った。72年、夫・信一さん
(74)=副本部長=の事業が傾き、多額の借金にあえぐ中、知人の紹介で
九度山へ。他宗の本山が近く、昔ながらの習慣も強い。

当時は、よそ者扱いされ、生活苦も続いた。御書の「忍辱の鎧を着て」
(502ページ)の一節を地でいく歳月。夫の土建会社の経営を手伝い、
債権者に頭を下げ、川のせせらぎを聞きながら、広布に走り回った。

81年11月、紀ノ川文化会館(当時)を初めて訪れた池田先生と出会いを
結ぶ。共に勤行・唱題をして、写真に納まった。
「紀ノ川が折伏で勝てるように祈りました」、、、

師の声が力強く響き、溝端さんの耳朶を打った。以来、常に体を突き動か
してきたのは、”どうやって地域の方に喜んでもらうか”との思い。
「自分の振る舞いで、創価学会の見方を変える。それが戦いでした。
胸の中に、『環境に負けるもんか!』っていう”熱”が、ずっと
あるんです」

信仰の旗を掲げた地道な開拓は、あらゆる人へ友好を広げた。
かつては怒鳴り声を上げた債権者さえ、子どもを連れ、自宅へ遊びに来る
間柄に変わった。

 第2につづく (聖教新聞 2016/12/17<土>)


 まとめ
信仰体験 真田幸村ゆかりの地でがんに臆さず(1)
信仰体験 真田幸村ゆかりの地でがんに臆さず(2)

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posted by mity504 at 17:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 病気・闘病体験

2016年12月29日

信仰体験 真田幸村ゆかりの地でがんに臆さず(2)

甲冑、いこい茶屋.PNG
溝端さん手作りの赤備えの甲冑。茶屋に飾られ、
試着もでき、喜ばれている


信仰体験 真田幸村ゆかりの地でがんに臆さず(2)

生きるよろこび 赤備えの甲冑にも勝る「熱」と「炎」

この赤が目に入らぬか


2000年(平成12年)顎下線がんとの闘いが始まる。リンパ節に及び、
舌を動かす神経にまで巻きついたがん細胞を切除と右顎の下から肩まで
手術の痕が残った。

放射線治療を終えると、舌が回りづらくなった。ピリピリと顔の神経が
痛む日も。人との会話がためらわれたが、再発の恐怖と一緒に、
唱題で押し流す。ただ地域のために、、、。

その一点を譲らず、貢献の足は止まらなかった。07年、肺への転移が
発覚する。がんはステージ4に。2度の手術によって、右肺の3分の2が
切除された。


 ”もう駄目かもしれない”。残された年月を初めて意識した。
唱題を重ねるうち、「寿命」という言葉より、「使命」の二文字が
浮かんだ。池田先生は綴った。

「人は限られた生を自覚するからこそ『よりよき人生』『より価値ある
人生』を真摯に求めることができる。文豪にあらずとも、誰でも
残せるものがある。『わが人生』という名の生命の軌跡。それは何ものにも
決して侵されない」

心が揺れる瞬間はある。それでも、「最後の最後まで」。
そう言い聞かせ、地域を駆け、日記を残す毎日を送った。

 翌年、行政による「真田いこい茶屋」の構想を知る。地域の女性たちと
呼び掛け合い、立ち上げに携わった。”空洞化が進む商店街と、高齢化
した町に元気を”と活動を始めた。

 時を同じくして、溝端さんは、幸村をイメージした赤備えの甲冑を
制作する。「九度山町住民クラブ」の活動の「手作り甲冑隊」。
体を採寸し、完成した甲冑を着て、地域行事を盛り上げた。

「日本一の兵(つわもの)」とうたわれた幸村の足跡。「その強さ、
命を懸けた姿に引かれるんです。私にとって、赤は勝利の色です」。
赤備えの甲冑に、病魔を蹴散らす気迫を託した。
「この赤が目に入らぬか」と、、、。
 
 肺の手術以来、坂の多い町の移動は、体にこたえる。それでも、
「九度山の歴史を伝える「まちなか語り部」として大好きな町を歩く。
観光客に名所を紹介しつつ、時折、息を切らし、闘病の事実も
赤裸々に話す。

地域に尽くす母の勢いは増すばかり。「池田先生が、どれほどの思いで
和歌山に来られ、今も広布に戦われているか。私も、この命ある限り、
先生にお応えする、、、その炎だけが燃えています」

 いこい茶屋の”元気な笑顔のおもてなし”は、地域活性化を促す
過疎対策のモデルとして、本年、「全国過疎地域自立促進連盟」の
会長賞を受賞した。

九度山町へ足を運べば、この町を愛する母たちの笑顔に迎えられ、
溝端さんの赤い甲冑が目に映る。


取材後記

会合の合間、車の運転中、いこい茶屋での休憩時間など、多忙な溝端さん
に付き添っての取材。一息ついた自宅では、地域貢献の証である数々の
賞状を見せてもらった。

今月も1枚増えたが、当の本人は「役所に取りに行くのが大変なんです」
と涼しげな顔。何よりの誇りは、40年以上にわたり、聖教新聞を
配り続けたこと。

山の移ろう色彩に四季を感じながら、時に、ぬかるんだ落ち葉に足を
取られ、時に、クモの巣を払いのけ、無冠の道を貫いてきた。
現在でも、朝は特別な時間という。

「起きて、命がある”今”を実感し、池田先生が配達員に寄せられる
思いをかみ締め、一日を出発しているんです」と。
かつて、池田先生が関西の女子部に贈った言葉がある。

「一生は夢 信心の炎のみが 実(じつ)」

毀誉褒貶などに目もくれず、ただ信念に生き抜く。病が体を侵そうとも、
笑顔の奥で、心は深紅に燃え上がる。
そんな溝端さんは今日、師の姿を胸に描き、新しく誕生する「紀ノ川
文化会館」の開館式へ向かう。 (光)

 おわり (聖教新聞 2016/12/17 〈土〉)

 まとめ
信仰体験 真田幸村ゆかりの地でがんに臆さず(1)
信仰体験 真田幸村ゆかりの地でがんに臆さず(2)


「 07年、肺への転移が発覚する。がんはステージ4に。
2度の手術によって、右肺の3分の2が切除された。」
とあります。

「がんはステージ4に」ステージ4といえば、「後、
何か月、後、何年の生存率だと知らされる」

大半の人達がこの知らせに負けてしまう。というか、
戦うすべを知らない。もし、知っていたとしても、
この危機を乗り越えるには、それ相応の覚悟がいる。

溝端さんは16年間、がんと対峙し続けられた、
すごい!覚悟の人生、尊敬しますし、感動します。

体験談の中に、「気さくで飾らない人柄に、観光客からも
「また会いに来ます」と声が掛かる」と、ありますが、
本当にそれくらい魅力ある人柄だと思われます。

そんな人柄が偲ばれる。

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posted by mity504 at 17:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 病気・闘病体験
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