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インド創価池田女子大学・2018/01/13


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女性の世紀を駆ける創価池田女子大学の学生たちが、
”イケディアン”として生きゆく宣誓を
 

 インド創価池田女子大学

 1.2 「世界調和の日」記念式典を開催


 南インド・チェンナイの創価池田女子大学で2日、1・2「イケディアン
(池田先生の哲学の実践者)・世界調和の日」を祝賀する式典が行われた。

 同大学は、インドの著名な詩人・教育者である同大学のセトゥ・
クマナン議長の尽力により、2000年に開学した。

 現在、創立時の5学部から15学部にまで發展。卒業生は3200人を超え、
有名企業や行政機関などに、インド社会の発展を支える知勇兼備の人材を
陸続と輩出する。

 「世界調和の日」は、同大学の名誉創立者である池田先生が傘寿(80歳)
を迎えた2008年に制定。毎年、記念式典を行い、学生同志が「イケディアン
」としての誓いを新たにしている。

 池田先生の90歳の卒寿を寿ぐ今回の式典では、代表による「母」の合唱
に続き、昨年11月に学長に就いたM・サムシャット氏が宣誓書を朗読。
その後、全参加者でそれを唱和した。

「心から尊敬する池田博士が願われる平和と国際協調を推進し、暴力を
減らすために人間の絆を広げ、生命尊厳を守るために新たな文化の価値を
創造していくことを、ここに誓います!」

 来賓として出席したインド創価学会チェンナイ西本部のラタ・
ラマヌジャン婦人部副本部長が、池田先生の哲学と行動を通し、
「悩みを成長の糧として、
人生の幸福勝利の土台となる学生時代を」と呼び掛けた。

 チェンナイにあるアディヤールがん研究所のT・G・サーガ所長らが祝辞を
述べた後、クマナン議長が「1・2」を迎えた喜びを語り、「仲間と助け合い、
励まし合う青春の中に、イケディアンの模範の精神があります」
と強調した。

 また、同日、大学内に併設されるハーブ園の開園式も行われ、先生の
卒寿を祝賀する意味を込めた90種類のハーブが植えられた。


 【聖教新聞・2018/(平成30年)1月13日(土)】

 なぜインドに「創価池田女子大学」があるのか



四季の励まし「勇気の心」が幸福を築く

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池田大作先生
 四季の励まし「勇気の心」が幸福を築く

勇気あるところ、
正義と希望の太陽は輝く。
「勇気」と「臆病」の差は、
微妙である。
紙一重の差といってもよい。
たった一言の励ましによって、
気力が倍加し、
勇気が漲ることは、実に多い。

励ましは
英語で「エンカレッジ」。
勇気(カレッジ)を
吹き込むことだ。
ゆえに励ましのあるところは、
勇気が満ちあふれる。

 ◇ ◇ ◇

勇気とは、本来、
外に向けられるものではない。
弱い自分、
苦労を回避しようとする自分、
新しい挑戦を
尻込みしてしまう自分、
嫌なことを他人のせいにして
人を恨んでしまう自分など、
自己の迷いや殻を
打ち破っていく心である。
勇気が幸福を確立していく上で、
最も大切な力なのだ。

 ◇ ◇ ◇

自分の境涯が変われば、
物事の感じ方、
捉え方も変わっていくものだ。
逆境も、苦難も、
人生のドラムを楽しむように、
悠々と乗り越えていける。
その境涯革命の原動力は、
強い一念を込めた真剣な唱題だ。
題目を唱え抜いて、
勇気を奮い起こし
て行動し、
自分の壁を打ち破った時に、
境涯を開くことができる。

 ◇ ◇ ◇

かけがえのない
「今日」を悔いなく戦い、
広宣流布のため、
人々のために生ききれ!
「常勝」とは、
断固として「今を勝つ」ことだ。
「今日を勝つ」ことだ。


”常勝の空”が、晴れ晴れと広がっていた。大阪市中央区の大阪ビジネス
パーク。関西の発展を象徴するかのように、
高層ビルが林立する。2007年(平姓19年)11月、池田大作先生が
シャッターを切った。「常勝関西」は、先生が手づくりで築いた民衆の
大城。昭和31年の「大阪の戦い」で、先生は「勇戦」「大勝」と揮毫し、
関西の同志に贈った。
「自ら勇んで戦いを起こす時、生命は大歓喜に包まれ、悠々と苦悩に
打ち勝つ大境涯へ、自身を高めていける」と、先生はつづっている。
勇戦ありて、大勝あり……。
常勝の魂とは、勇んで戦う生命に脈打つ。さあ、勇気の心を燃やし、
幸の連帯を広げよう!

【聖教新聞・2018(平成30年)2月4日(日)】



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世界の体験プラザ・核兵器廃絶こそ取るべき選択肢

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核実験演習に参加した被ばく退役軍人として活動して
きたオリバーさん。ミズーリ州ニクサの自宅前で


 世界の体験プラザ・核兵器廃絶こそ取るべき選択肢
 米国の核実験演習で被ばくした退役軍人
 アメリカSGI ロバート・オリバーさん


 きのこ雲の爆心地に進撃

 
 核爆弾が炸裂した後に生じる巨大な火の玉ときのこ雲。この世のものとは
思えない、その非現実的な光景を、私は何度も直接この目に焼き付けました。
1951年、陸軍の兵士として、核実験演習に参加していた時のことです。

 演習のコードネームは「デザートロック」。米国の核実験において初めて、
実戦を想定して陸軍の部隊が動員された演習でした。

 演習場は、ラスベガスから北西に104キロ離れたネバダ州の砂漠。文明から
完全に隔離された荒野にテントを張ってキャンプを設営し、数ヶ月間、
そこで暮らしました。

 核爆弾を投下した後、生き残った敵戦力を撃つために爆心地に進軍する
という演習だったと記憶しています。塹壕にうずくまって待機し、
爆発の直後、私たちは武器を持って立ち上がり、まるで敵に向かって
襲撃するかのように、あのきのこ雲が上がる爆心地に向かうのです。

 演習場に着いた日、大きなスピーカーを通して指揮官から説明が
ありました。私たちがここに来たのは核実験の補助をするためであり、
ソ連との核競争に勝って冷戦を終わらせるためだと、多くの兵士が、
放射能によって父親になれる可能性を奪われるのではないかと
懸念していました。

 ある実験中、誤算で通常よりもキャンプに近い位置に爆弾が落ちました。
テントはたちまち吹き飛ばされ、砂嵐で空は一気に暗くなりました。
昼間なのに夜中のようなのです。
それでも指揮官は”放射能は低いから気にするな”と言い放ちました。

 身を守るために掘った塹壕も、その上に積んだ土のうも、放射線を
防ぐためには何の役にも立たない。そのことが分かったのは、
後年、私たち「被ばく兵士」が後遺症に苦しむようになってからの
ことでした。


 後遺症に苦しむ仲間たち

米・退役軍人 2.PNG
1951年、ネバタ州の砂漠で行われた核実験。
連動して行われた演習「デザートロック」では
、陸軍兵が爆心地から20キロ以内の距離の塹壕
で爆発の瞬間を待ち、その後、きのこ雲に
向かって歩きだした



 私の部隊には143人が在籍していましたが、今でも生きているのは、
84歳の私一人だけです。仲間たちは「デザートロック」での任務を
終えた後、それぞれの道を進んでいきました。

 私は韓国に派遣され、その後、日本に駐留。そこで生涯の伴侶である
サエコと出会いました。55年1月に結婚。ですが、どうしても子どもを
授かることができません。軍医に診てもらうと、私の体では一生涯、
子どもができないと診断されました。
63年、まだ生後2週間だった娘のエミリーを養子に迎え入れました。

 65年、愛する妻と娘を日本に残して、戦線が拡大するベトナムに
派遣されました。その頃、サエコが創価学会に入会したのです。
サエコは私の無事を懸命に祈ってくれました。

 ベトナム駐留中に、”もうだめだ!”といった場面が3度ありましたが、
奇跡的に生き延びることができました。日本に帰還した私を見て、
サエコは御本尊の功力を感じ、信心の確信を深めました。

 私は当初、奇妙な宗教だと勘違いし信心に反対していましたが、
彼女の意志は固く、題目を唱え続けました。以前より生き生きと
変わっていく妻の姿に、この仏法には何かあるのかもしれないと
思い、私自身も入会。68年のことでした。

 家族でワシントンDCに引っ越し、70年には陸軍を退役。
題目を唱えながら新しい仕事を探すと、願っていた通りの条件で
電気技術者の仕事に就くことができました。信心の功徳を実感し、班長
として、草創期のアメリカ広布の最前線で活動するようになりました。

 私にとってもう一つの功徳は、偶然、あるラジオのニュースに
触れられたことです。それは、多くの被ばく兵士が驚くべき早さで、
がんのために亡くなっているという衝撃の内容でした。
全米被ばく退役軍人協会の存在を知り、私はすぐに会員になりました。

 そこで分かったのは、多くの仲間たちが、すでにこの世を去っている
という絶望的な現実でした。生存者たちも、白血病や皮膚がんなどの
病に苦しんでいたのです。


前を向いて生き抜く勇気

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昨年まで闘病中だった妻サエコさん
(故人)と共に



 2001年の時点で、同じ部隊で生きているのは、ほぼ私だけとなりました。

 被ばく兵士の妻たちから届いた手紙を、今でも大切に持っています。
それらは、仲間たちがどのような最期を遂げたのかを知る手掛かりに
なりました。その中の誰一人、父親になれた人はいませんでした。
50歳まで生きた人の方が少なかった。

 数年前、私自身もぼうこうがんを患いました。60年以上を経てもなお、
放射線の悪影響を受けていることにショックを隠しきれませんでした。
しかし幸いなことに、早期発見のおかげで腫瘍を取り除く手術を即座に
受けることができ、今もがんは再発していません。

 日蓮仏法の実践を始めたのとほぼ同じ時期に、仲間たちの現状を知り、
自身の体にも異変を感じ始めたのは、決して偶然ではないと思っています。
この84年の人生で、いとも簡単に希望が崩れてしまうような苦しみを、
あまりにも多く目撃し、また自らも体験してきました。
しかし私は、何があっても前を向いて生き抜く勇気を、この信心で
得ることができました。

 南無妙法蓮華経の題目を日々唱え、池田先生の指導を学んでいるからこそ
私は決して絶望しません。創価の青年たちを信じ、人類の未来に希望を
持てる自分でいられるからです。

 今でも唱題するたびに、心の中が晴れ渡っていくような感覚があります。
「命というものはわが身にとって第一の珍宝である。たとえ一日で
あっても寿命を延ばすならば、千万両の金にもまさるのである」
(御書986ページ、通解)との御聖訓をかみ締める毎日です。

池田先生とSGIの同志、そして、被ばくした私を生涯支え、昨年、霊山へと
旅立った最愛の妻に、感謝してもしきれません。

 池田先生は半世紀以上にわたり、核兵器廃絶を訴え続けてきました。
戦争と核の恐ろしさを身をもって経験した一人として、私は声を大にして
言いたい。池田先生のような貢献をしてきた人物は、他にはいないと。

 核兵器が使用される時、そこに勝者はいません。全員が敗者です。
ゆえに私たちには、核兵器廃絶という選択肢しか残されていないのです。


 【聖教新聞・2018年(平成30年)1月29日(月)】


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米調査 銃規制賛成66%に急増2/21(水)

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米調査 銃規制賛成66%に急増2/21(水)

フロリダ州の高校で起きた銃乱射事件では17人が死亡した。

銃規制強化賛成、66%に急増=高校乱射事件が影響―米調査
 【ワシントン時事】米キニピアック大が20日公表した

世論調査結果によると、銃規制強化に賛成する米国人は66%で、
反対の31%を大きく上回った。(時事通信)


米調査 銃規制賛成66%に急増2/21(水)



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信仰体験・ブラボーわが人生 第32回 89歳 絹糸の強さよ

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【香川県高松市】「池田先生にお目にかかってなかったら、私はとうに
死んどる」。その言葉がちっとも大げさでないことは、小比賀絹子さん
(89)=香川支部、地区副婦人部長=の足跡をたどれば合点がいく。

 31歳で大腸がんになった。手術費がなく、生きることを諦めた。
母が「最後の花道だから」と用意した振り袖を着て、よたよたと
退院した。足裏の浮腫に死期を感じた時、小比賀さんは4年半も
拒み続けた信心を始めた。

「悪い宗教が元で死ねるなら、それもええ」。捨て鉢な決断だったが、
学会の同志は命に潤いを与えようとした。満足に歩けない小比賀さんを
板に乗せ、瀬戸内海の直島から船に乗せた。

訳も分からず連れてこられた東京の日大講堂。2階席の手すりをつかんで
参加したのは、池田先生の第3代会長就任式だった。

 その後、友の唱題に背を押され、「3人前の信心せんな」と腹を決めた。
心が体を突き動かし、足を引きずって歩けるようになった。
粗末な服で参加した夏季講習会。昼食代もなく、一人で唱題していた。

思いがけず、池田先生と出会う。「何があっても生きるんだ」と、みかんの
缶詰を握らせてくれた。宿に帰って、みんなと湯呑みに分けた。
小比賀さんは自らの口に入れなかった。空き缶だけで幸せだった。

「臨終只今の思い」は、こと信心になると鬼の形相でつかみかかってきた
夫をも、入会に導いた。その直後のことだった。
夫が仕事中の事故で他界した。
悲運に立ち向かう妻は、わが子の手を引いて、故郷の高松市へ向かった。


信仰体験・ブラボーわが人生
 第32回 89歳 絹糸の強さよ

「不可能を可能にする信心させてもろうとん」

実家は厳しいもんや。「聖教新聞が家の敷居をまたぐのは許さん」と。
夫の会社からのお悔やみを少しずつ渡した。3ヶ月で38円しか残らん
かった。そしたら「出て行け」と。

「貸家」いう張り紙を探しては、頭を下げた。雪のちらちら降る日に、
ようやく家を見つけた。でも貧しさゆえに、ご飯がない。小さい子どもが
おる。仕事せないかん。

 ある日、トロ箱(鮮魚を入れる箱)を二つ積んだ自転車がタバコ屋に
止まっとん。「よし、魚の行商をやろう」。自転車の持ち主から
トロ箱を一つもろうた。

   ○ ○ ○

 魚屋で3ヶ月修行した。鐘を鳴らして行商に歩いたけど、
チョロチョロしか売れん。かっぱを買うお金はありません。
行商で雨にぬれることぐらいは頓着せん。

ラーメン買うてきては、お湯沸かした。誰かに「子どもには果物も
食べさせえな、いかんのぞ」と言われた。そりゃ食べさせたかった。
でも果物を買う金がない。子にラーメンをすすらせえて、残りの汁を
私がすすっての。武士は食わねど高ようじで働いた。

 それでも家賃が払えんで、福祉施設の母子寮に入った。
人間の影法師は、動いたらどこまでも、ついてくる。宿業も一緒。
なんぼ逃げても、ついてくる。宿命転換する以外に道はない。

 池田先生に誓うた。「たとえ飲まず食わずでも、子供だけは
広宣流布のお役に立つ子に育てます」。そしたら、先生の声が心に
響いてくる。

「題目挙げてるよ。頑張れ。頑張れ」。不可能を可能にする信心させて
もろうとん。強く生きな、いかんのや。

 3ヶ月で8万円できた。それを元手に店を始めた。薄板で隔てた、
駅の待合所の裏側。正味3坪ないし4坪。セメント分けてもろうて、魚飾る
台を自分で作った。屋号は、徳川家康の康をとって「魚康」にした。


   ○ ○ ○
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「魚康」で水をまく小比賀さん



 鐘鳴らして客呼んで、題目あげて働いた。節穴から目玉がのぞいとん。
目玉のあるじに「信心しましょう」と声掛けた。貧しい身なりを笑われた
けん、こう言うた。

「今は仮の姿。この姿をじっと見よってよ。必ず信心のすごさを示すから」
魚売りながら考えることは折伏だけや。「池田先生、三編とは申しません。
一遍の題目を小比賀絹子に送ってください」。

一生懸命に信心を語った。そうさせまいとする働きも強い。常に魔と
戦うた。常に自分の信心を試された。

 息子が20歳で亡くなっての。昭和50年(1975)や。「船乗りになって、
お母ちゃんを世界航路に連れていく」と言ってくれたのに……。
店の中で、いっとき泣いたです。これからどうやって自分は生きてい
くんやろ。

でもそれ以上泣くことは、貧しさが許してくれんかった。

 午前2時には市場に入っとらないかん。下の娘を起こして、ランドセル
を背負わしての。市場の食堂で朝ご飯食べさせて、学校へ送る。
うれしいこともあったけど、悲しいことがありすぎた。

だけども全部自分の宿業だから、「池田先生、先生」と題目あげた。
ほやから、先生と会えた時は感涙抑え難しでの。


   ○ ○ ○


 昭和53年1月、池田先生が四国研修道場に来られたんや。先生が車に
乗られる寸前にの、くるっと後戻りしてくれた。小学生の娘の肩に
手を置いて、「若い婦人部だね。お母さんを大切にね」と。

 昭和55年1月には「さんふらわあ7」号で神奈川にも行った。
翌年に「紅の歌」が誕生した時も、先生は手を包んでくださった。

 貧乏は不幸ではない。師を持たん人生が不幸や。私はの、母親としては
、失格かもしれん。貧しさから、娘に学問を受けさせてやれんかった。
結婚も3回した。ほいでも信心だけは頑張った。

 人生の指針がある。昭和37年8月に、池田先生から御書を頂いての。
表紙をめくると筆文字で、私の名前が書いてある。届けてくれた人から、
先生のご伝言を聞いた。

「絹糸は、糸の中でも一番細い。だけども強い」。私は子どもに何も
残せん。でも絹糸のように強く生きる姿を見せよう。そう決めた。

 魚売って、折伏して、余事を交えず池田先生のことを考えた。
頭には病気の「病」の字もなかった。子には「親と思うな。信心の
先輩と思え」と育てた。「冬は必ず春となる」(1253ページ)しか
なかった。


   ○ ○ ○
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家族に笑顔に包まれて暮らす




 35年間掲げた「魚康」の看板を下ろした日、私は御本尊と会話した。
「御本尊様、泣き虫の自分が、波瀾万丈の人生を耐え抜きました。
自分で自分を褒めてやりたいです」。泣いた。

 もともと病気だらけの人間や。みかんの缶詰を握らせてくれた
池田先生の手のぬくもりが、私に「生きろ」と励ましてくれた。
その恩がある。先生の名誉学術称号の数だけ折伏すると決めた。
今日までに254人に信心を持たせてきた。

 先日、病院で診てもろうたら片肺は真っ白。いまだに大腸がんも
あるがな。一日の命がどれほど大事か。たまに会合での、行商で使っと
った鐘を鳴らしよん。盛り上がるでよ。

 ひ孫と勤行した時、聞かれたんや。「おばあちゃんは、いつまで
生きる?」「おばあちゃんは130歳まで生きるよ」。驚いて笑われた。
でもの、私の人生、これからが本番だと決めとん。あと41年は
生きる計算や。   (天)


 【聖教新聞・2017年(平成29年)8月2日(水)】


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