戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(1) - 聖教新聞 体験談そのほか気になる記事

戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(1)

植野さんの体験談1.PNG

信仰体験。人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(1)

いま想う E 戦後71年の歩み

ビルマ(ミヤンマー)からの生還 (1)


【兵庫県西宮市】4年前のこと。植野正次さん(95)=春風支部、副本部長
=が、散歩の途中で公園に立ち寄ると、お年寄りたちの話し声が聞こえた。
「あんたはどこの部隊?」「食うや食わずで行軍しましたな」
「空襲も激しかった」、、、、戦時中の話のようだ。
「交ぜてもらってよろしいですか」。そう言って、植野さんも
輪に加わった。


1944年(昭和19年)7月8日、植野さんのいた第49師団歩兵第106連隊は、
戦艦大和で広島の呉を出発。タイを経由し、鉄道でビルマ(現・ミャンマー)
へと向かった。

41年の太平洋戦争開戦後、日本軍はビルマに侵攻し、全土を制圧する。
だが43年末から、英、米、中国などの連合軍反攻に遭い、形勢は逆転。
膨大な数の死者を出した(日本軍の死者数は、終戦まで16万人に及んだ)。

23歳の植野さんに不安はなかった。「”決して沈まない船”
と言われた大和に、意気揚々と乗り込みましたから、負けるなんて
少しも思いませんでしたな。

”敵を打ち負かしたる”とね」連隊は、翌45年3月から、ビルマにおいて
対英国の戦闘に加わる。植野さんの所属は、機関銃中隊。
歩兵の突撃を、銃撃で援護するのが任務だった。

「突っ込めー」の号令で進む仲間の歩兵たち。上空には戦闘機、
眼前には戦車と大砲が待ち構えていた。「あんな兵器の前に、銃剣1本
突き立てたって勝てるわけありません。でも、引いたって死ぬ。
どちらも死ぬなら、行くしかないわな」

戦艦大和で抱いた高揚感は、すでになかった。がむしゃらに機関銃を撃つ。
敵の人影が倒れていくのが見える。耳が張り裂けんばかりの戦車と大砲の
ごう音。その中で、次々に敵味方が死んだ。”これが戦争か”

ある日、敵の砲弾が目の前に落ちて爆発。破片が多数、両足に突き刺さる。
さらに2発目の砲弾。大木に直撃し、植野さんは折れた木々の下敷きに。
生き埋めとなったまま、日が暮れた。

”このまま、死ぬのか”。故郷の兵庫で農家を営む両親の顔が浮かんだ。
どれ程の時が過ぎただろうか。足音が聞こえた。「助けてくれ」。
敵か味方か分からないが、声を振り絞る。日本軍の別部隊に救助された。

負傷兵となり、川を下って軍の野戦病院に向かった。
搬送中、船が攻撃を受ける。甲板から川岸に投げ出され、意識を失った。
気づいた時は病院のベッドの上。間一髪で難を逃れた。

「破片が食い込んだ傷口から、ウジが湧いてきましてな。
蜂の巣みたいにへばりついた包帯をはがすと、ウジがポトッと
ベッドの上に落ちるんです。痛みと高熱がひどくてな。やっと眠れたと
思っても、また痛みにのたうち回る夢を見る」!

足に食い込んだ破片は13か所に上った。1週間後、9か所の破片を取り除く。
薬は底をつき、麻酔なしで手術を行う。
4か所は、戦後も破片が入ったままとなった。

負傷兵は続々と運び込まれた。ある時、植野さんは、病院の中庭に
薪がくみ上げられているのを目にする。その上には、手術で
切断された負傷兵の手足が。屋外で燃やした。

「曲がっていた手足が、燃やすと、ぴゅんと真っすぐに伸びるんですわ。
山のように積まれていてね。何とも言えんかった」
終戦の8月15日は、病院のベッドの上で迎えた。

「”ああ、やっと終わったー!”と思いましたよ。”負けたのか”も
”悔しい”もない。”こんなにまでして、人を殺すのは、もうええやろ”
と。そう思いましてな」

 2につづく  (聖教新聞)

 まとめ
戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(1)
戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(2)

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