戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(1) - 聖教新聞 体験談そのほか気になる記事

戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(1)

1戦後の樺太.PNG

写真上 思い出したくもない、つらく悲惨な体験も、
「平和のために語り継いでいかねば」と栗田さん。
「私たちが経験した苦しみや悲しみは、子や孫、
そして子々孫々まで、絶対に味わわせたくないから」と
写真下 栗田さんが電話交換手として、勤めていた樺太・
豊原逓信局の建物。にぎやかな駅前通りにあった
(1939年撮影、写真:近現代PL/アフロ)

戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(1)

いま想うーGー戦後71年の歩み

樺太 終戦後の戦争

命を懸けて声を届けた電話交換手


【北海道苫小牧市】昨年7月、栗田八千子さん(88)=錦岡支部、副白ゆり長
=は、戦後の引き上げ後初めて、ロシア極東サハリンのホルムスクを
訪れた。かって「樺太」の「真岡」と呼ばれていた町。戦前の面影はない。
70年前の記憶を頼りに、栗田さんは中心街の一角で足を止めた。

持参した花を供え、題目を唱える。目を閉じると、同僚だった乙女たちの
声がよみがえってきた。恋を語り夢を語り合った、懐かしいあの声。
短い青春に別れを告げる、苦しみと無念のあの声、、、。
かつてそこにあった建物で、悲劇は起きた。”終戦後の戦争”である。


樺太 終戦後の戦争
「どうしょう!真岡が攻撃されている!」同僚の突然の声に、
栗田さんは慌てて、ブレスト(電話交換手の受話器)を取った。
終戦から5日がたった1945年(昭和20年)の早朝。

南樺太の中心都市・豊原(現在のユジノサハリンスク)の
逓信局で、17歳の栗田さんは当直勤務をしていた。
逓信とは、音信を取り次ぎ、送り伝えること。当時は、交換手が
手作業で電話回線をつないでいた。

栗田さんはとっさに、「だめよ、逃げて!」と叫んだ。
「死なないで!」と何度も声を上げた。
ブレストの向こうから、別の声がする。(苦しい、、、)

服毒自殺だと直感した。彼女たちは日頃、”もし敵が攻めてきても、
決して持ち場を離れず、堂々と自決しましょう”と確認し合ってきた。
数日前から、女性に対し、緊急疎開が命じられていた。
しかし、彼女たちは交換台にとどまった。

”電話が使えなくなれば、町はさらに混乱する。軍の通信にも
支障をきたしてしまう。仕事を続けなければ!”
この日の早朝、ソ連軍が艦砲射撃をしながら真岡に上陸。

だが、彼女らは職場を死守し続けた。そして、次々と青酸カリを。
9人が若き命を自ら断ったのである。
「70年以上たった今でも、彼女たちの最期の声を忘れることができない。
思い起こすたび、心臓をえぐられるような気がします」

2日後の22日午後、栗田さんがいた豊原の町も、空襲を受けた。
逓信局の2階にいた彼女は、地下室にかけ下りた。
そこは、逃れてきた人々であふれかえっていた。血まみれで横たわり、
生死も知れぬ人。

頭が吹き飛ばされた赤ん坊を、ぼうぜんとしておぶったままの母親。
爆音が収まると、地獄のような光景が怖くて、栗田さんは職場に戻った。
外は一面、火の海である。

毛布を頭からかぶり、震える手を押さえながら、惨状を札幌の逓信局へ
伝えた。だが、日本軍は解散しており、援軍は来ない。
具体的な指示や助言も得られなかった。

「”戦争が終わった本土”と”戦争中の樺太”との間には、
埋めがたい空気の温度差がありました。」
夕方、女性は帰宅を命じられ、栗田さんも自宅へ。
ソ連兵が襲ってくるかもしれないと、部屋の明かりを消し身を潜めた。

この日、引揚者を乗せて、樺太から北海道へ向かっていた舩3艘が、
潜水艦の攻撃を受け、1700人以上が死亡。
これにより、引揚事業は中断。栗田さんら大勢の日本人が
樺太で孤立することになる。

豊原では、焼夷弾による火災が、翌23日まで続いた。
同日深夜には、ソ連軍の進駐が始まる。戦闘は終結したが、各地で、
暴行や略奪が頻発。

そうした行為をソ連当局も取り締まったが、一部の蛮行は
なくならなかった。夜、住民は表戸を板で打ち付け、女性を天井裏や
地下室に隠す。

いざという時、すぐに家の外へ出られるように、「どんでん返し」
と呼ばれるからくりも作られた。栗田さんも、何度も危険な目に遭った。
便所の小窓から外へ飛び出し逃げたこと。

拳銃を突き付けられていたところを、通リすがりの人に助けられたこと。
理不尽な嫌疑でシベリア送りを命じられたこともあったが、
友人にかくまってもらって逃げ延びた。

出征中の夫・幸次郎さん(故人)の留守を守り、生後間もない病弱な
長女・幸子さん(70)を、懸命に育てた。過酷な収容所生活でも、
み知らぬ人に頭を下げ、母乳を分けてもらったことも。

”もう無理”と何度思ったかしれない。だが、幼子の寝顔を見ては
涙を拭いた。”この子のために、何があっても生き抜いてみせる!”
と。

  第2につづく  (聖教新聞)

まとめ
戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(1)
戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(2)

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