戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(2) - 聖教新聞 体験談そのほか気になる記事

戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(2)

2戦後の樺太 .PNG

長女・幸子さん(前列左端)ら子や、孫、ひ孫に
囲まれて。「立派に育つ後継の子らに大事にされて、
私は本当に幸せ者です」と。(同中央が栗田さん)

戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(2))

いま想うーGー戦後71年の歩み

樺太 終戦後の戦争

命を懸けて声を届けた電話交換手


栗田さんが、本土へ引き上げを果たすのは46年末。
その後、東北や北海道各地を転々とし、復員した夫・幸次郎さんと再会する。
家族一緒に暮らしていくが、10年、15年とたっても、生活は貧しいまま。

幸次郎さんは酒乱で、真面目に働かない。5人の子を養うため、栗田さんは
働き詰めの毎日。”幸せなんて私とは無縁”。そう思って生きてきた。
そんな中、「あなたも必ず幸せになれる」と熱く語る人に出会う。

創価学会の壮年だった。そんなことを言われても、信じられるわけもない。
62年4月、幸次郎さんが酔った勢いで入会を決め、栗田さんも渋々従ったが、
学会活動に取り組むことはなかった。

ただ、亡くなった家族や樺太の同僚たちの供養にと、勤行・唱題は
地道に続けた。その後、幸次郎さんが班長(当時)に任命されたが、
学会活動を真面目にやらない。

仕方なく、栗田さんが班員への連絡など、活動せざるを得なくなる。
弘教にも歩いた。そのうち、徐々に変わったことが起き始めた。
長年苦しんできた貧血が、すっかり治った。
そして幸次郎さんが真面目に働くようになった。

さらに、貧乏から抜け出せなかったのが、一軒家を建てられるまでになった。
それだけではない。「終戦直後から、ずっと、目の前の悩みで
いっぱいだった私が、気づけば、人の幸せを祈れる自分に変わっていた。
性格も明るくなった。それが、一番の功徳かもしれません」

戦中戦後を生きてきた人は、誰もが、生きることに精一杯だった。
時には人をだまし、陥れてでも、自分を守る時がある。
そんな人間の醜さ、心の弱さを、栗田さんも幾度となく目にしてきた。

それも仕方ない、と思って生きてきた。
だがそうではない、と学会が教えてくれた。もっと自分を高められる。
そう訴える「人間革命」という哲学に出会えた。

そして、”自分も幸せになれるんだ”と思えた。
この時、栗田さんの”戦争”は終わったのかもしれない。
今、人々の要望に応え、各地で戦争体験を語る活動も続けている。

来年で卒寿を迎えるが、「体が動く限り、平和の尊さを訴え続けたい」
と心に決めている。

命を懸けて声を届け続けた、あの乙女たちの分まで、と、、、。

 (北海道支局編集部発) (聖教新聞)

  おわり

まとめ
戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(1)
戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(2)

昭和20年8月15日に戦争は終わっている。本篇の記事にあるように、戦争は終わり、
樺太から日本兵はひきあげた。そんな状況の中、ソ連兵は攻撃してきた。そのため、
これからという若い女性の電話交換手たちは無為に命を終えた。
終戦後、日本軍が引き揚げた後、ソ連兵は武器を持たぬ一般庶民を攻撃してきた。

多くの日本人が殺された。こらは犯罪ではないのか。
ソ連がここまで強硬に出れたのは、英、米、ソの首脳によろ
ヤルタ会談の戦後処理の密約があった。

ソ連が犯した反逆行為は決して忘れてはならない。

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