戦後71年の歩み・悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(1) - 聖教新聞 体験談そのほか気になる記事

戦後71年の歩み・悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(1)

体験談、中澤さん1.PNG
ひ孫を抱いて、笑みをこぼす中澤さん。「信心という宝を
一人一人に伝えていかなきゃね」と(左から、孫の拓海さん
、長女・純子さん、中澤さんとひ孫の早川真珠ちゃん、
孫の早川瑠美さん)


【茨城県つくば市】戦争が終結すると、戦地や日本の植民地、
占領地にいた軍人や民間人、合わせて600万人以上が日本へ帰還した。
その中の一人、中澤とく江さん(77)=館野広宣支部、婦人部
副本部長=の引き揚げは、「悲惨という言葉では言い尽くせない。
生きて帰れないのが当たり前だった」。
今、6月に生まれたばかりのひ孫の世話に励む彼女。
死を直視し、人生の意味を問い続けたからこそ、新たな命を育む
喜びは深い。

信仰体験 いま想う 戦後71年の歩み 

悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(1)

親子を引き裂いた満州からの引き揚げ

1932年(昭和7年)、中国東北部に日本の傀儡国家「満州国」
が建国された。
中澤さん一家は、新たな農地を求めて41年に茨城県から満州へ。
当時2歳。たどれる記憶はない。

だが6歳からの出来事は、残酷なほど心に刻まれている。
日本の敗戦を機に、生活は一変した。
満州国を支配していた日本は、ソ連兵や現地人の襲撃に
さらされた。

引き揚げまでは命の危険ばかり。関東軍(日本陸軍の満州駐屯部隊)
から、自ら命を絶つための青酸カリが配られた。
ある日、燐家の婦人が血相を変え、家に駆けこんできた。

事情を聞いた母は、すぐさま燐家に走った。
中澤さんも後を追う。家の中には、婦人の5人の幼子が布に覆われて
横になっていた。枕元には、白米に箸が刺さった茶碗が。
「お父さん、お母さんも後で逝くから」と、
青酸カリを飲まされて亡くなっていた。

年長の娘さんが血を吐き、のたうち回っていた。
娘が死に切れなかったため、燐家の婦人は、中澤さん宅に青酸カリを
もらいに来たのだった。口に含ませると、すぐに息を引き取った。

中澤さんは泣きじゃくって家へ帰った。「母は生涯、毒をわたすしか
なかったことを悲しそうに話していました」
後日、母と共に、6人の子が埋められた場所へ向かった。

そこで、地面から飛び出した腕や足を見た。周りには、
数匹のオオカミが死んでいた。オオカミが遺体を掘り返し、
毒が回ったのだろう。母は無言で土をかけていた。
中澤さんは母の身体にしがみつき、家のそばで摘んできた
紫色の花をたむけた。

妊娠していた母は、46年春に、弟・塚越良安さん(70)=副支部長=
を出産した。中澤さんの胸には、喜びと同時に恐怖も湧いた。
「子どもは足でまといになるから、小さい子ほど殺されました」。
不安に駆られ続けた。眠れぬ日々を重ねた、ある夜、物音で目が覚めた。

何かをすりつぶすような音。父が青酸カリを水に溶かし、
生後まもない弟に与えようとしていた。「あんちゃん、早く助けて!」。
中澤さんの叫び声に飛び起きた兄は、弟を抱きしめ、「俺が育てる!」
と。以来、兄と一緒に弟の世話を担った。

父は事あるごとに、母と言い争った。そのたびに母は、
「死ぬ時は、みんな一緒だ」。それが口癖だった。
父親が信じられなくなった。生きて日本に帰れるとも思えなかった。
「親に殺されるかもしれない。生きていても、地獄のようだった」

引き揚げまでの道のりは、よく覚えていない。ハルピン、新京・・・
耳にした都市の名前だけが、家族の足跡を物語る。
いつ襲われるかもしれない恐怖の日々。女性は連れ去られた。
当時16歳の姉も姿が消え、二度と会えなかった。

47年の春、引き揚げ船に乗った。京都の舞鶴港に着くと、声を掛けられた。
「お人形さんを背負っているの?」「人形じゃないよ。弟だよ」
家族と同じように、弟も痩せ細り、はたから見れば、生きているのか
どうかも分からないような状態だった。

2につづく  (聖教新聞)

まとめ
悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(1)
悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(2)

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