戦後71年の歩み、生きて帰ったこの命は平和のために使うんだ(1) - 聖教新聞 体験談そのほか気になる記事

戦後71年の歩み、生きて帰ったこの命は平和のために使うんだ(1)

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戦場の日々を振り返る鈴木さん。「暑い夏が訪れるたび、終戦前、
飢えと爆撃に耐えた日々が思い出されます。こんなに生きられるとは
考えもしなかった。これからも一日一日を大切に、広布のため、
平和のために語り続けます」と。

2鈴木さん.PNG
パラオ本島のアイライ空港近くの草むらに残された日本軍の高射砲
(1976年10月1日撮影、朝日新聞社提供)

鈴木さん3.PNG
パラオ


【東京都世田谷区】「白菊と/黄菊と咲いて/日本かな」(夏目漱石)
鈴木健さん(96)=野沢支部、副区長=が、青年時代に愛した句である。
自宅の軒先で鉢を育てて25年以上。毎年、花が咲く秋を楽しみに待つ。
「年を経て、菊への思いも変わってきた」と。
鈴木さんの人生にとって、菊の花がもつ意味とは何か。
その始まりは、太平洋戦争の激戦地・パラオでの日々にある。

信仰体験 いま想うB 戦後71年の歩み

戦後71年の歩み、生きて帰ったこの命は平和のために使うんだ(1)

太平洋の激戦地・パラオでの記憶


菊花紋章の付いた軍旗と共に太平洋を南下したのは、1944年(昭和19年)
春のことだった。”われ、日本の防波堤たらん”
動員に際し、満州(現・中国東北部)の駐屯地で受けた訓示が、
そのまま鈴木さんの決意だった。当時、24歳。陸軍第14師団歩兵第59連隊
に所属する主計将校であった。

本来の任務は現地での食糧の確保等であり、前線に出る可能性は低い。
しかし戦局は悪化していた。前年のガダルカナル島撤退以降は、
日本軍が全滅したという情報も洩れ聞いた。

訓示後、仲間と密室で語った。「我々は”玉砕”しに行くのだ」
同年7月、鈴木さんのいる大隊はパラオ本島へ。
上陸直後、乗ってきた輸送船4隻全てが米軍の艦載機に撃沈され、
間一髪でジャングルに逃げ延びた。

米軍は9月15日にぺりりュー島、17日にアンガウル島に上陸。
日米双方に、膨大な死者を出していく。
パラオ本島の日本軍は、ぺりりュー島へ、民間船を用いて夜襲をかけた。

だが無数の照明弾が空を照らし、島に入る水路で米軍の機銃掃射に遭う。
「2度の出撃で、戦況報告のため帰還者以外は、皆、死にました」
3度目の切り込みに、鈴木さんにも命令が下る。

ヤシの木で作った宿舎を、残らず解体した。”立つ鳥、跡を濁さず”
の行為であったという。「防波堤として喜んで死ぬ。たたき込まれた
軍人精神を、誇りと信じていた」

夜中、パラオ本島のアイライの港から船に乗り込もうとしたまさに
その時。連隊本部から、「切り込み中止」の命令を受けた。
中止の理由は分からない。

しかし、鈴木さんの命はつながった。中止命令伝達の瞬間、鈴木さんに
未知の感情が湧いた。”助かった、、、”
「全身の力が抜け、初めて自覚したんですね。”俺は、生きたいんだ!”と」
ジャングルに戻り、再び宿営の小屋を建て、米軍と対峙した。

アンガウル島の戦闘は44年10月中旬、ぺりりュー島は11月下旬に終結。
万を超える死者が出た。パラオ本島に米軍の上陸はなかったが、
終戦まで爆撃にさらされ続けた。

「連日、グラマン(戦闘機)が4機編隊で来て、機銃掃射されてね。
一度見つかったら、30分は続く。動かずに、死んだふりをして耐える
のみです。弾丸の1発は手の甲を貫通し、命拾いしました」

B29による爆撃で2メートル先に爆弾が落ちたことも。”これまでか”
と覚悟したが、幸い、不発弾だった。飢えにも苦しんだ。
主計将校として、サツマイモの栽培を試みるも、太平洋地域特有の
スコール(大雨)で流された。カタツムリやトカゲを、ヤシの実から
採った油で揚げて食した。

亡くなる者は一目で分かった。食べていないのにパンパンに
腹がふくれる。下痢が続く。”明日はもうだめだろう”と思うと、
間違いなく亡くなっていた。

「戦病死と記録されたうち、その多くは餓死でした」。
鈴木さん自身も衰弱した。軍刀を”つえ”にして歩くが、石につまずき、
容易には起き上がれなかった。

パラオ本島到着から1年後の45年7月、付近の防空壕に爆弾が直撃した。
間もなく、壕にいた陸軍経理学校同期の主計将校が戦死したことを知る。
母一人子一人で育ち、仲間の誰よりも優秀で、親思いの好青年であった。
自身の飢えと闘いながら、鈴木さんは感じた。

”戦場では、優秀なやつ、必要とされる男から死んでいくのか、、、”」
生と死が隣り合わせの中、殺し合うことの不条理を思った。
8月16日、連隊本部に集められ、前日の玉音放送の内容を聞く。
終戦を知った。

翌年の1月7日、米軍の船で神奈川県の浦賀に着いた。港で、
正月の晴れ着を身にまとった女性を目にした。街は戦火の爪痕を色濃く
残していたが、その中にも、新たな歩みが始まっていること感じた。

 (2)につづく (聖教新聞)

まとめ
戦後71年の歩み、生きて帰ったこの命は平和のために使うんだ(1)
戦後71年の歩み、生きて帰ったこの命は平和のために使うんだ(2)

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