世界の体験プラザ・核兵器廃絶こそ取るべき選択肢 - 聖教新聞 体験談そのほか気になる記事

世界の体験プラザ・核兵器廃絶こそ取るべき選択肢

米・退役軍人 1.PNG
核実験演習に参加した被ばく退役軍人として活動して
きたオリバーさん。ミズーリ州ニクサの自宅前で


 世界の体験プラザ・核兵器廃絶こそ取るべき選択肢
 米国の核実験演習で被ばくした退役軍人
 アメリカSGI ロバート・オリバーさん


 きのこ雲の爆心地に進撃

 
 核爆弾が炸裂した後に生じる巨大な火の玉ときのこ雲。この世のものとは
思えない、その非現実的な光景を、私は何度も直接この目に焼き付けました。
1951年、陸軍の兵士として、核実験演習に参加していた時のことです。

 演習のコードネームは「デザートロック」。米国の核実験において初めて、
実戦を想定して陸軍の部隊が動員された演習でした。

 演習場は、ラスベガスから北西に104キロ離れたネバダ州の砂漠。文明から
完全に隔離された荒野にテントを張ってキャンプを設営し、数ヶ月間、
そこで暮らしました。

 核爆弾を投下した後、生き残った敵戦力を撃つために爆心地に進軍する
という演習だったと記憶しています。塹壕にうずくまって待機し、
爆発の直後、私たちは武器を持って立ち上がり、まるで敵に向かって
襲撃するかのように、あのきのこ雲が上がる爆心地に向かうのです。

 演習場に着いた日、大きなスピーカーを通して指揮官から説明が
ありました。私たちがここに来たのは核実験の補助をするためであり、
ソ連との核競争に勝って冷戦を終わらせるためだと、多くの兵士が、
放射能によって父親になれる可能性を奪われるのではないかと
懸念していました。

 ある実験中、誤算で通常よりもキャンプに近い位置に爆弾が落ちました。
テントはたちまち吹き飛ばされ、砂嵐で空は一気に暗くなりました。
昼間なのに夜中のようなのです。
それでも指揮官は”放射能は低いから気にするな”と言い放ちました。

 身を守るために掘った塹壕も、その上に積んだ土のうも、放射線を
防ぐためには何の役にも立たない。そのことが分かったのは、
後年、私たち「被ばく兵士」が後遺症に苦しむようになってからの
ことでした。


 後遺症に苦しむ仲間たち

米・退役軍人 2.PNG
1951年、ネバタ州の砂漠で行われた核実験。
連動して行われた演習「デザートロック」では
、陸軍兵が爆心地から20キロ以内の距離の塹壕
で爆発の瞬間を待ち、その後、きのこ雲に
向かって歩きだした



 私の部隊には143人が在籍していましたが、今でも生きているのは、
84歳の私一人だけです。仲間たちは「デザートロック」での任務を
終えた後、それぞれの道を進んでいきました。

 私は韓国に派遣され、その後、日本に駐留。そこで生涯の伴侶である
サエコと出会いました。55年1月に結婚。ですが、どうしても子どもを
授かることができません。軍医に診てもらうと、私の体では一生涯、
子どもができないと診断されました。
63年、まだ生後2週間だった娘のエミリーを養子に迎え入れました。

 65年、愛する妻と娘を日本に残して、戦線が拡大するベトナムに
派遣されました。その頃、サエコが創価学会に入会したのです。
サエコは私の無事を懸命に祈ってくれました。

 ベトナム駐留中に、”もうだめだ!”といった場面が3度ありましたが、
奇跡的に生き延びることができました。日本に帰還した私を見て、
サエコは御本尊の功力を感じ、信心の確信を深めました。

 私は当初、奇妙な宗教だと勘違いし信心に反対していましたが、
彼女の意志は固く、題目を唱え続けました。以前より生き生きと
変わっていく妻の姿に、この仏法には何かあるのかもしれないと
思い、私自身も入会。68年のことでした。

 家族でワシントンDCに引っ越し、70年には陸軍を退役。
題目を唱えながら新しい仕事を探すと、願っていた通りの条件で
電気技術者の仕事に就くことができました。信心の功徳を実感し、班長
として、草創期のアメリカ広布の最前線で活動するようになりました。

 私にとってもう一つの功徳は、偶然、あるラジオのニュースに
触れられたことです。それは、多くの被ばく兵士が驚くべき早さで、
がんのために亡くなっているという衝撃の内容でした。
全米被ばく退役軍人協会の存在を知り、私はすぐに会員になりました。

 そこで分かったのは、多くの仲間たちが、すでにこの世を去っている
という絶望的な現実でした。生存者たちも、白血病や皮膚がんなどの
病に苦しんでいたのです。


前を向いて生き抜く勇気

米・退役軍人 3..PNG
昨年まで闘病中だった妻サエコさん
(故人)と共に



 2001年の時点で、同じ部隊で生きているのは、ほぼ私だけとなりました。

 被ばく兵士の妻たちから届いた手紙を、今でも大切に持っています。
それらは、仲間たちがどのような最期を遂げたのかを知る手掛かりに
なりました。その中の誰一人、父親になれた人はいませんでした。
50歳まで生きた人の方が少なかった。

 数年前、私自身もぼうこうがんを患いました。60年以上を経てもなお、
放射線の悪影響を受けていることにショックを隠しきれませんでした。
しかし幸いなことに、早期発見のおかげで腫瘍を取り除く手術を即座に
受けることができ、今もがんは再発していません。

 日蓮仏法の実践を始めたのとほぼ同じ時期に、仲間たちの現状を知り、
自身の体にも異変を感じ始めたのは、決して偶然ではないと思っています。
この84年の人生で、いとも簡単に希望が崩れてしまうような苦しみを、
あまりにも多く目撃し、また自らも体験してきました。
しかし私は、何があっても前を向いて生き抜く勇気を、この信心で
得ることができました。

 南無妙法蓮華経の題目を日々唱え、池田先生の指導を学んでいるからこそ
私は決して絶望しません。創価の青年たちを信じ、人類の未来に希望を
持てる自分でいられるからです。

 今でも唱題するたびに、心の中が晴れ渡っていくような感覚があります。
「命というものはわが身にとって第一の珍宝である。たとえ一日で
あっても寿命を延ばすならば、千万両の金にもまさるのである」
(御書986ページ、通解)との御聖訓をかみ締める毎日です。

池田先生とSGIの同志、そして、被ばくした私を生涯支え、昨年、霊山へと
旅立った最愛の妻に、感謝してもしきれません。

 池田先生は半世紀以上にわたり、核兵器廃絶を訴え続けてきました。
戦争と核の恐ろしさを身をもって経験した一人として、私は声を大にして
言いたい。池田先生のような貢献をしてきた人物は、他にはいないと。

 核兵器が使用される時、そこに勝者はいません。全員が敗者です。
ゆえに私たちには、核兵器廃絶という選択肢しか残されていないのです。


 【聖教新聞・2018年(平成30年)1月29日(月)】


posted by mity504 at 20:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 世界の体験プラザ
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