信仰体験・ブラボーわが人生 第32回 89歳 絹糸の強さよ - 聖教新聞 体験談そのほか気になる記事

信仰体験・ブラボーわが人生 第32回 89歳 絹糸の強さよ

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【香川県高松市】「池田先生にお目にかかってなかったら、私はとうに
死んどる」。その言葉がちっとも大げさでないことは、小比賀絹子さん
(89)=香川支部、地区副婦人部長=の足跡をたどれば合点がいく。

 31歳で大腸がんになった。手術費がなく、生きることを諦めた。
母が「最後の花道だから」と用意した振り袖を着て、よたよたと
退院した。足裏の浮腫に死期を感じた時、小比賀さんは4年半も
拒み続けた信心を始めた。

「悪い宗教が元で死ねるなら、それもええ」。捨て鉢な決断だったが、
学会の同志は命に潤いを与えようとした。満足に歩けない小比賀さんを
板に乗せ、瀬戸内海の直島から船に乗せた。

訳も分からず連れてこられた東京の日大講堂。2階席の手すりをつかんで
参加したのは、池田先生の第3代会長就任式だった。

 その後、友の唱題に背を押され、「3人前の信心せんな」と腹を決めた。
心が体を突き動かし、足を引きずって歩けるようになった。
粗末な服で参加した夏季講習会。昼食代もなく、一人で唱題していた。

思いがけず、池田先生と出会う。「何があっても生きるんだ」と、みかんの
缶詰を握らせてくれた。宿に帰って、みんなと湯呑みに分けた。
小比賀さんは自らの口に入れなかった。空き缶だけで幸せだった。

「臨終只今の思い」は、こと信心になると鬼の形相でつかみかかってきた
夫をも、入会に導いた。その直後のことだった。
夫が仕事中の事故で他界した。
悲運に立ち向かう妻は、わが子の手を引いて、故郷の高松市へ向かった。


信仰体験・ブラボーわが人生
 第32回 89歳 絹糸の強さよ

「不可能を可能にする信心させてもろうとん」

実家は厳しいもんや。「聖教新聞が家の敷居をまたぐのは許さん」と。
夫の会社からのお悔やみを少しずつ渡した。3ヶ月で38円しか残らん
かった。そしたら「出て行け」と。

「貸家」いう張り紙を探しては、頭を下げた。雪のちらちら降る日に、
ようやく家を見つけた。でも貧しさゆえに、ご飯がない。小さい子どもが
おる。仕事せないかん。

 ある日、トロ箱(鮮魚を入れる箱)を二つ積んだ自転車がタバコ屋に
止まっとん。「よし、魚の行商をやろう」。自転車の持ち主から
トロ箱を一つもろうた。

   ○ ○ ○

 魚屋で3ヶ月修行した。鐘を鳴らして行商に歩いたけど、
チョロチョロしか売れん。かっぱを買うお金はありません。
行商で雨にぬれることぐらいは頓着せん。

ラーメン買うてきては、お湯沸かした。誰かに「子どもには果物も
食べさせえな、いかんのぞ」と言われた。そりゃ食べさせたかった。
でも果物を買う金がない。子にラーメンをすすらせえて、残りの汁を
私がすすっての。武士は食わねど高ようじで働いた。

 それでも家賃が払えんで、福祉施設の母子寮に入った。
人間の影法師は、動いたらどこまでも、ついてくる。宿業も一緒。
なんぼ逃げても、ついてくる。宿命転換する以外に道はない。

 池田先生に誓うた。「たとえ飲まず食わずでも、子供だけは
広宣流布のお役に立つ子に育てます」。そしたら、先生の声が心に
響いてくる。

「題目挙げてるよ。頑張れ。頑張れ」。不可能を可能にする信心させて
もろうとん。強く生きな、いかんのや。

 3ヶ月で8万円できた。それを元手に店を始めた。薄板で隔てた、
駅の待合所の裏側。正味3坪ないし4坪。セメント分けてもろうて、魚飾る
台を自分で作った。屋号は、徳川家康の康をとって「魚康」にした。


   ○ ○ ○
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「魚康」で水をまく小比賀さん



 鐘鳴らして客呼んで、題目あげて働いた。節穴から目玉がのぞいとん。
目玉のあるじに「信心しましょう」と声掛けた。貧しい身なりを笑われた
けん、こう言うた。

「今は仮の姿。この姿をじっと見よってよ。必ず信心のすごさを示すから」
魚売りながら考えることは折伏だけや。「池田先生、三編とは申しません。
一遍の題目を小比賀絹子に送ってください」。

一生懸命に信心を語った。そうさせまいとする働きも強い。常に魔と
戦うた。常に自分の信心を試された。

 息子が20歳で亡くなっての。昭和50年(1975)や。「船乗りになって、
お母ちゃんを世界航路に連れていく」と言ってくれたのに……。
店の中で、いっとき泣いたです。これからどうやって自分は生きてい
くんやろ。

でもそれ以上泣くことは、貧しさが許してくれんかった。

 午前2時には市場に入っとらないかん。下の娘を起こして、ランドセル
を背負わしての。市場の食堂で朝ご飯食べさせて、学校へ送る。
うれしいこともあったけど、悲しいことがありすぎた。

だけども全部自分の宿業だから、「池田先生、先生」と題目あげた。
ほやから、先生と会えた時は感涙抑え難しでの。


   ○ ○ ○


 昭和53年1月、池田先生が四国研修道場に来られたんや。先生が車に
乗られる寸前にの、くるっと後戻りしてくれた。小学生の娘の肩に
手を置いて、「若い婦人部だね。お母さんを大切にね」と。

 昭和55年1月には「さんふらわあ7」号で神奈川にも行った。
翌年に「紅の歌」が誕生した時も、先生は手を包んでくださった。

 貧乏は不幸ではない。師を持たん人生が不幸や。私はの、母親としては
、失格かもしれん。貧しさから、娘に学問を受けさせてやれんかった。
結婚も3回した。ほいでも信心だけは頑張った。

 人生の指針がある。昭和37年8月に、池田先生から御書を頂いての。
表紙をめくると筆文字で、私の名前が書いてある。届けてくれた人から、
先生のご伝言を聞いた。

「絹糸は、糸の中でも一番細い。だけども強い」。私は子どもに何も
残せん。でも絹糸のように強く生きる姿を見せよう。そう決めた。

 魚売って、折伏して、余事を交えず池田先生のことを考えた。
頭には病気の「病」の字もなかった。子には「親と思うな。信心の
先輩と思え」と育てた。「冬は必ず春となる」(1253ページ)しか
なかった。


   ○ ○ ○
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家族に笑顔に包まれて暮らす




 35年間掲げた「魚康」の看板を下ろした日、私は御本尊と会話した。
「御本尊様、泣き虫の自分が、波瀾万丈の人生を耐え抜きました。
自分で自分を褒めてやりたいです」。泣いた。

 もともと病気だらけの人間や。みかんの缶詰を握らせてくれた
池田先生の手のぬくもりが、私に「生きろ」と励ましてくれた。
その恩がある。先生の名誉学術称号の数だけ折伏すると決めた。
今日までに254人に信心を持たせてきた。

 先日、病院で診てもろうたら片肺は真っ白。いまだに大腸がんも
あるがな。一日の命がどれほど大事か。たまに会合での、行商で使っと
った鐘を鳴らしよん。盛り上がるでよ。

 ひ孫と勤行した時、聞かれたんや。「おばあちゃんは、いつまで
生きる?」「おばあちゃんは130歳まで生きるよ」。驚いて笑われた。
でもの、私の人生、これからが本番だと決めとん。あと41年は
生きる計算や。   (天)


 【聖教新聞・2017年(平成29年)8月2日(水)】


posted by mity504 at 20:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブラボーわが人生
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