世界の体験プラザ - 聖教新聞 体験談そのほか気になる記事

世界の体験プラザ 人生を再び輝かせた妙法の力(1)

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写真右上、シンポジュムで発表する辻さん
写真右下、ロックフェラー大学の校門で

辻さん3.PNG
大学内の研究室で実験に取り組む


世界の体験プラザ 人生を再び輝かせた妙法の力(1)

免疫学研究で世界的な成果

アメリカSGI 辻守哉さん ロックフェラー大学教授


酒とケンカの荒んだ生活


1958年元日、辻守哉さんは、医学研究者の父と教育者の母のもと、
東京で生を受けた。父の仕事の関係から幼少期をフランスで過ごし、
小学6年の時、広島へ。

高校時代には父と同じ医学の道を志すようになり、東京慈恵会
医科大学に進学。卒業後、東京大学大学院に進み、免疫学の
世界的権威だった故・多田富雄氏の研究室で学んだ。

博士号を取得後、87年、ニューヨーク大学へ。大学では医分子
寄生虫学の研究に没頭。20代から30代にかけて、順調な研究生活を
送り、39歳で大学の終身在職権(テ二ア)を取得することもできた。

周囲の人々にもてはやされるようになったが、その頃から辻さんの
人生には暗い影が落ち始めていた。40半ばまでに2度の離婚を経験。
空しさや寂しさが心を覆い、研究活動への情熱も次第に薄れていく。

「当時、精神状態がいつも不安定でした。もともと(酒を)飲むのが
好きだったこともあり、毎晩、ひたすら飲んでいました。学生時代に
アメリカンフットボールと陸上で鍛え、体力にも自信があったので、
バーで飲んではケンカばかり、、、」

健康面は悪化。血圧は200近くに達し、肝機能の数値も極端に悪かった。
「アンガー、(怒り)・アローガンス(傲慢)・アルコールという”
トリプルA”の問題に直面していました(笑い)」

そんな荒んだ生活だった2006年、あるレストランで一人の女性に出会う。
のちに妻となる由紀子さんだった。「彼女は店の従業員なのに、客の私に
飲ませてくれなかった。後で聞いた話では、私の身体を心配してくれたん
ですね」

このことが人生の転機になるとは、もちろん、当時は知る由もなかった。


妻に導かれ、信仰の道へ

”学会2世”だった由紀子さんは、創価女子短期大学を卒業後、渡米。
歌を教えるかたわら、両親の知り合いが経営するニューヨークの店で
働いていた。

彼女とは18歳の年齢差だったが、出会った時に人生を共にするように感じた。
07年6月、三重県にある彼女に実家を訪問。由紀子さんの両親、姉とその夫が
温かく迎えてくれ、和やかに語り合う中、話は日蓮仏法に及んだ。

辻さんは、信仰への抵抗感を拭えなかった。しかし「時がたつにつれ、
信仰への関心が自然と高まっていったんです」。7月8日、入会。
その日は、由紀子さんの誕生日でもあった。

アメリカSGI(創価学会インタナショナル)の活動に取り組み始めると、
信仰への認識は根底から覆されていった。さまざまな人種のメンバーが集い合う、
にぎやかなザダンカイに新鮮な感動を覚えた。弘教、一念三千、、、
初めて耳にする言葉に戸惑っていると、ニューヨークのメンバーの一人から
「本当に日本人なの?と言われました(笑い)」。

人生の伴侶となった由紀子さんの支えもあり、健康は回復。
それまでは荒れた生活で、顔はむくみ、目は充血、常に疲労感が漂っていたが、
それが嘘のように今は若々しい。
何よりうれしかっのは研究に再び輝きを取り戻せたことだ。

「題目を唱えると、アイデアが、どんどん浮かんでくる。私にとって唱題は
、研究のエネルギーであり、”知恵の泉”であると実感する日々です」

 第(2)につづく (聖教新聞)

 まとめ 
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世界の体験プラザ 人生を再び輝かせた妙法の力(2)

辻さん2.PNG
写真右、妻の由紀子さんと共に
写真左、アメリカSGIのメンバーと。最後列でガッツポーズ
をとる辻さん


世界の体験プラザ 人生を再び輝かせた妙法の力(2)

免疫学研究で世界的な成果

アメリカSGI 辻守哉さん ロックフェラー大学教授

人類に役立つ開発めざす

12年、辻さんは、ノーベル賞学者を多数輩出している名門ロックフェラー
大学のアーロン・ダイヤモンド・エイズ研究所教授に就任。
これまで、マヤリアやエイズなどへのワクチンの開発で、三つの目覚ましい
実績を上げ続けた。

一つは、ワクチンの効果を一段と高める物質「アジュバント」を発見したこと。
また、ヒトとほぼ同じ免疫系の「ヒト化マウス」を確立し、医学界で
高い評価を受けている。

さらに、免疫細胞「Tリンパ球」の研究でも、ハーバード大学との共同研究で
画期的なワクチン開発への道を開いた。アジュバントへの関心は一際高く、
辻さんは近年、ノーベル医学生理学賞の候補としてメディアから
注目されている。

かっては研究助成金を思うように取得できず、日本に帰ることすら考えていたが
今は米政府から潤沢な研究費を得て、自身の研究室には常に約10人のスタッフ
が働いている。

「共同研究中心の時代にチームワークは不可欠。人類に役立つ研究・開発を
勧めるためにも、自身が人間革命し続けるしかないと肝に銘じています」
昨年9月から、ヒト化マウスの交配・増殖などの仕事に、妻の由紀子さんが
携わってくれている。

今では、研究活動でも「妻の協力は欠かせない」。「SGIに入会して、人生が
大きく変わりました。酒に逃げていた昔と違い、どんな困難にも
負けない自分になりました。そうしたネバー・ギブアップの精神が
人生の勝利をつかむ、と確信してやみません」

数年前、ある会議に出席した折、著名な研究者から語り掛けられた言葉が、
ずっと忘れられない。「君は勝者だね!」
58歳。一研究者として、アメリカSGIの支部長として、日々全力で
挑戦する今が、人生で最も充実しているという。

 おわり (聖教新聞)

 まとめ 
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世界の体験プラザ、最高の価値を発揮し人に尽くせる道を(1)

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左写真、清華大学・電機情報学部の研究室
右写真、国際学術誌への論文掲載を目指す林さんの授業


世界の体験プラザ
最高の価値を発揮し人に尽くせる道を(1)
システム生物学と無線通信の2分野を研究

台湾SGI 林澤(リンザー)さん
名門・清華大学の電機情報学部准教授


弱気な自分との戦いに勝つ

携帯電話は、1980年代に肩掛けタイプが誕生して以来、携帯性の
向上、価格の低下、機能の充実はもちろん、通信面でも飛躍的な
進化を遂げてきた。

台湾きっての名門・清華大学の電機情報学部電機工程学科・准教授
として、林澤さんが研究を進めるのは、次世代のモバイル通信技術
5G(第5世代)の仕様策定だ。

2020年の商用化を目指し、通信速度は現在の約10倍になることが
見込まれている。「8年前に私が博士論文を出した時のテーマは、
現在の4Gについてでした。さらに複雑化しているプログラミング
をできるだけ単純化し、信頼度を上げることに貢献していきたいです」

実は、林さんの専門分野は、この「無線通信だけではない。
09年からは他の教授とも協力しつつ、「システム生物学」の研究にも
取り組んでいる。システム工学の解析方法を生物学に応用し、
生命現象をシステムとして理解する分野だ。

「幼いころは、通信関係と生物学のどちらも好きだったのですが、
大学で通信に絞りました。それが再び、生物も研究できるようになるとは。
当時の夢を実現できたと感謝してます」

今、林さんが進めるのは、カンジダ・アルビカンスという真菌(カビ)
の研究。体長4〜5センチの小型魚ゼブラフィッシュをモデル生物に使い、
その感染経路を探している。

「菌が魚の細胞の表面に付着した第1段階では鉄分を奪おうとするが、
細胞の中に入り込んだ第2段階ではグルコース(ブドウ糖)を奪う。
そして菌が魚の細胞を破壊する第3段階では再び鉄分を奪うことが
分かりました。

このような基礎研究を積み重ね、臨床の分野に生かしてもらうのが
目的です」また林さんの優れた教育の実績に対して、12年に大学から
「電機情報学部傑出教学賞」が、12,14,15年には「学術卓越教員賞」が
贈られた。

「はた目には順調に見えるかもしれませんが、いつも自分の弱気との
戦いの連続でした。ここまで勝利してこられたのは、この信仰の
おかげです」

 第2につづく (聖教新聞2016/08/22)

 まとめ
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世界の体験プラザ、最高の価値を発揮し人に尽くせる道を(2)

林さん 2.PNG
イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校大学院の博士号授与式
(中央が林さん)


世界の体験プラザ
最高の価値を発揮し人に尽くせる道を(2)
システム生物学と無線通信の2分野を研究

台湾SGI 林澤(リンザー)さん
名門・清華大学の電機情報学部准教授


大学時代に信仰の基礎築く

父が台湾SGI(創価学会インタナショナル)のリーダーだったこともあり、
未来部のころからSGIの活動に参加してきた林さん。
学業が忙しくなる高校時代から、あまり会合に出席できなくなり、
台湾大学に入ってからも、大学会に顔を出す程度だった。

一方、自身の夢を探すため、さまざまな部活やサークルを経験。
特に「農村服務隊」に熱中した。奥地に赴き、子どもたちに勉強を教え、
一緒に遊ぶボランティア。「自分が役に立てているという充実感が
心地よかったです」

大学2年の終わりごろ、翌年の大学会の中心者と、農村服務隊の責任者の、
二者拓一を迫られた。父に相談すると、「誰も君に代わって人生を決められない。
自分が最高の価値を発揮できるのはどこか、しっかり考えるんだよ」
とアドバイスを。

その時は農村服務隊に参加したものの、重い風邪を患い、隊の活動は
休まざるを得なくなった。現地で看病してくれたのは、SGIメンバーだった。
毎日一緒に勤行し、さまざまな話を。御書と池田SGI会長の指導を胸に、
人に尽くせる人生を歩んできたと語る、彼の歓喜が深く心に残った。

「おかげで私の迷いは消え、大学会の代表を全うすることができました」
大学卒業後は、アメリカ留学を決意。01年、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン
校大学院修士課程に全額奨学金で進学。世界的な電磁学の権威の教授のもと、
研究に没頭した。

03年には博士課程に。しかし、次第に指導教授との関係が悪化し、精神的にも
肉体的にも疲弊。追い打ちをかけたのが、母方の叔父の胆のうがんだった。
「父が多忙な分、叔父との関係は、とても特別でした」。

諸子百家はじめ、東洋哲学について手ほどきを受け、青年期の価値観の確立に、
最も大きな影響を受けた。意識が混濁する叔父に林さんは誓った。
「叔母と母は、僕が面倒をみるから、安心してください」

また同じころ、林さんはSGI会長の詩「正義のために戦え!汝の勇気は
無限なり」を目にした。「君には/高貴な/永遠に破ることのできない/深い/
そして強い/約束があるのだ」

林さんは「叔父の死と、この先生の詩が、私の目を覚ましてくれた。
自分の使命は何かを思い起こさせてくれました」と語る。

 第3につづく (聖教新聞2016/08/22)

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世界の体験プラザ、最高の価値を発揮し人に尽くせる道を(3)

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昨年、電機工程学会「優秀青年電機技術者賞」を受賞した林さん


世界の体験プラザ
最高の価値を発揮し人に尽くせる道を(3)
システム生物学と無線通信の2分野を研究

台湾SGI 林澤(リンザー)さん
名門・清華大学の電機情報学部准教授

国際学術誌に年5本の論文

「信心は一人前、研究は3人前」を心掛け、猛然と取り組むと、指導教授との
関係は改善。博士課程修了前には、世界トップクラスの半導体メーカー
「テキサス・インスツルメンツ」から好待遇で誘いを受け、応募していた清華
大学からも高評価で採用通知が届いた。

収入差は約3倍。進路に迷った時、よみがえってきたのが以前の経験だった。
自分が最高の価値を発揮し、人に尽くせるのはどちらか、、、。
収入より台湾の教育界に貢献したいと、帰国への心が決まった。

「ところが間もなく、リーマン・ショックに襲われました。もしアメリカに
残っていたら、間違いなく危機に直面していたでしょう。
この信心が羅針盤なのだと、あらためて実感しました」

08年から清華大学に奉職。学生の評価も高く、研究成果も上々。
ところが、6年以内に准教授に昇格しないと失職という条件が重くのしかかる。
国際的な学術機関誌への論文掲載という基準が満たせず、14年夏の期限が
迫っていた。

「その前年も、台湾SGI青年部長の任を受け、死に物狂いの努力を
したのですが、、、。」。林さんの対話で、11年の結婚を機に入会したばかりの
妻も一緒に祈ってくれたが、クリアできず。

失意の中、13年9月、日本でのSGI青年研修会に参加。
その最終日、SGI会長から「皆さんの勝利を待っています」との伝言で、
ぱっと心が晴れたという。

研究、SGIの活動、一家和楽、全てを実現しょうと奮闘した結果、1年間で
5本の論文が国際学術誌に掲載された。評価会も最高評価で合格し、14年8月、
晴れて准教授に昇格した。

11月には、ゲノム情報ワークショップ(GIW)国際染色体植物学会(ISCB)
アジア会議の「最優秀論文賞」を、15年12月には電機工程学会
「優秀青年電機技術者賞」を受賞した。

今、林さんの研究室では、全ての修士課程の学生に卒業までに1本、
国際学術誌への論文掲載を課している。

「マラソンのコーチのように、ゴールまで学生と並走し、そのつらさと
喜びを、経験を通じて伝えていきたい。それが私の使命です」

 おわり (聖教新聞2016/08/22)

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世界の体験プラザ、観客の心に残る俳優めざして(1)

ロボコップ1.PNG

世界の体験プラザ、観客の心に残る俳優めざして(1)

映画「ロボコップ」に出演

アメリカSGI ジェシーゴーインズさん

人生を変えた信仰との出あい

自分が自由になれる場所

私は1952年ペンシルベニア州のピッツバーグで生まれました。
私の幼少期、すなわち50年代から60年代の米国は、公民権運動が
高まっている時代。社会はまだ、公然とアフリカ系アメリカ人への
強い偏見と差別があったのです。

当時はまた、家庭の中でも子どもは”子どもとしての振る舞い”
を厳しく求められる時代でもありました。父は郵便局で働きながら
牧師も務める厳格な人でした。

人一倍、感受性の強かった私は、自分らしくいられる居場所を常「」に
求めていたように思います。そんな私を虜にしたのが、学校で
出会った「劇」だったのです。それは私が思い切り自由に自分を表現できる
場でした。

小中高と劇にのめり込み、ニューヨーク州立大学・ブロックポート校で
演劇の学士を、ミシガン大学大学院で演劇の博士号を取得しました。
75年大学院を出ると、ニューヨークでアルバイトを掛け持ちしながら、
いくつかの劇団に所属しました。

やがて結婚し、さらなるキャリアアップのために夫婦でハリウッドのある
ロサンゼルスに移りました。苦労は多いながらも充実した日々でした。
ところが息子・アダムが生まれた翌年の82年、夫婦関係が破局して離婚。
妻だった女性は息子を連れてニューヨークに戻ってしまったのです。

経済的にも悪戦苦闘が続きました。息子に面会するためクリスマスなど
年に数回だけ無理をしてニューヨークを訪ね、そのたびに前妻と
大喧嘩をして、ロスに戻る時はいつも”一文無し”というありさまでした。

一人に無限の可能性が

転機が訪れたのは85年でした。当時交際していた女性がSGI(創価学会インタ
ナショナル)の信仰を始めたというのです。それまで悲観的だった
彼女の性格が見る見る明るく強くなっていく様子に私は驚きました。

誘われて座談会に行ってみると、そこでは多くのアフリカ系アメリカ人を
はじめ、多様な人種の人々が互いを尊敬し合い、励まし合っていました。
誰もが親切で誠実でした。信仰体験も素晴らしく、さらに研究発表にも
心を動かされました。

衆生と仏は別々のものではない。迷っている時が衆生であり、悟りの生命を
開けば仏なのだ、、、。一人一人に無限の可能性があること。
日蓮仏法の根底には万人への尊敬があること。私は、これこそ自分がずっと
探し求めていたものだと気づきました。

8月に入会。経済の悩みや前妻との問題など、自分の願いをありのままに
リストに書き出して、唱題に挑戦しました。すると、クリスマス休暇の
航空券を買う前に、映画俳優組合から過去数年に終えた仕事の再放送
出演料として、間違いではないかと確認するほど多くの金額が
振り込まれていました。

訪れたニューヨークでは、祈ったと通りに前妻との関係もがらりと変わりました。
この時以来、私たちは一度も喧嘩することなく、協力し合って息子に教育を
受けさせていけるようになったのです。

そして、私と前妻とは電話で何時間でも話せる”親友”へと変わっていきました。

 第2につづく (聖教新聞、2016/10/03、Mon)

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世界の体験プラザ、観客の心に残る俳優めざして(2)

ロボコップ2.PNG
写真中央上=撮影当時、共演者と共に(右から2人目が)
ゴーインズさん


世界の体験プラザ、観客の心に残る俳優めざして(2)

映画「ロボコップ」に出演

アメリカSGI ジェシーゴーインズさん


30年目の「一家和楽」

青年部では組織の第一線で活動し、男子部の人材グループである牙城会
や創価班の任務にも就きました。先輩からは常に「自身の夢を懸けて
日々の信仰に励んでいくこと」の大切さを教えられました。

そうした中、あるオーディションに合格したという通知が舞い込みました。
それが映画『ロボコップ』のジョー・コックス役だったのです。
私は、全キャストとスタッフの無事故、作品のヒット、そしてこの仕事が
私の代表作になり、広宣流布の役に立てることを懸命に祈りました。

撮影は無事に終わり、87年に公開されるや、その年のトップ10に
ランキングされる大ヒット作となりました。SF映画の名作として、
今もなお世界中で愛されています。

入会以来、100本を超すコマーシャル、「24」「ER」など100編近いテレビ
ドラマ、10本の映画に出演してきました。SGIの信仰は、私の仕事への
姿勢を大きく変えました。

どんな仕事でも、作品を通して観客の心に深く長く居続けられるよう、
朗々たる唱題で生命力を強くして臨み、全てのスタッフや関係者を
大切にすることを心掛けてきました。

訪米された池田先生にも、行事の役員として何度も出会いを刻むことが
できました。先生が北米の友に贈られたスピーチには、こうあります。
「何があっても、いい方向へ、いい方向へと受けとめ、喜んでいける
余裕が大切である。そうした強く、大きな自身の境涯のなかに、
幸福が生まれ、功徳が花咲いていく」

うれしいことに、2004年には息子のアダムがSGIの信仰を始めました。
そして、12年にはアダムの対話で彼の義父も入会し、
さらに15年にはアダムの母親である私の前妻も御本尊を受持したのです。
30年間、祈り続けたことが、ついに実現しました。

昨年、自分が卒業した大学の卒業式に招かれ、学生とその保護者ら
5千人を前にスピーチをしました。私は、信奉してきた仏法のこと、
SGIのことも、率直に語りました。

戦火と対立、人権侵害など、今なお多くの困難を抱えた21世紀にあって、
青年こそが一切を打開していく希望の存在なのだと力説しました。
このほど西部方面の芸術部壮年部長の任命をいただきました。

芸術部として、地涌の自覚も新たに、ロサンゼルスの、さらに全米、
全世界の広宣流布拡大にまい進していく決心です。

 おわり (聖教新聞、2016/10/03、Mon)

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世界の体験プラザ ノーベル賞教授のもとで『認知症』を研究(1)

黄 郁文(ファン ユーウェン)さん 1.PNG
「認知症の原因と新しい治療法」の研究に取り組む
黄 郁文(ファン ユーウェン)さん


世界の体験プラザ
ノーベル賞教授のもとで『認知症』を研究(1)

臨床医の経験生かし治療法探る

スタンフォード大学 博士研究員
アメリカSGI 黄 郁文(ファン ユーウェン)さん

「心」は必ず伝わる


全米屈指の名門ジョンズ・ホプキンスの博士課程を修了し、現在は、
スタンフォード大学医学大学院のポストドクター(博士研究員)です。
2013年に「ノーベル生理学・医学賞」を共同受賞したトーマス・スードフ
博士のもと、「認知症その原因と新しい治療法」の研究に取り組んでいます。

認知症をテーマに選んだのは、以前、台湾で臨床医として働く中で、自らの
無力さを嫌というほど感じたからです。患者は、医師を100%信頼し、
命を預けてくれます。

医師は、その期待に応えるため、最新の医療を学び、技術を磨かなくては
なりません。しかし、アルツハイマー病など、多くの認知症は、現代に
おいても有効な治療法がないのが現状です。

病状が徐々に悪化する患者を前に、”本当に全力で治療しているのか、
他にもっとできることはないか”と自問自答。日々、悩む中で、池田大作
先生の指導を何度も読み返しました。

「脳が病んでも、『心』の働きは生きている。『心』に向かって語り掛け
るのです。『心』は必ず伝わっていきます」(「第3の人生」を語る)、、、
この指導がどれほど支えになったかわかりません。

臨床現場で格闘していたさなかの06年、幸運にも留学の機会をいただき
ました。「これはまたとないチャンスだ。臨床の経験を生かし、
脳の研究に取り組もう」と決意し、渡米したのです。

黄 郁文(ファン ユーウェン)さん 2.PNG


病と経済苦乗り越え

1977年、私は高雄市で生まれ、子どもの頃から、母と共に台湾SGI
(創価学会インターナショナル)の活動に参加。創価家族の温かい雰囲気
の中で育ちました。幼い頃からピアノを習い、中学は音楽のエリートクラス
に進学。

また理数系の教科も好きで、高校は進学校の「自然科学系」コースを
選択しました。

高校2年の時、思いもよらない危機が私たち一家を襲いました。
父が投資をしていた銀行が経営不振に陥り、株価が暴落。銀行が倒産した
あおりを受けて、父も自己破産に追い込まれたのです。

さらに追い打ちをかけるように、私が大学の統一試験を数か月後に控えた時、
父に大腸がん(ステージ2)が発覚。看病の心労から、母も高血圧と糖尿病
に悩まされました。

そんな絶望な状況の中で、台湾SGIのメンバーは私たち家族を励まし続け
てくれました。一家で団結し、真剣に唱題。2か月後に受けた父の手術は
大成功しました。ここから事態は好転し、父はやがて社会復帰。
多国籍企業の経理部長を務めるまでになったのです。

進路に迷っていた私は、この父の闘病の経験を通し、”医師になりたい”
と決意しました。勉学と題目に挑戦し、95年、第一志望の台湾大学医学部
に合格。学生部の大学会にも積極的に参加し、2年時には中心者に
任命されました。

音楽活動も、台湾大学の管弦楽団、学外の学生管弦楽団、また台湾SGIの
天鼓楽団に参加。時には、どれか一つを諦めようかと思いましたが、
先輩の励ましを受け、信心根本に、勉学とSGI活動、音楽活動に全力投球。

各学部の上位5%の学生に贈られる「書巻賞」を3度受けることができました。

 第2につづく (聖教新聞、2016/11/07)

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世界の体験プラザ ノーベル賞教授のもとで『認知症』を研究(1)
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世界の体験プラザ ノーベル賞教授のもとで『認知症』を研究(2)

黄 郁文(ファン ユーウェン)さん 3.PNG
全米大学ランキングでもトップクラスのスタンフォード大学
医科大学院


世界の体験プラザ
ノーベル賞教授のもとで『認知症』を研究(2)

臨床医の経験生かし治療法探る

スタンフォード大学 博士研究員
アメリカSGI 黄 郁文(ファン ユーウェン)さん

「何のため」忘れず


2001年、米国の伝統校ペンシルベニア大学に1セメスターの短期留学へ。
ここで脳神経内科に配属されたことが、脳に興味を持つきっかけに
なりました。

台湾大学卒業後、同大学医学部付属病院で神経科医に。
2年連続で「優秀論文賞」を受けることもできました。そして、
大きな転機になったのが05年です。

大阪で国際医学セミナーがあり、私は論文を発表する予定でした。
ところが同時期に、私が技術部員を務める台湾SGI太平洋合唱団の
北京大学交流が重なったのです。どちらを選ぶべきか、祈って
決めるしかないと唱題に挑戦。

すると、不思議なことにセミナーが延期になり、結果的にどちらにも
参加できたのです。

晴れ晴れとした気持ちで大阪から台湾に戻ると、行政院国家科学委員会
「青英留学計画奨学金」審査の合格通知が。合格率2%の口頭試験も
通過し、留学4年間の学費と生活費の全額を奨学金でいただくことに
なったのです。

06年から6年間、ジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程で、学び、
その後、スタンフォード大学医科大学院のポストドクターになりました。
憧れだったトーマス・スードフ博士の研究室に晴れて合格を勝ち取ると、
翌年、スードフ博士がノーベル賞を受賞し、本当に驚きました。

さらに驚いたのは、受賞後もそれまでの日々と変わらず、研究に情熱を
注ぐ博士の姿を目の当たりにした時です。周囲の評価とは無関係に、
自身の研究を貫く姿勢に頭が下がる思いでした。

私自身も本年9月、国際アルツハイマー病協会(北カリフォルニア・
北ネバダ地域)から、研究に対して、「優秀賞」いただきましたが、
何が大事か、何のための研究か、その根本の一点を決して忘れては
ならないと誓っています。

臨床から離れ、研究に没頭すると、時に、現場とのつながりを
なくした気になります。しかし、決してそうではありません。
認知症の原因を解明し、治療法を確立することが、現場の患者の喜びに
つながります。

”心”は必ず伝わる。そう確信し、日々の研究に挑戦していく決意です。

黄 郁文(ファン ユーウェン)さん 4.PNG
ジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程修了式で
(右端が黄 郁文(ファン ユーウェン)さん)


 おわり (聖教新聞、2016/11/07)

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世界の体験プラザ ノーベル賞教授のもとで『認知症』を研究(1)
世界の体験プラザ ノーベル賞教授のもとで『認知症』を研究(2)

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世界の体験プラザ 障がい乗り越え励まし送る人生へ(1)

ディ・ブーニョさん1.PNG
仕事で日々実証を示すディ・ブーニョさん
(職場である金融機関の前で)


世界の体験プラザ 愛する天地の平和と発展を

多国籍企業で信頼を勝ち得る
 スペインSGI マテオ・ディ・ブーニョさん

障がい乗り越え励まし送る人生へ(1)

青年の心に昇った太陽


スペインの首都マドリードで、壮年部の本部長を務めるマテオ・ディ・
ブーニョさん。もともとはイタリア・トスカーナ州で生まれ育った
ディ・ブーニョさんが、SGI(創価学会インターナショナル)の仏法に
出会ったのは1998年のことだった。

「叔父から仏法の話を聞いた母がSGIの信仰を始めたのです。
母は私に言いました。”この信仰には人生を変える力がある”と。
そして悲しみでいっぱいだった私に、SGIの座談会に一緒に行こうと
促してくれたのです」

当時、20代になったばかりのディ・ブーニョさんは、心を許し合える
友もなく、孤独にさいなまれていた。ディ・ブーニョさんには、生まれつき
右の前腕がなかった。

こんなに多くの人が生きている中で、なぜ自分はこのような体で生まれて
こなければならなかったのだろうか。自分はいったい何のために
生まれてきたのか。自問しても答えは見いだせず、人生がうまく
いかないのは、全て障がいのせいなのだという、暗い気持ちに
とらわれていた。

その生命の深い暗闇に、仏法への信仰が希望の太陽を昇らせてくれた。
「学会活動をするようになって、私の中から愚痴が消えました。
今度は自分が誰かを励まし、誰かの幸福を祈る側になって、初めて勇気が
湧き、自分の可能性を信じられるようになったのです。

池田先生もまた若い日から病魔と格闘し、一切の試練を勝ち越えて偉大な
歴史をつくってこられた。私もこの信心で、全てを乗り越えていこうと
決意しました」

ディ・ブーニョさん2.PNG
スペイン文化会館の前で男子部員のメンバーと
(最前列の赤いシャツがディ・ブーニョさん)


今いる場所で全力を尽くす

心が変わると、人生が劇的に動き始めた。大学で奨学金を勝ち取り、
マドリードに留学することを決める。
ディ・ブーニョさんにとって、初めての、しかも外国での一人暮らし。

だがスペインの地にもSGIの同志がいた。
「学業に励むと同時に、スペインSGIの活動にも勇んで参加しました」
スペインにすっかり魅了され、いったんの帰国後、2005年にマドリードに
移住。

働きながら、マドリード自治大学大学院の修士課程に進んだ。
専攻したのは、美術史学だった。「もともと芸術は大好きな分野でした。
ただ周囲の誰もが、この道に進んで知識を得られたとしても、仕事には
ならないだろうと言うのです。そこに飛び込むのは
勇気のいることでした」

学業と仕事と学会活動の三つに、全力で挑戦していった。
大学院では修士号を取得。仕事は、フランス系の自動車大手プジョー・
シトロエン・グループ(PSAグループ)の金融機関で働く。

ディ・ブーニョさんの胸に常にあったのは「今いる場所で全力を尽くせ」
との学会指導だった。最初は、コールセンターのイタリア語担当
オペレーター。やがてスーパーバイザー(管理責任者)に抜擢される。
今ではイタリア語とスペイン語の二つの顧客管理部署を統括する立場に。

広布の舞台では、スペインSGIの未来部長、男子部長として活躍。
かつて孤独感と絶望の淵にいた若者は多くの青少年に慕われるリーダーと
なって、スペインの大地に地涌の陣列を拡大してきた。

 2につづく(聖教新聞 2016/10/31)

まとめ
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世界の体験プラザ 障がい乗り越え励まし送る人生へ(2)

ディ・ブーニョさん2.PNG
妻・アルムデナさん、長女・クラウディアさんと一緒に


世界の体験プラザ 愛する天地の平和と発展を

多国籍企業で信頼を勝ち得る
 スペインSGI マテオ・ディ・ブーニョさん

障がい乗り越え励まし送る人生へ(2)

「07年、SGI研修会で日本を訪れ、池田先生との出会いを刻むことが
できました。生涯、何があろうと負けない。先生と共に戦い抜くと
誓いました」

妻であるアルムデナさんと出会ったのもこの頃。愛するスペインの
広宣流布のために、一緒に和楽の家庭を築こうと決めた。
08年、スペインの同志と共に、再び日本でSGI会長から激励を受ける。

1990年代初めの宗門事件で悪侶らの暗躍に直面したスペインSGIは、
今や当時の約60倍の陣容に大発展を遂げていた。
晴れやかな表情で師匠の前に立つ同志の姿が、ディ・ブーニョさんには
誇らしかった。

2010年のSGI研修会では初めて関西の地を訪ね、「常勝」の精神を学んだ。
翌11年3月、長女クラウディアさんが誕生。だが分娩が長時間に及び、
ようやく取り出されたわが子は仮死状態で、医師たちによる救命処置が
とられた。

「私は、自身の最も深い宿命と立ち向かう思いで、妻と一緒に娘の健康を
祈り続けてきました。死産の寸前だった娘が、全ての機能を回復し、
健康そのものになりました。医師からも奇跡だと言われました」

13年に壮年部に移行。地元の本部長と会館警備グループのリーダーを
兼務する。
「入会から今年で18年。スペインは長らく深刻な経済危機が続いています。
自身の試練の壁にぶつかるたび、題目を唱え抜くとともに、スペインの
同志が一人残らず守られるよう、祈り抜いてきました。

広布のためには何も惜しまないという覚悟で、全てに立ち向かってきました。
今年の訪日では、広宣流布大誓堂での記念勤行会にも参加できました。
スペインの広宣流布は私自身の師匠への誓いです。さらに盤石な創価家族の
連帯を築いていく決心です」

 おわり(聖教新聞 2016/10/31)

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世界の体験プラザ 父との出会いが生んだ奇跡の物語(1)

1ウッドさん.PNG
1970年代から80年代、ポストパンクの伝説の
ガールズバンドとして名を馳せた「ザ・レインコーツ
」。ウッドさん(左端)はバイオリンを担当


世界の体験プラザ 創造性を発揮し地域に貢献

伝説のガールズバンドのバイオリニスト

父との出会いが生んだ奇跡の物語(1)

イギリスSGI アン・ウッドさん

演奏者として輝かしい業績


1977年にイギリス・ロンドンで結成され、84年に解散した伝説の
ガールズバンド「ザ・レインコーツ」。
94年に活動を再開した時、バイオリニストとして、メンバーに加わった
のが、イギリスSGI(創価学会インターナショナル)の
アン・ウッドさんだ。

2010年と15年の来日ツアーにも同行。大阪や名古屋、東京の渋谷や
下北沢でファンを沸かせた。ウッドさんはロンドンで生まれ、
イギリス北部スコットランドの首府エディンバラで育った。

世界有数の音楽学校である王立音楽アカデミーを卒業した後、
王立シェークスピア・カンパニーや王立ナショナル・シアターなど
最高峰の劇場の演奏者として活躍。

マッシブ・アタックやエルビス・コステロといった有名アーティスト
の楽曲にも参加し、ラジオ番組や映画音楽の作曲にも携わってきた。

「これまで多くの良き出会いに恵まれ、自身の音楽を追求することが
できました。日蓮仏法を実践し、どんな課題に直面しても、目標に
向かって力強く進む生き方を身に付けられたことが、私の芸術家と
しての可能性を最大限に引き出してくれたと感じています」

仏法と出会ったのは10代の頃。1982年、ウッドさんが進学のため
故郷を離れる前に、母が職場の同僚の紹介でSGIに入会した。
当時、スコットランドのメンバーは50人ほど。母はパイオニアとして
勇んで広布の庭を駆けた。

帰省するたびに、以前よりも明るく、前向きに変わっていく母の姿を
目の当たりにしたが、ウッドさん自身は信仰とは距離を置いていた。
転機が訪れたのは23歳の時。卒業後、バイオリニストとして劇場と
契約を結べたものの、求められる技術の高さに緊張の毎日。

自信を失い、プレッシャーに押しつぶされそうになった時、
「どんな時でも、とにかく題目を唱えれば絶対に大丈夫よ」との母の
言葉を思い起こした。

「言われた通り、まずは100日間、真面目に実践しょうと決め、朝晩の
勤行と唱題を始めました。母の言葉が正しかったことはすぐに
分かりました。風に舞う羽根のように流されやすい自分でしたが、
弱い感情に負けないようになっていったのです」

ウッドさん2.PNG
最愛の家族と共に。右端が母のフィオナさん


 (聖教新聞 2016/11/21 月)

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世界の体験プラザ 父との出会いが生んだ奇跡の物語(2)

ウッドさん 3.PNG
ハイランズ・アイランズ・マレー支部の友


世界の体験プラザ 創造性を発揮し地域に貢献

伝説のガールズバンドのバイオリニスト

父との出会いが生んだ奇跡の物語(2)

イギリスSGI アン・ウッドさん

「不可能を可能」にした祈り


ロンドンで、女子部の地区リーダー、部長、本部長を務め、白樺グループ
の一員にも。地道に学会活動を続けていく中で、仕事の幅も広がっ
ていった。

「状況が悪くなると、すぐに自分を卑下ばかりしていました。でも、
女子部の活動を通して自分と向き合い、自分自身を、そして、他の人も、
もっと尊敬できるようになりました。池田先生の指針に勇気をもらい、
”夢を夢で終わらせてはいけない”と背中を押していただきました」

ウッドさんが、「不可能」だと思っていた夢、、、それは、顔も知らない
実の父を探し出すことだった。パキスタン出身の父は眼科医になるため
イギリスに留学している際、母と出会った。

母が妊娠していることを知らず、一人で帰国。母国で医師となり、家庭を
築いていた。母は父を追いかけることなく、一人で自分を育ててくれた。
頼る先は全くない。どうせ無理だろうと何度も諦めそうになった。

しかし、ある朝、勤行をしている時、「そうだ!」と、在英パキスタン
大使館に行ってみることを思い付いた。知っているのは父の名前だけ。
担当の大使館員に、父が眼科医であるはずということを伝えた。

「眼科医なんてパキスタンに何人いると思っているんですか」
取り付く島もない。だが突然、「ちょっと待ってください。この人、
知っています。大学病院の教授で、私の友人です!」と。
思ってもみなかった答えが大使館員から返ってきた。

 一人でパキスタンに飛んだ。初めて見る父の姿。うれしさと同時に
複雑な感情がこみ上げてくる。だが、祈り続けてきた出会いに感謝の
思いで胸があふれた。

異母兄弟が6人いることも知った。彼らの母親の反対で会うことはできな
かったが、良い関係を結べるよう祈り続けた。十数年後、思わぬ形で、
その人と出会うことになる。

 ウッドさんは結婚後、3人の子供を授かった。2004年、次男が遺伝子の
異常による難病を発症。父に相談すると、異母兄弟の一人が米国最高峰の
病院で、その分野の専門医として働いていることが分かった。

「弟からすぐに連絡があり、息子の治療のために尽力してくれました。
父との出会いだけでも、私にとって『不可能』な出来事だったのに、まさか、
そのことによって息子までも救われるとは、、、。
今、振り返ると、きっと全て、私の母の祈りに包まれて実現したことなの
だと思います」


母娘で歩むパイオニアの道


 ウッドさんは今、ロンドンを離れ、母の故郷であるスコットランドの
ハイランド地方に移り、家族と暮らしている。バイオリニストとして
世界中を飛び回りながら、少しでも地域のためになればと、地元の学校で
音楽も教えている。

地方ということもあり、それまで全く楽器に触れたことのない
子どもたちばかり。音楽を通して人格を形成してほしいと願い、小さな
オーケストラを結成。

 その楽団がハイランド地方の大会で上位の成績を収め、地域の希望に
なった模様がドキュメンタリー映画になって放映された。53歳、支部婦人
部長。イギリスで最も広大な「ハイランズ・アイランズ・マレー支部」
の責任者だ。

支部の会合に参加するために、車で12時間以上も移動しなければならない
メンバーもいる。それでも、ウッドさんたちは、「草創期の使命です。
この環境に感謝して、どんな困難も乗り越えて、皆で広布の基盤を築いて
いきたい。メンバーが増えて、車で30分以内で家庭訪問ができるように
なるのが、私たちの目標です!」と意気揚々だ。

近年は毎年のように新入会者が誕生している。母と同じように、誉れの
開拓者の道を選んだウッドさん。母として、音楽家として、教育者として、
そして広布のリーダーとして、自身の新たな可能性に挑戦する日々だ。

「スコットランド人には一人立つ強い心と、素晴らしい創造性があります。
『不可能を可能にする』日蓮仏法の力で、一人一人の創造力をもっと
引き出し、社会の繁栄のために尽くしていきたいです」

 おわり(聖教新聞 2016/11/21 月)

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世界の体験プラザ 弁護士として故郷に貢献(1)

1弁護士として .PNG
家族と共に(中央がシャクソンさん)


世界の体験プラザ 弁護士として故郷に貢献(1)
アメリカSGI シーラ・シャクソンさん

池田先生の哲学で社会を変えたい

 「大丈夫。私には信心がある」

 人種差別との闘いの日々


 は米国の中西部、カンザス州やネブラスカ州で育ちました。
私が生まれた1955年、ローザ・パークスの勇気に端を発した、
あの「バス・ボイコット運動」が起きます。

私の父はロースクール(米国の法科大学院)を首席で卒業しながら、
肌の色を理由に法律家への道を閉ざされていました。

 店に行っても、黒人の子どもにはジュースも売ってもらえない。
近所の白人の子どもたちが通う真新しい学校に、私たち兄妹は
入学を拒否される。

こうした差別を味わうにつれ、自分は無力で劣った存在なのだろうか、
と心が傷つけられました。

 両親は、公民権運動に身を投じ、わが家は活動家たちの拠点になって
いました。しかし公民権運動への脅迫や暴力は絶え間なく、幼い私は
いつ自分が狙われるか、いつ両親が逮捕されてしまうかという恐怖を、
常に感じていたものです。

 けっして裕福ではない中で、両親は子どもたちが少しでも社会の壁を
乗り越えられるようにと、教育費を惜しみませんでした。

 私が高校生の時、両親がブラジルへの留学の機会を与えてくれました。
娘の私がポルトガル語の習得や異文化に慣れずに苦しんでいるのを知った
母は、自分もポルトガル語を習い始めて、ポルトガル語で励ましの手紙を
つづってくれました。

大学卒業後は、奨学金を得て再びブラジルへ留学。おかげで、私は今でも
ポルトガル語を自由に操ることができます。

弁護士として 2.PNG

人間の尊厳を説いた宗教

学を終えて帰国しても、就職の面接では黒人であることを理由に採用を
拒否されました。64年に差別を禁止する公民権法が施工され、そこから
さらに10年が経っても、そんな状況だったのです。

 もう中西部はこりごりだと感じた私は、ニューヨークに移り住みました。
85年、そこでSGIの仏法と出会うのです。
「末法にして妙法蓮華経の五字を弘(ひろ)めん者は男女はきらふべからず、
皆地涌の菩薩の出現に非(あら)ずんば唱へがたき題目なり」
(御書1360ページ)

 男女はもちろん、あらゆる人間の平等を説いている宗教など、それまで
聞いたことがありませんでした。両親は敬虔なクリスチャンでしたが、
私は一人一人の人間革命によって、世界を平和にしていく方途があるのだと
知って感動しました。

 入会した私は、地区婦人部長として、猛然とニューヨークの広布拡大に
奔走しました。座談会のたびに、わが家には溢れるほど人が集まりました。

 この信仰で得られた何よりの功徳は、自身の尊厳を感じられるように
なったことです。日蓮大聖人は門下の一人に対した、「此の度決定して
無上菩提を証せんと思はばすべからく衆生本有の妙理を観ずべし、
衆生本有の妙理とは・妙法蓮華経是なり」(同383ページ)
と教えられています。

(今この人生で間違いなく最高の悟りを得ようと思うならば、必ず
衆生に本来具わる妙理を自身の生命の中に見ていくべきである。
衆生に本来具わる妙理とは妙法蓮華経のことである)

 全ての人に具わる”仏の生命”について書かれたこの一節は、
差別の中で刻まれていた、私の無力感や卑屈さを打ち破って
くれました。

 自分を評価する基準を、外側にではなく内側に見いだせたことが、
私の生き方を大きく変えてくれたのです。
その結果、他者に対しても寛容に接することができるようになりました。

 第2につづく 『聖教新聞 2017/01/23(月)』
 
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世界の体験プラザ 弁護士として故郷に貢献(2)

弁護士として 3.PNG
ネブラスカ州立議事堂前で地区のメンバーと
(2列目左から2人目がシャクソンさん)


世界の体験プラザ 弁護士として故郷に貢献(2)
アメリカSGI シーラ・シャクソンさん

池田先生の哲学で社会を変えたい

 「大丈夫。私には信心んがある」

自身の「仏性」を信じ抜くこと

 としての私の願いは、息子たちに良質な教育を受けさせることでした。
しかし、希望していた国連インターナショナルスクールは、学費が高く、
信心する以前の私は、はじめから諦めていました。

 それでも、わが子を、平和に貢献する世界市民に育てたい。私は
「絶対に大丈夫。広布の戦いによって、あらゆる味方と福運を必ず
呼び寄せてみせる」という確信で御本尊に祈り抜きました。

やがて、思いも寄よらぬ形で祈りがかないました。夫が同校の職員に
採用され、規約により、子どもたちは全員、無償で入学を許可された
のです。その後、長男はアメリカ創価大学を卒業。
4人の子ども全員が大学を卒業して、意義ある職業に就いています。

 私自身も2000年に45歳でロースクールに入学し、父が果たせなかった
弁護士という夢を実現しました。現在は故郷のネブラスカ州の法律事務所
で理事という立場で働いています。
人種、性別、国籍や年齢に関係なく、弁護士の公平な審査に努めています。

 米国の法曹界には、まだまだ人種差別の空気が色濃く、悔しい思いを
したことは一度や二度ではありません。

 だからこそ、私は仏法者として、どんな立場の人にも敬意をもって
接していこうと心掛けてきました。

 人生は、試練との戦いです。信心を貫く中で、結局、全ての行き詰まり
は自身の「仏性」が信じられないという一点から生じているのだと
実感でいるようになりました。

逆境の日々もまた、人生の一部ならば、勇敢に誇り高く、生き抜いて
いくべきだと思います。池田先生は小説『人間革命』第10巻「一念」
の章に、妙法には無限の力があることを記されています。
私は壁にぶつかるたびに、原点に立ち返る思いで読み返してきました。

 先般、アイオワ州とネブラスカ州地域の婦人部長の任命を受けました。
端から端まで約1300キロの広大な地域です。
誰もが輝ける人生を歩める社会を目指して、これからも妙法の種を
まき続けていきます。

 おわり 『聖教新聞 2017/01/23(月)』

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世界の体験プラザ キューバ屈指のバンドで活躍(1)

キューバ屈指のバンド 1.PNG
情熱的なギター演奏で観客を魅了する


世界の体験プラザ キューバ屈指のバンドで活躍(1)

目標を達成する力は自分の中にある

永く愛される音楽を残したい

 キューバ創価学会 アレハンドロ・インファンテさん

運命的なギターとの出会い


 キューバの音楽シーンで今、不動の人気を誇るバンドが「クバ・リブレ
(自由なキューバ)」だ。結成は2000年。ロックやレゲエ、ラップ、
キューバ音楽などを融合させた自由で新しい世界観は、キューバの
若い世代から圧倒的な支持を受けている。

 アレハンドロ・インファンテさんは08年からこの「クバ・リブレ」に
迎えられ、ギタリストと音楽ディレクターを務めている。1987年、首都
ハバナの生まれ。「未婚の母」であった母親は働きに出て家計を支え、
叔母が愛情豊かに彼を育ててくれた。

90年代、まだキューバ全体が経済的に苦しい中、母親は彼に絵を
習わせてくれた。

 絵が好きになり、工芸系の高校に進学していたインファンテさんが、
友人から一本のアコースティックギターをもらったのは17歳の時だった。
近所のおじさんに手ほどきを受けながら、次第に音楽にのめりこんでいく。

とりわけ魅了されたのがロック。「神様」といわれたギタリストの
ジミ・ヘンドリックスにすっかり心酔した。

 高校卒業後、本格的にミュージシャンへの道を歩み始める。
エレキギターを教わりたいと思っていた2007年、人を介して紹介されたのが、
まだ大ブレークする前の「クバ・リブレ」を率いていたカルロス・
ディアスさんだったのだ。
クバ・リブレ.PNG
「クバ・リブレ」のメンバーたち(右から3人目が
インファンテさん。左から4人目がディアスさん)


毀誉褒貶に流されない人生

 インファンテさんが参画した数年後、「クバ・リブレ」は全国区の
人気バンドになる。人気に比例してお金も入ってきた。

「どんどん生活も乱れ、退廃的な生き方になりました。でもロック
ミュージシャンはそれでこそカッコイイと思っていたので、何の
疑問も抱かなかったのです」 

 アルコール、夜通しのパーティー、異性問題……。”スターはこれが
当たり前”という意識だった。08年に結婚していた妻とも破局した。

 
 そんな彼に日蓮大聖人の仏法を教えてくれたのは、バンドのボーカルを
務めるマルガリータ・モラレスさんだった。

「最初は、題目を唱えるという行為が不可解に思えました。でも、
実際に唱題をしてみて、心が晴れ、自分に対する感じ方が全く変わって
いったことは不思議としか言いようがありませんでした。
そこから真剣に仏法について研さんしたい、と思うようになったのです。」

 毀誉褒貶に侵されない生き方こそ、賢人であると示された大聖人の
「四条金吾殿御返事(八風抄)」(御書1150ページ)を学び、これまでの
生き方を猛省した。

「自分の目標を達成していく力は、自分の中にある。このことを理解して、
”過激さ”に溺れる道から離れることができました」

 第2につづく

 『聖教新聞 2017/01/01(日)』

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世界の体験プラザ キューバ屈指のバンドで活躍(2)

キューバなかま.PNG
 キューバ創価学会の同志ら(最後列の右端で高くVサインを上げる
インファンテさん。前から2列目、右から3人目がモラレスさん)


世界の体験プラザ キューバ屈指のバンドで活躍(2)

目標を達成する力は自分の中にある

永く愛される音楽を残したい

 キューバ創価学会 アレハンドロ・インファンテさん

 キューバ創価学会の一員となって活動する中で、男子部の先輩から
学んだのは「師弟」という生き方だった。

 「私のギターの師がディアスさんであるように、キューバにも」
師弟の関係というものはあります。けれど、師匠の誓願を弟子が
”わが誓願”として生き抜くという創価の師弟観は、キューバの文化には
ないものでした。

 師匠への求道心を燃やし、池田先生の成し遂げてきた偉業を知るにつれ、
インファンテさん自身の生きる意味と目標が大きく変わっていった。
「池田先生が、キューバ社会に仏法への信頼と共感を開いてくださったお
かげで、今の私の幸せがあります。自分の仕事と生き方を通して、
そのご恩に報いていきたい。シンプルにそれだけなのです」

 16年4月、キューバ創価学会男子部長の任命を受ける。入会に導いて
くれたモラレスさんは女子部長だ。

 今までのように”遊び”に付き合わなくなったことで、インファンテさん
の信仰をあまり快く思っていなかったリーダーのディアスさんも、
今では何かあると一緒に唱題をするほど理解を深めているという。

 「キューバの男子部は、月に2回集まっています。1回は池田先生の
指導などの研さんをし、もう1回は青年部の親睦を深めるイベントをしたり
、社会貢献の活動をしたりします。人材グループの創価班も結成され
ました。」

 師の心をわが心として”一人立つ”男子部をキューバの天地に拡大
したい。それが目下の祈りであり、日々の挑戦課題だ。

「ミュージシャンとしての目標はと問われれば、時代や流行を超越し、
永く愛されるような音楽を残すこと。そして、何より池田先生の弟子と
して、この世界をより良い世界に変えていくことに貢献したいのです」

 おわり 『聖教新聞 2017/01/01(日)』

ハバナカリブ海 .PNG
カリブ海最大の都市ハバナ


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世界の体験プラザ 香港中文大学で蓄電池の研究・開発に励む准教授(1)

ルー イージュンさん 1.PNG
蓄電池の素材開発に取り組むルー イージュンさん


世界の体験プラザ 香港中文大学で蓄電池の研究・開発に励む准教授(1)

 香港SGI ルー イージュンさん

 再生可能エネルギーで人類に貢献

 オンライン学際ジャーナルに論文が掲載

深遠な仏法の生命観に感動


 香港中文大学工学部の准教授として、2013年から「再生可能エネルギー」
を蓄える電池の開発に取り組んでいます。石油や石炭など、資源に
限りがある化石燃料に対し、太陽光や風力などの自然エネルギーは、
消費しても短期間で回復するため、「再生可能エネルギー」と呼ばれます。

 メリットは、資源枯渇の心配がないだけではありません。二酸化炭素
(CO2)が発生しないため、環境に優しいこと。また、設備の規模が
小さく、電力消費地で発電できるため、送電ロスが少ないことも
挙げられます。

 半面、発電量が少なく、季節や時間、気候に左右されやすいことが大きな
課題です。この不安定な電力を、安定的に供給できるようにするのが、
大容量の蓄電池なのです。

 現在、私が研究を進めているのは「リチウム硫黄フロー電池」。
バナジウムを使った従来の「レドックスフロー電池」を改良したものです。

さまざまに試行錯誤を重ね、陽極にリチウム、陰極に硫黄と炭素の化合物を
配置したところ、バナジウムでは50〜60アンペア時/リットルだった電池の
容量が、294までアップしたのです。

 この成果が高く評価され、14年7月に香港政府から「傑出した青年研究賞
」を受賞。11月には、世界的な学術誌「ネイチャー」の関連誌で、
オンライン学際ジャーナル「ネイチャーコミュニケーション」に、私たちの
論文が掲載されました。さらに翌年1月には香港中文大学から「傑出した
教育賞」を受賞したのです。

香港中文大学.PNG
香港中文大学の理工学研究棟


 信仰と学業を両立してこそ

 私は台湾・新北市の出身です。家族で最初にこの仏法を始めたのは
母でした。私が高校生の時、母方の叔父が亡くなり、落ち込んでいたところ
、親戚から台湾SGI(創価学会インターナショナル)の信仰を勧められた
のです。

やがて確信を深めた母が、題目のすごさを語ってくれたことは、よく覚えて
います。理系が得意だった私は、03年、台湾の名門・精華大学工学部に入学
。学内の先輩からSGIの活動に誘われましたが、信仰の必要性を感じず、
断り続けていました。

 半年が過ぎても連絡をくれる先輩に、”そこまで言うのなら、一度だけ
参加してから拒否しょう”と、会合に出席。そこで語られる深遠な生命観と、
理路整然とした哲学性に驚き、先入観で一方的に拒否していたことを
悔みました。

 以後、積極的にSGIの活動に参加。 自分が関わった人が幸せになるこ
とは、自分の幸せ以上にうれしいことを実感できるようになりました。

 当初、大学の成績は普通レベルでしたが、SGIの活動が忙しくなった
3年次、”信仰を理由に成績が下がってはいけない”と頑張った結果、
学部でトップに上昇。この経験が、信仰と学業は必ず両立できるという
自信になりました。

 07年、首席で卒業の見込みが立ち、教授から海外留学を勧められました。
タクシー運転手の父と、専業主婦の母、学生の姉と妹のわが家は、到底、
留学費用を負担できる経済状況ではないと思いつつも、挑戦。

何と、アメリカ屈指の名門マサチューセッツ工科大学(MIT)大学院に
合格できたのです。しかし、年間5万ドル(600万円以上)の学費に加え、
生活費が必要と知り、途方に暮れました。

 題目を上げ抜き、卒業まで1カ月半となったある日、MITの教授との
面接の結果、研究室の助手に採用されることが決定。学費は奨学金で
全額免除、さらに毎月、十分過ぎるほどの生活費まで支給されることに
なったのです。

 第2につづく 『 聖教新聞 2016/07/11(月)』

 まとめ
世界の体験プラザ 香港中文大学で蓄電池の研究・開発に励む准教授(1)
世界の体験プラザ 香港中文大学で蓄電池の研究・開発に励む准教授(2)


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世界の体験プラザ 劣等生から「平和構築」の専門家に(1)

パンジュワニさん 1.PNG
フリーランスの教育コンサルタントとして数
多くの機関や団体と平和教育を推進している


世界の体験プラザ
 子供の人権守る・教育コンサルタントとして活躍

 
 インド創価学会 マンシ・アルン・パンジュワニ

 劣等生から「平和構築」の専門家に(1)

創価の世界の真心の暖かさ

 
 幼い頃の私は、両親や友達と衝突を繰り返し、成績も最悪で、
追試を受けなければ進級すらおぼつかない劣等生でした。
将来の夢を尋ねられると、悪びれもせず「世界を変えること」と大見え
切りながら、勉強は後回しにしていたのです。

 そんな時、父にすい臓がんが見つかり、「余命3ヶ月」の宣告を
受けました。父の病苦を乗り越えようと、一家でインド創価学会に入会
しました。2002年のことでした。

 SGIの同志たちは、それこそ父と面識のない人までが、時間をこじ開け
るようにして、懸命に題目を送ってくれました。創価の世界のあまりの
暖かさに、私は感動で胸がいっぱいになりました。

 私は、せめて両親の喜ぶ姿が見たいと願っていました。すると、未来部
の担当者が「そのためには勉学でベストを尽くそう」と励ましてくれま
した。

 日々、勤行・唱題を重ね、池田先生が未来部の友に贈った『青春対話』
を同志と研さんしつつ、勉学に猛然と挑戦しました。両親は、娘が大きく
変わったことをとても喜び、私を誇りに思ってくれるようになりました。

 アメリカ創価大学(SUA)が「貢献的人生を生きゆく世界市民の確固た
る潮流を築く」との理念を掲げていることを知り、私は受験を決意して
さらに勉強に打ち込みました。

 父は、宣告された余命を1年半も延ばし、仕事を続けながら日々に
目標を持って、朗らかに人生を楽しみ切りました。自身の病によって、
私たち家族をSGIの仏法へと導き、翌03年に霊山へと旅立ったのです。


パンジュワニさん 2.PNG
ウガンダで教員の指導に当たるパンジュワニさん
(左から2人目)

パンジュワニさん 3.PNG
最愛の家族と共に。
左端がパンジュワニさん


一家和楽”勝利”の笑顔

 唱題で開いた「使命の道」

 その後も、試練の波は次々 と押し寄せました。

 父の死後、母は悲しみからうつの傾向が強くなり、弟は態度が粗暴
になって、家族に完全に心を閉ざしてしまいました。私はSUAへの
合格を勝ち取ったものの、家庭の経済状況を考えて進学を断念せざるを
得なくなったのです。

 すっかり自信を無くし沈み込んでいる私に対し、SGIの同志は”
自身の使命の道が開けるよう、いや増して唱題しょう”と励まして
くれました。

 ニューデリーの大学で学びながら、学会活動にも全力で取り組みま
した。唱題に唱題を重ねていくうちに、歓喜あふれる自分になっていく
のが分かりました。

 大学院では「紛争解決と平和構築」をテーマに修士号を取得。
卒業後は、インドの恵まれない子どもたちに教育支援するNPO「ティーチ
・フォー・インディア」に就職することができました。

 私は感謝の思いを込め、初任給の中からSUAに寄付することにしました。
自分はSUAに行けなかったけれども、そこで学ぶ学生のために、何か
お役に立ちたいという思いからでした。

 ここでは、3年間の経験を積みました。挑発を受ければすぐに暴力に
頼っていた子どもたちが、対話によって問題解決を図っていく姿に、
人は変わっていけるという事実を目の当たりにしました。

 幼い頃に、私自身が経験した劣等感は全て必要なことだったのです。

 2につづく 『聖教新聞 2017/04/24(月)』

 まとめ
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世界の体験プラザ 劣等生から「平和構築」の専門家に(2)

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世界の体験プラザ 劣等生から「平和構築」の専門家に(2)

パンジュワニさん 4.PNG
人種や平等をテーマに、インドの高校生たちを
啓発するワークショップで(パンジュワニさんは右端)


世界の体験プラザ
 子供の人権守る・教育コンサルタントとして活躍

 
 インド創価学会 マンシ・アルン・パンジュワニ

 劣等生から「平和構築」の専門家に(2)

 「競争」よりも「共感」を育む

 池田先生は、創価大学を創立された当時から今日まで一貫して、「人格
を形成」し、「平和への知性」を与え、「社会への貢献」を教える
「人間愛の教育」こそが最も必要だということを訴えてこられました。

 12年、私は中米コスタリカにある国連平和大学の「平和教育」修士課程
に進学することができました。しかも、インド人としては同大学史上
初めて、全学費免除の奨学生に選ばれたのです。

 帰国後は、インドの複数の州やアフリカのウガンダにある教育機関で、
平和構築のためにフリーランスのコンサルタントとして働き始めました。
取り組んだのは、「競争」よりも「共感」という視点で学生のリーダー
シップを育む訓練です。

 15年、日本を訪れて念願だった広宣流布大聖堂での誓願勤行会に参加
しました。池田先生はお一人で、世界中の何百万という人々を励まして
こられたのだと実感し、一人の人間が持つ無限の可能性に、あらためて
、気付かされました。

 また、この折に広島平和記念資料館も訪問し、核兵器の悲惨さに平和へ
の決意をさらに深くしました。

 16年、再び訪日するに当たり、池田先生に勝利のご報告をしょうと決意。
安定した長期プロジェクトに参画できるよう、祈りながら努力しました。

 すると、日本に出発する前日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)から、
インドの五つの州の教育カリキュラムを再構築する仕事を引き受けてもら
えないかと依頼されたのです。

 本年、そのプロジェクトを無事に終え、現在は、ノーベル平和賞を受賞
したカイラシュ・サティアーティ氏のNGOで子どもの人権を守る教育
カリキュラムを構築しています。

 勝利の結果は、これだけではありません。

 弟の入院をきっかけに、姉弟の温かい愛情を取り戻すこともできました。
さらに母もうつを乗り越え、自分の人生を力強く歩みだしました。

 思えば、私は父の病気によって仏法に巡り会い、母の病気によって信心
を強めることができたのです。難と戦い、宿命転換することができました。

 明年の大聖堂完成5周年を次の目標に、平和・文化・教育のためにさらに
力を尽くしていくとともに、女子部のリーダーとして、担当する全同志の
幸福と成長を祈り、走り抜いていく決意です。

パンジュワニさん 5.PNG
インド「value creation」誌


 おわり 『聖教新聞 2017/04/24(月)』

 まとめ
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