信仰体験 - 聖教新聞 体験談そのほか気になる記事

信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(1)

93歳と100歳の兄弟、ハワイ在住の100歳のお兄さんは
毎年、春と秋には福岡の弟を訪ねてくるという。
しかも、一人で、驚きですね!

しかも、その時ピンポイントで日本旅行される!これらは
時間の自由と経済力、旅行にかかわる知識、
更に体力、気力がないと出来ませんね。

193歳.PNG
兄の九州男さん(右)の好きな言葉は「笑顔」弟さんは
「今年の年賀状は、手書きで436枚出しました」


信仰体験、ブラボーわが人生
第16回 わしら193歳ブラザーズ(1)

「池田先生が大好きじゃ。それが信心の根っこたい」


【福岡県・桂川町】先月の上旬、多田新さん(あらた、93)
=桂川支部、副本部長=に電話で取材を申し込んだ。
すると、こんなやり取りになったー。

「それでは来週お願いします」「はあ、ちょうど兄も
来ますけん」「お兄さんは何歳ですか」
「100歳たい」「おお」「ハワイに住んどる」

「え!ハワイから来られるんですか」
「はあ、春と秋には毎年来るけん」「え!家族と一緒に?」
「一人たい」「え!」。

数日後、アメリカSGIメンバーである兄の九州男さん
(100)が笑顔満開でやって来た。


九州男(以下、九)やっぱり、日本はええなあ。
新 そりゃ、よかばい。時差ぼけは大丈夫かいな?
九 全然ない。新 ほうね。明日はどげんするな?

九 わしの観光ルートに桜島が入っとるけん、
行かないかん。それと北海道新幹線が開通したけん、
函館にも行かないかん。

新 そら忙しか。九 帰りは金沢と和歌山の知り合いに
会ってくるよ。(三日後)

新 どうじゃった? 九 やっぱり日本はええよ。
世界一よ。函館の朝市はさいこうじゃ。
新幹線の隣の人に「あんた、どこ行くんね」と話しかけてな。

新 すぐ仲良しになるね、あんた。九 100歳じゃ、
ハワイじゃ言うと目の色が変わるけん。
「私は創価学会に入っとる。あんたも題目唱えてみなさい」
と言うてやる。

新 ビックリしょろうが。九 「ええことあるか?」
と聞くから、「わしの願いは全部かなった」とスマイルよ。
八ワイで家も建てたし(座談会の会場になっている)、

孫もひ孫も優しくしてくれる。生活にも困りゃあせん。
新 ほんま、幸せもんたいね。

○ ● ○

新 ほれ、懐かしい写真が出てきたばい。
九 ほお、持っちょったか。コリャあ「パイナップル部隊
(草創のハワイ男子部)」の写真じゃ。

新 池田先生のそばで写っとるんが、あんたやろう。
九 そん通りよ。みんな白シャツと黒ネクタイで決めとる。
先生に「多田君、(ハワイ広布を)頼む」

ち言われて、握手してもろうたんよ。ダイヤモンド支部長じゃった。
新 この写真も懐かしか。1985年(昭和60年)7月4日の独立記念日
パレードだい。ハワイのカラカウア通りはすごかった。

九 そういえば、75年の「ブルー・ハワイ・コンベンション(大会)」
を覚えちょるか。浮島のステージが見事じゃったのぉ。

新 忘れるもんか。兄さんが「来い」言うて電話くれたけん、
池田先生にお会いできたんじゃ。先生は遠くにおられたけん、
わしは首を伸ばして、ずっと見ちょった。

九 ほう、そうじゃったんか。そんころに、わしの家から
ブーゲンビリアの挿し木を持って帰ったろ。
あれはどうなったか。

新 庭に植えて太く育てたばい。鉢植えして筑豊文化会館に
持って行きよるばい。

九 わしもハワイの会館に届けよった。
花は兄弟の絆じゃの。

新 みんな喜んでくれちょるよ。

第2回へつづく (聖教新聞)

まとめ信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ
信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(1)
信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(2)
信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(3)

トップページヘ

posted by mity504 at 17:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(2)

九州男さんの家族.PNG
九州男さんのハワイの家族


信仰体験、ブラボーわが人生
第16回 わしら193歳ブラザーズ(2)

「池田先生が大好きじゃ。それが信心の根っこたい」



九 もう朝の勤行したか。
新 まだよ。一緒にやるか。(力強い勤行を終えて)

九 わしはの、題目を命と思うとる。
人間にはいろんな悩みがあるよ。題目をあげて悩みを
越えても、また悩みが出てくるよ。

新 そん通りたい。

九 「難来(なんきた)るを以て安楽と意得可
(こころうべ)きなり」(御書750ページ)よ。
悩むたびに、題目をあげて通り抜けたら、人間が強うなるよ。
その蓄積が人生なんよ。

新 初心を忘れたらいかんばい。自分を慎まな、道理が分からん
ようになったり、増上慢になるとよ。
唱題して素直な気持ちを思い出さな。

九 題目は何でも通じる。ありがたいことよ。
家内のことも忘れん(妻は91歳で他界した)。
死いうのは悲しいよ。残された連れは寂しいよ。

新 ・・・・・。
九 でも信心のおかげで、一緒におるというのが
よう分かるよ。だから全て感謝。毎日、感謝ばっかりよ。
おい、ティッシュ取ってくれ。

新 ほれ。
九 年取ると、子供みたいになるよ。
どいうわけか涙が出る。

新 わしも自然と涙が出ると。
九 いつな。

新 題目あげよっても、池田先生のこと考えるけん。
先生は自分の時間も自由に使われんで、
新聞書いてくれよっとでしょうが。
そげんこつ思うと、涙が出るばい。

九 わし、池田先生が大好きじゃ。
新 それが信心の根っこたい。

九 よし。今から博多ラーメン食べてくる(最寄り駅から
電車で約30分)。豚骨は最高よ。
ちょっと駅まで送ってくれんね。

新 満足げな顔して、わしを小間使いのごと使い回すけんね。
九 動かな、命がもったいない。ついでに帰りは、
別府温泉に寄るから遅くなる。

新 こんな年寄り、おらんたい。

第3回につづく (聖教新聞)

まとめ信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ
信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(1)
信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(2)
信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(3)

トップページヘ

posted by mity504 at 10:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(3)

新さんとお奥さん.PNG
ブーゲンビリアを育てる新さんと、妻の綾子さん(92歳、支部副婦人部長)


信仰体験、ブラボーわが人生
第16回 わしら193歳ブラザーズ(3)

「池田先生が大好きじゃ。それが信心の根っこたい」


官約移民(ハワイ政府と明治政府が結んだ契約に基ずく移民)
の父を持つ九州男さんはハワイで生まれた。
日本で暮らした少年期。

戦争に足音が聞こえると、父は九州男さんを
カナダの親戚へ預けた。

近所から「国賊」と指を刺されたが、父は「命ほど
大事なものはない」と息子に言葉を残した。

だがオンタリオ州の収容所に収監された。
背中に赤い丸の付いた服を着せられた。
日の丸かと思ったが銃の的だと知った。

死ぬか生きるかの極限状態で痛感したのは、
命の尊さと、はかなさだった。

一方、新さんは戦史で最も無謀と言われた。
「インパール作戦」の将校だった。
ビルマ(現ミャンマー)で銃撃戦をくぐり、血に染まった。

撤退路では、帰国を目指す多くの兵が病と飢えに倒れ、
自決も目にした。生き延びた兄弟は、戦後の漠たる
不安にあえいだ。詐欺にもあった。

転機は1962年。くしくも2人は同じ年に、創価学会に
入会する。兄はハワイで、弟は日本で。

信仰の力は凄まじく、戦後初めて、生きることに
胸を張れた。生かされた意味と向き合う中で、
ブルー・ハワイ・コンベンションへの参加は、
2人にとって大きな原点となった。

人種と言語を越えた人間主義の連帯。夢のようだった。
池田SGI会長は紛れもなく、「平和の体現者」
だと確信した。

師弟の道を迷わず走った幾山河。
新さんには一つの「やり残し」があった。
3年前、ミャンマー中央を流れる旧称イワラジカワを
訪れた。

凄惨な記憶を残す地には、穏やかな風が吹いていた。
20人程と小舟に揺られた。新さんは一人、
手を合わせて追善の勤行をした。

「俺についてこい。日本に帰ろう」。
流れる涙はどうしょうもなかった。大きな花束を
土色の川面にささげた。

取材中、2人が口にしたのは「命を全うする」
という真実の叫びだった。

「命限り有り惜しむべからず遂に願うべきは
仏国なり」(御書955ページ)。

その一節が、兄100歳、弟93歳の「生きる」
ということだ。(天)

おわり (聖教新聞)

まとめ信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ
信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(1)
信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(2)
信仰体験、ブラボーわが人生 第16回 わしら193歳ブラザーズ(3)

トップページヘ

posted by mity504 at 18:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

信仰体験 平和の祈り 絵筆に込め  母の肖像画 優しき笑みの理由は・・・(1)

時により人間ほど残酷な行いを行えるものはない、
その他の動物は弱肉強食で
生きていくために弱肉を殺害するけれども、
必要以上に食肉することはない。

しかし、人間は己の利害で人を殺せる。
残虐な殺し方や拷問で傷めつくすことが出来る。
期に応じて、人は仏界にも餓鬼界にもなる。
仏界も地獄、餓鬼、畜生界も備えているのが人間。
期に応じて人のこころは変化する。
そのこころを十界互具という。

体験談1.PNG
寛康さんが描いた母の肖像画


【福岡県飯塚市】在日1世竹山(張)寛康さん(89)
=池田支部、副本部長=は、時間を作っては油絵を描く。
祖国に美しき岩稜、騎乗のナポレオン・・・。
ポロポーズして日には、花を摘む妻の横顔を贈った。
先日、一枚の肖像画を描いた。
チマ・チョゴリを着た祖国の亡き母。
優しき笑みを浮かべている。

信仰体験

平和の祈り 絵筆に込め
母の肖像画 優しき笑みの理由は・・・


植民地ゆえの制約に耐えるということが、生きるということだった。
現在の韓国・大邱(テグ)の生まれ。
5歳で日本へ渡ったが、父の商売が安定するまで、
一時的に祖国へ母と戻った。

貧しさの中で、白菜の葉を売り、根を食べて飢えをしのいだ。
母は一人で末っ子を産んだ。障子の間から息子が手渡す
ハサミで、へその緒を切った。

8歳の時、商売を軌道に乗せた父が、家族を日本に呼び寄せた。
行く先々で、特高警察から所持品検査を強いられた。
竹山少年は絵を描くことで、心に安らぎを感じようとした。

描いたのは町の風景。炭鉱の町だった。
戦時中、筑豊炭田には多くの人が強制連行された。
「アイゴー(哀号)」と呼ぶ声が暗夜に響く。

竹山さんの叔父も働いていた。何度も逃亡を企てた。
特高の目と耳は、たどたどしい日本語を見逃さなかった。
裸の叔父を木刀で袋だたきにした。

叔父は、ようやく網をくぐって山口県の農家にたどり着いた。
体中のアザを見せて倒れた。手には竹山さんの住所を書いた
紙が握られていた。

連絡を受けた父は、叔父をかくまい、闇船で祖国に帰した。
だが苛酷な体罰がたたり、終戦を待たずに亡くなった。
訃報に接した母の背中は、おえつに震えてた。

1939年(昭和14年)の創氏改名で「竹山」を名乗らされた。
朝鮮姓を手放すことを、命を絶つことで拒んだ同胞もいた。
家族は緊張の中、模範を演じた。

終戦を迎えると、朝鮮半島が植民地支配から解放された。
母はすぐ帰国船に乗った。見送った竹山さんも、
後から追いかけるはずだつた。

ところが祖国に安住の地などなかった。
50年の朝鮮戦争で、母のいる村が北朝鮮軍に襲われた。
いとこは韓国軍の尋問に言葉が出なかっただけで、
一味と見なされた。

足にすがりつく叔母の叫びもむなしく、穴を掘らされ、
銃殺された。母は辛くも生き延びたが、
時代に翻弄されていた。

悲運に泣く祖国の役に立ちたい。その思いは竹山さんを、
朝鮮中高級学校の
教師の道へ向かわせる。

遅配された薄給で、妻の房子さん(82)=婦人部副本部長
=と、幼子6人を養う。困窮していた。
房子さんは、創価の仏法哲学に希望を見いだした。

訪ねてきた学会員の姿は力強く見えた。だが周囲には
「宗教はアヘン」という偏見があり、「反逆者」と言われた。
竹山さんは妻に人目を避けて活動しろとすごんでも、
折伏に歩く姿は輝きを増すばかり。心が揺れ始めた。

転機は64年、東京オリンピックの年に訪れる。
在日本大韓民国民団が、戦後、祖国に帰国した同胞を
日本に迎えた。

そこで母と19年ぶりの再会を果たせた。
増えた白髪に、これまでの苦労がにじんでいた。
妻を初めて紹介できた。孫も抱かせてやれた。

おしめを取り換える母の嬉しそうな横顔を、
竹山さんはいつまでも見つめていたかった、
帰国の途に就く母に手土産を持たせることは、
家計が許さなかった。

竹山さんには、その年に心筋梗塞で他界した父の借金があった。
自身も冠動脈硬化症で教壇に立てず、収入は途絶えていた。
恥を忍んで、親戚に金を貸してほしい、と頭を下げた。

冷笑された。この悔しさが、竹山さんを御本尊へと向かわせた。
飛び込んだ創価の世界には、信頼のまなざしがあった。
「無疑曰信(むぎわっしん)」(御書751ページ)という
仏法の真髄を、竹山さんは行動を通して体得していく。
   (聖教新聞)

注釈
無疑曰信とは『疑(うたが)い無(な)きを信(しん)と曰(い)う』
と読み、何があろうが紛動( ふんどう)されることなく、
どこまでも御本尊を信じて疑わぬ信心のこと。

第二につづく

平和の祈り 絵筆に込め、在日コリアンとして生きる まとめ
平和の祈り 絵筆に込め、在日コリアンとして生きる(1)
平和の祈り 絵筆に込め、在日コリアンとして生きる(2)

トップページヘ


posted by mity504 at 17:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

信仰体験 平和の祈り 絵筆に込め 在日コリアンとして生きる(2)

体験談2.PNG
寛康さん(右)と妻の房子さんに、初夏の日差しが降り注ぐ


信仰体験

平和の祈り 絵筆に込め
在日コリアンとして生きる(2)


教員を辞め、リサイクルの商売を始めた。
「実証を示す。そこにこそ信頼は生まれる」。
大げさではなく、命懸けだった。

信心を根本にした商売は当たった。取引先も増え、78年には
3階建てのビルを建てた。オフィス家具・キッチン用品の
総合デパートとして、県内に展開した。

何よりうれしかったのは、苦労続きの祖国に母へ仕送りが出来たこと。
幸せに暮らせる、と連絡があった。韓国に対して「文化大恩の国」
と敬意を払った、池田SGI会長には「感謝しても感謝しきれない」。

94年11月1日付の本紙に載った写真が目に飛び込んできた。
そこには、パジ・チョゴリ(男性用)とチマ・チョゴリ(女性用)
を着用したSGI会長夫妻の姿があった。

胸を貫かれた。「とてつもなく勇気のいること」だと感服した。
その切り抜きを額に入れて、同胞に見せた。
「我々の過去を正しく認識している日本人がいたのか」
と涙する友がいた。北も南もない。

在日という民族的な偏見もない「妙法でしか世界平和は、なし得ない」
という哲学が、世紀の災禍を生き抜いた命に響いていた。
現在は仕事を息子に任せて、仏法を語り歩く。

時間をかけて、絵筆も握る。「絵は自分の歴史をとどめたもの」。
白いカンパスに描くのは戦争の色がにじむ景色から、
孫の笑顔に変わった。

九州国際部・無窮花(ムグンファ)友好グループの友と、
敢闘の前進を続けた日々。「池田先生に恩返しがしたい一心」
で、誠実を尽くした。その汗が、忌まわしい過去を、
平和への覚悟へ昇華させた。

そのことを伝えたい人がいた。母だった。
人生のはかなさを静かに見つめ、苦労の中に生きた母。
描いた肖像画は、硬い表情のようでもあり、
ものに動じない強さもにじむ。生きていれば伝えたかった。

「一緒に題目をあげよう」。きっと喜んでくれるだろう。
そう思い、”天の衣”を着た祖国の美しき母を描いた。
       (聖教新聞)

 おわり

平和の祈り 絵筆に込め、在日コリアンとして生きる まとめ
平和の祈り 絵筆に込め、在日コリアンとして生きる(1)
平和の祈り 絵筆に込め、在日コリアンとして生きる(2)

トップページヘ


posted by mity504 at 11:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

信仰体験、見てごらん!伸び伸び育つ子どもたちを、奄美の子

奄美大島.PNG
子どもと遊ぶ時も、本気で遊ぶのが”ヨリ姉”(中)
のスタイル。島の大自然を思い切り楽しむ


信仰体験、見てごらん!伸び伸び育つ子どもたちを

人の子も わが子も同じ 奄美の子

【鹿児島県・宇検村】鹿児島市から南へ約380キロの奄美大島。
島の最西端で「親子山村留学制度(メモ)」の導入に踏み切った
地域がある。中心の一人となって奔走する中島頼子さん(62)
=戸田支部、婦人部副本部長。
通称”ヨリ姉(ねえ)”。学校存続の危機から一転、地域に子供たちの
元気な声が戻ってきた、、、。

メモ 「山村留学」とは、都市部の小中学生が地元を離れ、自然豊かな
農産漁村で暮らしながら、そこの学校に通学する「体験型」の教育制度。
1976年(昭和51年)に長野県八坂村(現・大町市)で始まり、過疎地を
抱える自治体など全国各地に広がった。阿室小中学校の「親子山村留学」
は、親子での移住が条件。


”ヨリ姉”の「山村留学」奮闘記

母校を守ろう

キーンコーン、カーンコーン、、、。
阿室小中学校の授業の開始を知らせるチャイムが、家にいても、
はっきり聞こえてくる。

ヨリ姉の自宅は、学校の正門前にある。鐘の音も、子供たちの
元気な声も、生活の一部。自宅の隣で30年以上、美容室を
営みながら、登下校する子供たちの安全と成長を、来る日も来る日も
見守り続けてきた。

そんなヨリ姉に付けられた、もう一つの呼び名は「門番」、、、。
「誰が言い始めたんだかね(笑)」。その明るい表情は、まんざらでも
なさそう。
かって、500人ほどが通っていた阿室小中学校の児童生徒数は、
過疎化や少子化などの影響により、年々減少し、同校は存続の危機に
直面した。

「母校を守ろう!」実情を知った住民たちは2009年(平成21年)
児童生徒の増加を目的とした「活性化対策委員会」を設置。
打開策の一つが「親子山村留学制度」である。

少人数学習による学力向上、自然との触れ合いを通じた豊かな
人間形成などを特色に掲げ、翌年、導入した。

そして  同委員会の事務局長に、ヨリ姉が推薦された。
長年、学校で読み聞かせを推進する「親子読書会」代表を始め、
PTA会長、民生委員、地域行事の運営や近隣清掃など、
数々の役回りを引き受けてきた信頼と経験を買われてのことだった。

「山村留学」の言葉すら知らなかったヨリ姉が、”人のために尽くすのが
学会精神。愛する島のために、何が何でも軌道にのせよう”と、
挑戦を始めた。


頼られる子に

”頼られる子に育ってほしい”。ヨリ姉の名前は、両親の願いが込められ、
「頼子」と名付けられた。だが青春時代は、「クラスでもそんな存在
ではなかった」という。信心に出会うまでは、、、。

奄美大島を離れ、高校卒業後、美容師になるため、単身上京。
理想と現実の違いに悩みながら、東京や神奈川の美容室で働いた。
ある日、客から信心の話をされた。

”自分を変えたい”と、1980年(昭和55年)、26歳で創価学会に
入会する。2年後、埼玉で開催された第2回「世界平和文化祭」に、
華冠グループ(美容関係に携わる女子部の集い)の一員として、衣裳製作
に携わることに。

池田SGI会長出席のもと、大成功で終えた感動は、何物にも
代え難かった。”人の役に立てることが、こんなにもうれしいなんて!”
その後、自分を育ててくれた島のため、留守の間、両親を支えてくれた
村のために、少しでも恩返しがしたいと、86年に帰郷。

奄美大島に戻ってからは、美容室を開き、3人の子育てに奮闘した。
9年前、最愛の夫に先立たれたが、涙を拭い、懸命に題目を唱えながら、
支部婦人部長の使命を果たし抜いた。

どんな時でも人のために尽くしてきた人生。それは”一人を大切にする心”
を育んでくれたと思い感謝する。だからこそ、、、。
「きゅら(美しい)島へ、ようこそ!」

はるばる体験留学で来島した親子を、ヨリ姉は満面の笑みで迎える。
空港から片道約3時間。緊張を和らげようと、車中、楽しい話で盛り上げる。
親子で移り住むのは並大抵の決断ではない。

縁もゆかりもない地では、どんなに心細いだろう。
ヨリ姉は頻繁に食事会を開いては、”家族の一員”として振る舞った。
心もフル回転させながら、一組一組、誠実に受け入れていった。


農水省の「絆づくり」優良事例に選定

「母は太陽」

「人の子も わが子も同じ 奄美の子」。代々受け継がれてきた教育精神が
島の人々の生活に深く根付いている。ある年、留学生の中に、わんぱくな
男の子がいた。暴れだすと手が付けられない。

母親の腕には複数の歯形が、、、。東京にいた頃は、学校になじめず
不登校だったという。

ヨリ姉は母親に語り掛けた。「大丈夫、大丈夫。子どもは世の中に交ざって
、人と触れ合って成長するの。みんなで関わっていけば、あの子は
あの子らしく、真っすぐに育つから」みんなで育てよう、、、。

その優しさに母親の心は軽くなり、救われる思いがしたという。不安だった
表情に少しずつ笑顔が戻ってきた。「そう、母親がニコニコしていれば、
子どもはそれだけで幸せを感じるものよ」

ヨリ姉の胸には、SGI会長の「母は太陽」との指針が深く刻まれている。
だから、”お母さんがいつも明るく元気でいられる”ことに、
最大に心を砕く。

皆で温かく見守る中で、男の子は徐々に落ち着きを取り戻し、登校し始めた。
以来、無遅刻・無欠席の皆勤賞。

阿室小中学校の鎌田卓生校長は語る。「ここは、”地域の教育力”
がとても強い校区です。校庭の石拾いや木々の剪定などの奉仕作業に、
校区に住む約8割もの住民の方が来てくださいます。

中でも、ヨリ姉は、何をするにも本当に丁寧で熱意があって、人に尽くす
手本のような存在です」

家庭、学校、地域 三位一体の取り組みが功を奏し、活性化対策委員会の
「親子山村留学」活動は、農林水産省の2011年度「食と地域の『絆』
づくり」の優良事例に、選定された。

制度導入から7年がたった今、7人だった児童生徒は約3倍の20人に
(9月1日現在)。そのうち半数以上が留学生だ。
ヨリ姉は昨年、事務局長を後進にバトンタッチした。
サポートに回りながら、きょうも学校の前で、子供たちの姿を見守る。

「見てごらん、伸び伸び育つあの子たちの姿を」。そう語るヨリ姉の
笑顔は、南国の太陽のようにまぶしく輝いていた。
 (九州支社編集部発)

     (聖教新聞、2016/09/28)

トップページヘ


posted by mity504 at 11:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

声、不登校の息子が信心の実証を示し(聖教新聞)

不登校児.PNG


不登校の息子が信心の実証を示し

 堺市南区 前田真理子(主婦 62歳)

私の息子は中学2年のころから不登校になりました。
十分な睡眠や食事を取ることもできず、4年間、悩み苦しむ日々が。
私は御本尊に祈り、学会活動をするしかありません。

それでも、地区や支部の先輩や同志から、「大丈夫よ。
『冬は必ず春となる』(御書1253ページ)のだから」
と励ましていただきました。

何度も激励を受けて私は、”どんなことがあっても、
必ず大勝利してみせる”と固く決意。

誓いを込めた手紙を地域の方や師匠に送り、真剣に祈りました。
男子部の方が熱心に家庭訪問を重ねてくださるうちに、息子は
少しずつ元気を取り戻し、信心にも前向きになりました。

地域でアルバイトを始めて、通信制の高校を卒業。大手通信会社の
正社員として就職を勝ち取ることができたのです。
さらに、社内で成績も上げ、表彰されるまでになりました。

この8月21日、息子は結婚式を挙げました。これまで祈り、
支えてくださった皆さんが出席。これ以上ない、明るく素晴らしい
式になりました。まさに、祈り続けてきた大勝利の姿を、
地域の皆さんにご報告することができたのです。

今回の婦人部総会では、4人の友人を迎え、信心の実証を
語ることができました。これからも、地域広布に一段と励み、
同志の皆さんの恩に応えていきたいと思います。

  (聖教新聞、声 2016/09/30)

トップページヘ


posted by mity504 at 17:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

信仰体験、運送会社を設立し36年 74歳の現役女性社長(1)

近棟さん.PNG
「おかえり。えらかった(大変だった)じゃろ」
「がんばっちょるね」。ドライバーが帰ってくると、声を
掛けていく近棟さん。1台からスタートしたトラックは
17台に。敷地も3倍の3300平方メートルに発展


【山口県防府市】青紫が特徴の10トントラックが敷地内にずらり。
ピカピカに磨き上げられたフロントガラス。アルミ製の荷台の
側面には、「有限会社近棟運送」の文字。ここで働く誇りを胸に、
ドライバーたちは、配達を終えるとすぐに洗車を始める。
近棟道子さん(74)=牟礼支部、支部副婦人部長=が亡き夫と、
トラック1台から立ち上げた運送会社は今、10トントラック17台、
従業員20人を抱えるまでに。夫婦の夢を載せ、トラックはひた走る。


信仰体験

走りゆけ!
広布開拓の旗をなびかせて

運送会社を設立し36年 74歳の現役女性社長(1)
白ゆりの詩

トラック1台


〈同社の会長である近棟さんは、年齢を感じさせない若々しさで、
今も毎日、出勤する〉

といっても、私の仕事は、毎日の銀行回りと帳簿のチェックくらい。
社長を長男が、専務を次男が務めてくれています。
私の一番大事な仕事は、ドライバーの無事故を祈ること。

17人の運転手の名前と車のナンバーを紙に書いて、御本尊に祈ります。
午前4時半に起きて、食事を挟みながら10時半まで。
それから事務所へ出社。従業員は、みんな真面目でいい子たち。
一所懸命働いてくれ、「お母さん、お母さん」と慕ってくれます。

〈創価学会に入会する前は、貧乏のどん底だった。夫は「飲む・打つ・
買う」の道楽ざんまい。そんな時、雑貨店を営む夫の実家で
「聖教グラフ」(「グラフSGI」の前身)を目にした。

店の常連客が置いていったものだった。近棟さんは、信心で一家和楽を
実現した体験や誌面に写る人たちの充実した表情に、「これだ!」
と思った。1963年(昭和38年)、信心を始める〉

けど、夫は信心に猛反対。よく言われたんは、「拝んでワシを
食べさせてみい」という言葉。私も負けじと、”夫が真面目に働いて
ほしい”と祈りに祈りました。


当時は、実家の離れに親子4人暮らし。”いつかは一軒家に”とも
思いながら、昼は道路工事に汗しました。
オート三輪が砂ぼこりを上げて駆け抜ける道を、つるはしを手に、
もんぺと長靴を履いてね。

そんな私の姿に、夫は感じるところがあったんでしょう。2年後に入会。
題目を唱えるようになると、打って変わったように真面目に働くように
なってね。信心というのは本当にすごい!絶対に変われるんよ。

〈コンクリート製品の加工会社で夫婦一緒に働き始める。だが数年後、
会社が倒産。
その後、岡山の製紙会社が、段ボールを配送する仕事の従業員を募集
していると聞き、意を決して4トントラック1台を購入。
75年、運送業を始めた〉

経営が徐々に安定してくると、今度は10トントラックに買い換えました。
夫と段ボールを積んでは、フェリーに乗って愛媛県へ。
段ボールを降ろすと、帰りは、広島の工場でれんがを積んで戻ってくる日々。

4個1束のレンガが500束を、手で積み降ろすんです。それが終わると、
ペンを持つ手が震えて伝票に字が書けないほどパンパンになってねえ。
それでも若かったし、必死だったから、つらいなんて全く思わんかった。

けど、会合に出たくても出られんかったことは、つらかったね。
池田先生が防府に来られた時(77年)もお会いできんかった。だからよく、
夫が運転する横で、私が「大百蓮華」を声に出しながら、”夫婦座談会”
をやったもんです。

先生の指導を命に染込ませる思いで、何度も読みました。

 (聖教新聞、2016/10/08)

 第2につづく

 まとめ
運送会社を設立し36年 74歳の現役女性社長(1)
運送会社を設立し36年 74歳の現役女性社長(2)

トップページヘ


posted by mity504 at 15:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

信仰体験、運送会社を設立し36年 74歳の現役女性社長(2)

2近棟さん.PNG
池田SGI会長は「防府は、山口創価学会の原点。山口広布の
原動力」と。”今いる場所を福徳あふれる地に、、、”。
近棟さん(右から3人目)は、婦人部の同志と対話に励む


信仰体験 白ゆりの詩

走りゆけ!
広布開拓の旗をなびかせて

運送会社を設立し36年 74歳の現役女性社長(2)

心のガソリン


〈80年、「近棟運送」を創業した。近棟さんには、入会以来、心に期して
きたことがある〉池田先生が防府に来られた時の指導に、こうあるんです。
「信仰も、20年間の弛まざる精進があれば、想像もできないほどの
境涯になります」

「『何があっても20年』 これを一つの合言葉として、勇敢に前進して
いこうではありませんか」

私が入会する時も、”20年後には、見違える境涯になっているから”と、
紹介者から言われて。

そのことを信じて、無我夢中で働いてきました。20年後が、創業から
2年後でした。

〈その頃には、従業員やトラックも増え、経営も軌道に乗り、
子どもたちと暮らす一軒家も建てることができた。
84年、SGI会長が再び山口を訪れた時、近棟さんは、心の中で叫んだ。”
先生の指導のおかげで、ここまで来ることができました”と〉

この仕事は、事故が最大の敵。深夜に自宅の電話が鳴ると「ぴくっ」と
するんよ。ドライバーから「荷崩れを起こしました!」
なんて電話が来ると、飛んでいきます。

事故処理、警察への連絡、積み荷の補償。命が縮む思い。従業員は
私の家族じゃけえ、どんなことがあっても守ってあげんと。

〈長年酷使した近棟さんの体に病の影が迫る。6年前、乳がんを発症。
すぐに手術が決まった。〉

私の支えは、「山口開拓指導」で、若き日の池田先生が身命を賭して
築いてくださった、この防府で使命を果たすという思いだけ。
”病魔に絶対負けない”と、真剣に題目を唱えました。

がんは、リンパにも転移していました。手術後は、20日に1回のペース
で抗がん剤治療。それが約1年間続いてね。多くの同志に励まして
もろうた。

夫ががんで亡くなった時も、そうじゃった。あれから再発は
ありません。人とのつながり、絆は、本当に大事じゃね。
私は、年1回、従業員の家を全て訪問しています。従業員の家族にも
、「元気でやってくれとるよ」
「これからも頼むね」ってあいさつしながら。

「会って、語る」「会って、励ます」。池田先生が山口開拓指導で
教えてくださったことです。先生の指導通りにやってきて、
思いもかけない境涯になることができました。

これからも、心のガソリンを満タンにして走り抜きます。
広布開拓の旗をなびかせながらね、、、。

 (聖教新聞、2016/10/08)

 おわり

 まとめ
運送会社を設立し36年 74歳の現役女性社長(1)
運送会社を設立し36年 74歳の現役女性社長(2)

トップページヘ


posted by mity504 at 11:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

信仰体験 リオパラリンピック 苦難を超えて栄光を ボッチャ団体で日本初の銀メダル

藤井さん1.PNG
ボッチャ団体の準決勝で、球を投げる藤井さん
(写真:伊藤真吾/アフロ)


障がい者スポーツの最高峰であるパラリンピッ。先月、、ブラジル
リオデジャネイロの舞台で、創価のメンバーも活躍した。
汗と涙の先につかんだ栄冠。信仰によって、苦難を生きる力に
変えた2人の足跡を追った。

信仰体験
リオパラリンピック 苦難を超えて栄光を

ボッチャ団体で日本初の銀メダル

目標を現実にする唱題と努力


【富山市】9月12日(現地時間)、ボッチャ団体の決勝戦。
選手が放つ1球1球に注目が集まった 。日本は惜しくもタイに
敗れたが初のメダルを獲得。

藤井友里子さん(43)=東豊田支部、副白ゆり長=は、銀メダルを
手に笑顔を見せた。「今大会で初めて、”障がい者で良かった”
と思うことができました。”うれしさ”より”感謝”でいっぱい」

 生後10か月ではしかになり、脳性まひに。特別支援学校で
寄宿生活を送った。月2回、週末を自宅で過ごす。楽しみだったが
、つえを握って外出すると、周囲との違いを認識させられた。

同世代の子が楽しそうに歩く姿に、”人が10できることが、私には
4しかできない。それならいっそゼロでいい、、、”。
そう思い、家に閉じこもったことも。18歳の春、生活の幅を
広げたいと運転免許取得を志す。適性検査を受ける前に担当者から
告げられた。

「あなたには難しい」。その場で泣き崩れた。自身の体を恨んだ。
2000年(平成12年)、障がい者スポーツのイベントに出かけた。
”自分にできることなんてない”と、半ば傍観していた藤井さんは、
見慣れない球技と出会う。

それがボッチャだった。重度の脳性まひや四肢機能障害がある競技者
向けに考案された。白い目標球に赤と青の球を6球ずつ投げ、
より近づけた方に得点が入る。障がいによって、手で球を
投げられない選手は、足で球をキック。

もしくは「ランプ」と呼ばれる滑り台のような投球補助具を使い、
「競技アシスタント」のサポートを受けて球を転がす。
藤井さんは、わずかな握力で球を握った。球は転がっていくと、
中央の白い球の方へ。

「人生で初めて、面白いと感じられた」
1年後、強化指定選手への道が開ける。以来、電動車いすに乗って、
全国大会や世界大会へ。失っていた自分への自信。

それを取り戻してくれたのがポッチャだった。創価学会との出あいは、
聖教新聞だった。09年に入会した弟・柴山泰輔さん(37)=富山県
魚津市在住、男子部本部長=の勧めで購読を始める。

最初は読まずにいたが、ある日、1面の「わが友に贈る」が目に入った。
「一つ一つの言葉が胸に残り、”頑張ろう”と思えたんです」
毎朝、読んでは切り抜くのが習慣に。

題目を唱えると、勇気が湧くのを感じ、10年2月に入会する。
「座談会に参加すると、誰も私を”かわいそうに”とはせず、
家族のように暖かくて。なんてすごいんだろうと感動しました。」

 大事な試合前には、切り抜きを貼ったノートを開くように。
〈限界とは自分が作り出したもの。師子王の祈りで己心の壁を破れ!
さあ勇気の一歩を!〉

藤井さん2.PNG
ブロック座談会で地域の同志と共に(右から、夫・潤さん、
藤井さん、義母の美奈子さん)


日本選手権で優勝するなど活躍し、12年のロンドンパラリンピックに
続き、日本代表となった本年。同志からの寄せ書きを携え、ブラジルへ。

チームは勝ち進み、メダルを懸けたポルトガルとの準決勝。
前回大会に比べ遠投の距離を伸ばした藤井さんは、「ずっと心の中で
題目を唱えていた」。「8−5」で勝利し、メダルを決めた。

「今まで、うまくいくかどうか不安に揺れた心に、勇気が湧き、
確信できる自分になれたんです。つらくても、唱題と努力があれば、
目標が達成できると感じられた。」

藤井さんは銀行で働きながら、土・日曜を中心に練習に励む。
「4年後の東京では、絶対に金メダルです。題目で勝ちます!」

 (聖教新聞、2016/10/29)

 まとめ
信仰体験 リオパラリンピック 苦難を超えて栄光を ボッチャ団体で日本初の銀メダル
信仰体験 リオパラリンピック 苦難を超えて栄光を 陸上競技3種目で入賞

トップページヘ


posted by mity504 at 16:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

信仰体験 リオパラリンピック 苦難を超えて栄光を 陸上競技3種目で入賞

和田伸也1.PNG
リオパラリンピックの陸上男子1500メートル(視覚障害T11)
決勝で力走する和田さん(左)(写真:共同)


障がい者スポーツの最高峰であるパラリンピッ。先月、、ブラジル
リオデジャネイロの舞台で、創価のメンバーも活躍した。
汗と涙の先につかんだ栄冠。信仰によって、苦難を生きる力に
変えた2人の足跡を追った。

信仰体験
リオパラリンピック 苦難を超えて栄光を

"最高の走り"で恩に報いたい

陸上競技3種目で入賞


【大阪府茨木市】陸上男子1500メートルの最も重い視覚障害のクラス
(T11)決勝、、、。和田伸也さん(39)=稲葉支部、男子部員=
が、リオ・五輪スタジアムの最後の直線を駆け抜ける。

「和田、6位。4分15秒62。自己ベスト!日本記録を更新しました」
5000メートル、マラソンも力走し、出場した全3種目で入賞を果たした。
ロンドンパラリンピックでは、5000メートルで」銅メダルを獲得。

現在、800・1500・5000・10000メートル、マラソンの日本記録をもつ
トップアスリートである。和田さんは、光の強弱しか認識できないため、
一人で走ることはできない。そのため、輪にしたロープを伴走者と
共に握り、ぴったりと並走する。

伴走者の一人は、「粘り強さと向上心、目標達成への強い気持ちを
兼ね備えたランナーです」と語り、伴走の輪は、大阪、京都の
市民ランナーや学生を中心に100人に及ぶ。

 「息子さんの目は、網膜色素変性症です」。医師から、母親の悦子さん
(67)=東大阪市在住、地区副婦人部長=に告げられたのは、和田さんが
小学1年の時。悪化すると失明に至る進行性の難病だった。

父の光明さん(67)=壮年部員=も同じ病で55歳の時に失明している。
悦子さんは、一人息子の将来に心を痛めた。
ソフトボールやサッカーをして、服を汚しながら元気に帰宅する姿を
見ると、病気の事実を口に出せなかった。

和田伸也2.PNG
日々の練習を欠かさない和田さん(手前中央)は、地区の集いにも
勇んで足を運ぶ。リオでの活躍を皆がたたえた(大手地区の地区総会で)


高校2年になった和田さんはラグビーに没頭していた。だが、この頃すでに
視野は狭くなり、視力も低下。暗くなると見えづらく、夜道も歩けない。
ついにスポーツを断念せざるをえない状況になり、自身の病を知る。

今後の進学、就職、結婚、、、。不安は重くのしかかった。この時、
両親から学んだ信仰の力と、池田SGI会長の指導が和田さんを支えた。
「昨日の自分より今日の自分を、今日の自分より明日の自分を、一歩でも
磨き高めようと挑戦していくなかに、人間革命の道がある」

力強い言葉の数々に、どれほど勇気づけられたことであろう。
”そうだ。ともかく前に、、、”関西大学に進学後、先々の事態に備えて
点字を習得。3年次で失明したが、その後も点字で学び続けた。

同大学院の修士課程を修了し、現在は、大阪府盲人福祉センターの点字
図書館で働いている。白杖を用いて通勤する毎日。運動の機会など10年
以上なかったが、2006年(平成18年)に転機が訪れる。

知人の紹介で、京都の視覚障がい者ランニングチーム「賀茂川
パートナーズ」の練習会に参加することに。河川敷を伴走者の声に合わせ、
ゆっくりと走り出す。心地よい春風を受けるうち、再びスポーツへの
情熱が燃え上がった。

練習に励み、1年半後にはフルマラソンを完走。日本盲人マラソン協会の
強化指定選手にも選ばれた。08年には、伴走を務めた美企子さんと結婚。
早朝の練習後、本紙の小説『新・人間革命』を、音声で聞くことが日課だ。

「いつも支えてくれる妻や、思う存分スポーツをさせてくれた両親、伴走者
や支援の方々の恩に報いるためにも、”最高の走り”で絶対に勝ちたい」
目指すは、2020年東京パラリンピック。目前の課題への挑戦は
すでに始まっている。(関西支社編集部発)

 おわり(聖教新聞、2016/10/29)

 まとめ
信仰体験 リオパラリンピック 苦難を超えて栄光を ボッチャ団体で日本初の銀メダル
信仰体験 リオパラリンピック 苦難を超えて栄光を 陸上競技3種目で入賞

トップページヘ


posted by mity504 at 11:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

信仰体験 NISSAN GT-R エンジン組み立ての匠(1)

黒沢さん 1.PNG
柔和な黒沢さんの表情が引き締まる。
匠の仕事に一切、妥協はない。
作業は、気温、湿度、気圧が徹底管
理されたクリーンルームで行われる


黒沢さん 2.PNG
バルブクリアランスと呼ばれる工程。
部品同志の隙間の幅を、わずか
10ミクロン単位で調整する


【横浜市鶴見区】「クルマ造りへの想いと挑戦を体現するスポーツカー
」。それが、日産自動車(株)のフラッグシップカー「GT−R」。
2017年(平成29年)モデルが本年7月、発売された。
その要といえるVR38型エンジンは、一台一台、人間の手で
組み立てられる。作業を任されているのは、「匠」と呼ばれる熟練
技術者。現在、わずか5人。中でもリーダー的存在が、黒沢工さん(55)
=東寺尾支部、地区部長=だ。


 信仰体験 NISSAN GT-R エンジン組み立ての匠(1)

ぬくもりを込めたい。だから技も心も磨く

コンピューターではできない ミクロン単位(千分の1ミリ)
の調節を人の手で

誤差は+−1%


「エンジンが、かわいいんです」柔和な表情が、さらに緩む。
黒沢さんがエンジンについて語る時、その瞳は、まるで少年のように
輝く。

「空気の通り道の摩擦が小さくなるよう、部品同志のつなぎ目を手作業で
調整します」例えば、エンジンの吸気バルブと排気バルブを開閉させる
部品と、バルブの隙間の調整は、実に10ミクロン(0.01ミリ)間隔。

シックネスゲージという金属板を隙間に差し込み、幅を測る。
基準を満たすよう、部品のサイズを変更する。これを、指先が受ける
抵抗の、ほんのわずかな変化を頼りに行う。

「コンピューターでできないか、メーカーに相談しました。ですが、
”そんな精密な機械は作れない”と言われて。では、人間の手で
やるしかない、と」

一度、測定した後、部品を稼働させ、なじませる。すると隙間の幅が
変化する。再度、測定し、誤差が大きければ、分解して組み立て直す。
この、なじませた後の変化も想定できるほど、匠の技は熟練している。

「見学に来た海外のお客さまが、『クレージー』と言って、一番、
驚かれます」厳密な仕事ゆえ、性能の誤差は、わずか
プラスマイナス1%。

基準では、許容範囲はプラスマイナス5%と定めているにもかかわらず、
だ。「匠の技術は言葉で伝えられるものじゃない。”感能”の世界です」
一人で一台のエンジンを組み上げ、最後にネームプレートを装着する。
「品質への責任を示す覚悟の表れ」である。


黒沢さん 3.PNG
エンジン一台一台に、組み立てた
匠のネームプレートが装着される


買った車を分解

日産のCMに出演もしている黒沢さんだが、入社時、「車のことは
何も知らなかった」。それもそのはず。19歳だった1980年(昭和55年)
には、日本サッカーリーグ所属クラブと契約を結んだ選手だった。

ほどなく膝を故障し、偶然の出会いから日産自動車のサッカー部へ。
ところが、練習になじめず退部。エンジン部門に配属された。
工具の名前も分からず、先輩から「何しに来たんだ」と怒鳴られた。

悔しくて、本を読みあさり、勉強した。「でも、機械をいじるのは
好きでした。子どもの頃、家のテレビや冷蔵庫をバラしては、
戻せなくて、親に怒られて、(笑い)」

エンジンの仕組みを理解すると、自分で車を購入し、エンジンを分解して
組み立てた。
「キーを回して、エンジンがかかった時は感激しました。すっかり、
エンジンの組み立てにハマっちゃいました」
仕事に没頭すること26年。「助けてくれないか」。2006年(平成18年)
12月、突然、他部署から声を掛けられた。

 社運を懸けた新商品のエンジン開発が、遅れているという。責任は重い。
設計統括者が黒沢さんに語った。
「ポルシェとフェラーリを抜こうよ」。

職人魂が燃えた。組み立てやすい設計かどうか。工程順や工具の種類の
決定。組み立てに必要な条件が、黒沢さんにより織り込まれた。

翌07年10月、日産スポーツカーの象徴だったスカイラインGT−Rの
事実上の後継車「NISSAN GT−R」が、華々しく発表された。

 第2につづく (聖教新聞 2016/10/22(土))

 まとめ
信仰体験 NISSAN GT-R エンジン組み立ての匠(1)
信仰体験 NISSAN GT-R エンジン組み立ての匠(2)

トップページヘ


posted by mity504 at 11:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

信仰体験 NISSAN GT-R エンジン組み立ての匠(2)

黒沢さん 4,5.PNG
「お客様の喜びの声を聞いた
時は、最高の気持ちですね」。
GT−Rの前で語らう黒沢さん
(右)と上司の小野寺さん


 信仰体験 NISSAN GT-R エンジン組み立ての匠(2)

ぬくもりを込めたい。だから技も心も磨く

コンピューターではできない ミクロン単位(千分の1ミリ)
の調節を人の手で


「よし」「よし」


以来、匠としてエンジンの改良にも携わる。「当初、”エンジンによって
馬力にばらつきがある”どのと、苦情がありました。悔しくて、どの匠が
作っても100%の性能を発揮するエンジンを作ろうと、皆で研究と経験を
重ね、誤差1%の世界にたどり着きました」

 それでも、GT−Rのオーナーは、自分のエンジンが一番だと誇る。
「俺のGT−Rは黒沢のエンジンだ」と、SNSに写真を投稿したり、
工場まで会いに来たりする海外客もいるほど、タクミ・クロサワの
名は、世界に知れ渡っている。

その黒沢さんが、匠として最も大切と感じるもの。それは、「マインド
(心)」。「日蓮大聖人は、『心の財(たから)第1なり』
(御書1173ページ)と教えてくださっています。

押しつけではなく、乗る人が、どんなエンジンを求めているのか、
考えながら作る。そんな人間性豊かな匠でありたいし、そんな
後継者を育てたい」

だから、定期的にオーナーの集まりに参加し、意見を聞く。作業中は、
心で部品と会話しながら、微妙な調整を行う。合間に「よし」「よし」
とつぶやいていることは、同僚に指摘されて初めて気が付いた。

「コンピューターでは出せない、人間のぬくもりを、エンジンに
込めたい。そのために、技も心も磨くのが匠です」

黒澤さん 5.PNG
娘の未来さん(中)に、頑張る姿を見せ
たいという黒沢さん(左)。娘と妻・麻
理子さんの前で、優しい父親の顔に


取材後記

黒沢さんは、心に残った聖教新聞の一節を切り抜いては、いつも読み
返せるよう、持ち歩く。「”悩みは智慧に変わる””苦しんだ人が
幸せに”との池田先生の哲学に、心が磨かれる思いです」

19歳の時に創価学会に入会したが、「よし」真剣に信心を始めたのは、
2006年に、女子部員だった妻・麻理子さん(37)=地区副婦人部長
(白ゆり長兼任)=と出会ってから。

当時、仕事の多忙を理由に学会活動から遠ざかっていた。「それで、
妻から『座談会に出なさい』と怒られて(笑い)」唱題すると、
目標が明確になった。

「この候補生に、この工程を、いつまでに覚えさせる。
匠をいつまでに何人増やすなど。上司と相談しながら長期的な展望を
描けるようになりました。」

この上司というのが、小野寺正志さん(57)=横浜市旭区在住、
地区幹事(広宣長〈ブロック長〉兼任)。若い頃は社宅が一緒で、
小野寺さんと妻の法子さん(58)=地区副婦人部長=が、
いつも笑顔で声を掛けてくれた。

「ここまで頑張ってこられたのは、信心を続けさせてくれた、妻と
小野寺さんご夫妻のおかげ」感謝を口にする時、黒沢さんの目には、
じわりと涙がにじむ。

 (聖教新聞 2016/10/22 (土))

 おわり

 まとめ
信仰体験 NISSAN GT-R エンジン組み立ての匠(1)
信仰体験 NISSAN GT-R エンジン組み立ての匠(2)

トップページヘ


posted by mity504 at 11:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

信仰体験 北九州市で歯科医院を開業して40年(1)

中富さん 1.PNG
 日々、歯科医療の最前線に立つ中富さん。「健康寿命の観
点から、今、歯の健康維持の大切さが見直されています」


信仰体験 北九州市で歯科医院を開業して40年(1)

 地域貢献の使命に生きる

”報恩の心”で広布拡大の実証を

【北九州市小倉北区】1976年(昭和51年)に歯科医院を開業し、昨年春
に40年の節目を迎えた中富俊介さん(70)=到津支部、総県副総合長、
九州副ドクター部長。
地域住民の健康増進に寄与するとともに、九州ドクター部発展に
尽力してきた功績により、5年前に「広布文化賞」を授与された。
その中富さんの妻・弘美さん(71)=総県副婦人部長、九州国際部
女性部長=もまた、昨年11月、国際部結成当初からの貢献によって、
同じく広布文化賞の栄誉に輝き、夫婦で喜びを分かち合った。
広布の旅路を共に歩んできた二人は、今、確かな信仰の実証を
示している。


漢方医の教え

 学生時代、中富さんは医学を学びながら、一人、考えを巡らせていた。
人間の生と死をどう捉えるか。そして、自身の人生を悔いなく生きるには
どうすればいいのか。

 当時、父が持病で漢方薬を服用しており、それを処方していた漢方医が、
今は亡き長野兼熊さんだった。薬を受け取りに行った日、中富さんは
学会員の長野さんから仏法の生命論を教わった。

探し求めていた答えを示され、驚きと喜びで胸が高鳴ったが、信仰の道へ
一歩を踏み出す勇気がなかった。

 その時、「あんた、迷っているでしょう?」と、長野さんの妻・トヨノ
さんが身を乗り出した。

「若いんだから、腹を決めてやりなさい。いいも悪いも、やってみなけ
りゃあ分からんよ。青年に大事なのは勇気たい」

確信みなぎる一声に背中を押され、68年、中富さんは22歳で創価学会に
入会した。勉学と学会活動の両立に挑み、翌69年3月、先輩に連れられ
九州幹部会に参加。池田先生の烈々たる指導に触れ、深い感動に包まれた。

「先生のお姿を遠目に見ながら、涙が止めどなくあふれてですね。”ああ、
この方が自分の師匠だ、どんなことがあっても、生涯、つききっていこう”
と心に決めました」

信仰への理解が浅い父との間には、埋めがたい溝ができていたが、”親を
大切に。目の前の人を大切に”との学会指導を学び、唱題に励むうち、
中富さんの心に変化が芽生えた。

”自分を生み、育ててくれた両親を、もっと大切にしよう。もっと
長生きしてもらおう”……心の底から湧いてきた感謝と尊敬の思いを
胸に秘め、中富さんは父と向き合った。

「お父さん、そろそろ創価学会に入ろうや」父の幸せを願う、万感こもった
その言葉を待ち受けていたかのように、普段から口数の少ない父が一言、
「おう」と返した。

 一足先に信心を始めた母に続き、父が入会したのは75年。中富さんが
仏法に巡り合って以来、7年越しの対話が結実した。


 題目しかない

 中富さんは歯科大学時代の学友と共に、北九州市を訪問した池田先生
から、2度にわたって激励を受けている。その折、先生は「人格を磨く」
「地域に貢献」「学会活動の闘志に」との指針を示し、「そこにしか
本当の人生の幸福も勝利もない」と語った。

 師の言葉を胸奥に刻み、中富さんは仕事、地域貢献、学会活動と、
全てに一歩も引かずに挑戦してきた。

 町内会では30年以上にわたって副会長を務め、町会対抗運動会では
毎回、応援団長に。また小倉歯科医師会では理事、副会長を歴任し、
同業者の連帯を図りつつ歯の健康の啓発運動に尽力。

 理事会や講習会で率先して実務を担う姿に接し、ある歯科医が
「中富さんの姿を通して、私は創価学会に対する認識を改めました」
と声を掛けてきた。

「微力ながら私が地域で頑張ってきたことで、周囲の人が少しでも
学会への理解を深めてもらえるなら、これほどの喜びはありません。
また、それこそが師匠・池田先生への報恩の道に通じると
信じていますから」

 そんな中富さんが人生最大の試練に直面したのは90年。
あるトラブルに巻き込まれ、多額の負債を背負うことになったのだ。
歯科医として一定の収入があったとはいえ、それだけでは到底、
返済が追い付かず、歯科医院の売却さえ考えるほど窮地に立たされた。

 だが、そんな嵐の渦中にあっても、妻の弘美さんんは泰然自若
としていた。「お父さん、題目よ、題目しかないよ!」

 そう言って、自ら、御本尊の前でひたぶるに祈り続けていた。
中富さんもまた、妻の一言に闘志を燃やし、いまだかってない勢いで、
唱題に励んだ。

 結局、歯科医院の売却には至らなかったが、保険の解約など万策を
尽くし、その上で、20年以上の歳月をかけて完済。
自身の責任を果たし終えた。

「人生、いつ何が起こるか分からない。でも何があっても学会から
離れず、信心を貫いていくならば、乗り越えられない苦難はありません。
自身の体験を語りながら、私は今、一人一人、同志に励ましを
送っています」

 第二つづく 『聖教新聞 2017/01/10(火)』

  まとめ
 信仰体験 北九州市で歯科医院を開業して40年(1)
 信仰体験 北九州市で歯科医院を開業して40年(2)

トップページヘ

 
posted by mity504 at 15:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

信仰体験 北九州市で歯科医院を開業して40年(2)

中富さん 2.PNG
仕事を終えると常に同志の輪の中に飛び込み、信
心の喜びを語り合う。学会は年齢や職業の差異を
超えた人間共和の世界だ(中央が中富さん)


信仰体験 北九州市で歯科医院を開業して40年(2)

 地域貢献の使命に生きる

”報恩の心”で広布拡大の実証を

 2男1女は創価の学びやから雄飛


 持つと強く

 
 窮状にもたじろがなかった弘美さんには、忘れられない”青春の原点”
がある。東京都品川区で生まれ、英語を身に付けた弘美さんは、学会
本部の職員となり、当時の海外局に配属。英語版機関紙である
「セイキョウ・タイムズ」の編集に携わった。

 弘美さんの母は56年(昭和31年)の入会。一方、父は信心に猛反対
だった。弘美さんが26歳の時、その母が心筋梗塞で急逝し、弘美さんは
悲しみのふちに沈んだ。

 そんなある日、池田先生との出会いが。寂しげな弘美さんのたたずま
いを見て、「泣いちゃいけないよ。強く生きるんだよ」包み込むように
励ましてくれた。

「あの瞬間、私は”もっと強くなろう”と決めました。どんなにつらい
ことがあっても、先生の弟子として、絶対に泣かない、耐え抜いて
みせると、心に誓ったのです」

 縁あって中富さんと結婚し、歯科医院開業の76年、北九州の地へ。
以来、仕事で多忙な夫を支えながら婦人部の活動に励み、さらに
九州国際部の後進の指導にも当たってきた。

 そんな両親の姿を見て育った2男1女は、そろって創価高校を卒業し、
後継の人材に成長、長男・満城さん(40)=北九州市小倉北区、到津
支部、壮年部員=は九州大学歯学部、東京医科歯科大学大学院で学び、
現在は九州歯科大学で講師を務めている。

 長女・明美さん(38)は創大からマレーシアのプトラ大学大学院へ。
現地の男性と家庭を持ち、マレーシア広布の使命に生きる。

次男・伸幸さん(32)=東京都立川市在住、男子部ニューリーダー=
は、アメリカ創価大学を経て創大工学部大学院の修士課程を修了。
現在は博士課程で研究にいそしんでいる。

中富さんは語る。
「私たち家庭が自身の使命を自覚し、こうして最高に価値ある人生を
歩めるのも、全て池田先生と学会のおかげです。
その恩返しのためにもさらに地域に尽くしながら、家内と共に、
広布拡大の勝利の実証を示していきます」

中冨さん 3.PNG
励まし、支え合いながら広布の使命に生きる
中冨さん夫妻


 おわり 『聖教新聞 2017/01/10(火)』

  まとめ
 信仰体験 北九州市で歯科医院を開業して40年(1)
 信仰体験 北九州市で歯科医院を開業して40年(2)

トップページヘ



posted by mity504 at 15:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

信仰体験 次男が不登校を乗り越え、司法試験に合格(1)

和田さん 1.PNG
夫や息子から、信心の素晴らしさを
教えてもらいました」と和田さん


信仰体験 次男が不登校を乗り越え、司法試験に合格(1)

私が帰る場所はどんな時も御本尊の前でした

「期待に応えたい。そう思える相手がたくさんいて幸せ」


【京都府木津川市】和田真由美さん(55)=木津創価支部、地区副婦人
部長=が仕事から帰宅し、一人暮らしの部屋に明かりをともす。
かつて2階に引きこもった次男・大介さん(27)=東京都八王子市在住、
学生部員=のことで、頭を悩ませた日々が懐かしい。
夫の遺影を見つめ、御本尊の前に座ると経机に置いた指導を読む。
〈お題目を唱える時には、どういう気持ちで御本尊に向かえば
いいのでしょうか〉。SGIのメンバーからの質問に池田先生が答えていく
(小説『新・人間革命』第11巻「開墾」の章)。
師匠の言葉に、これまでの経験が折り重なる……。


必ず創価大学に

〈苦しい時、悲しい時、辛い時には、子どもが母の腕(かいな)に
身を投げ出し、すがりつくように、「御本尊様!」と言って、
無心にぶつかっていけばいいんです。
御本尊は、なんでも聞いてくださる。思いのたけを打ち明けるように
、唱題を重ねていくんです〉
(以下、太字部分は小説からの抜粋)

2002年(平成14年)、和田さんは朝と昼の食事をわが子の部屋の前に置き、
出勤していた。中学生になった大介さんが引きこもりに。
登校する中高生を見ると悲しみが込み上げた。

 当時、夫・信也さんはギャンブルを繰り返し、借金が膨らんでいた。
”もう私には、夫を変えられない”。苦悩から諦めへと心が移ろう。
和田さんは投げやりになり、帰宅は遅く、出来合いの品を食卓に並べる
ようになった。

 そんな中で起きた息子の不登校。自身を見つめ直すのが唱題の時間
だった。”人のために役立つ人に”と子育てに励んできた。貫いてきた
祈りは、悩みの意味を変えた。
”いつか、この悩みも、誰かの希望になるはず”と。

 わが子の未来の飛躍を信じ、紙に記した。「必ず創価大学に」と。
季節は過ぎ、息子の肩まで伸びた髪が1年以上の時を感じさせた。
夕食に顔を出すようになり、少しずつ変化の兆しが表れた。
ある夜のこと。突然、大介さんが食卓のおかずを壁に投げつけた。

 感情を爆発させた息子は、それまで閉ざしていた心の内を初めて
さらけ出す。「お母さんは、俺の心配よりも、人がどう見てるかを
気にしてるんや!」

リビングが静まりかえる。言い争いは続かなかった。大介さんが階段を
駆け上がる音を、母はじっとしたまま、聞いた。

 反省を唱題に込めるうち、気が付いた。”いつしか、今の大介を、
心の片隅で否定していなかっただろうか”。祈りが深まるにつれ、
姿勢が変わっていった。

”あの子にしかできない生き方があるんだ”和田さんにとって、「悩みを
避けたり、心が追い詰められたりしても、私が帰る場所は、どんな時も、
御本尊の前でした」。

 第2につづく

 『2017年(平成29年)PR版春季号』聖教新聞

 まとめ
信仰体験 次男が不登校を乗り越え、司法試験に合格(1)
信仰体験 次男が不登校を乗り越え、司法試験に合格(2)

トップページヘ


posted by mity504 at 11:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

信仰体験 次男が不登校を乗り越え、司法試験に合格(2)

和田さん 2.PNG
「これから先、苦労があっても『乗り越えてやる!』
と思える自分になれました」と次男・大介さん


私が帰る場所はどんな時も御本尊の前でした

「期待に応えたい。そう思える相手がたくさんいて幸せ」


 感謝の題目を


〈また、勝負の時には、断じて勝つと心を定めて、獅子の吼えるが
ごとく、阿修羅の猛るがごとく、大宇宙を揺り動かさんばかりに
祈り抜くんです。そして、喜びの夕べには「本当にありがとうござい
ました!」と、深い感謝の題目を捧げることです〉

 中学の卒業式直前だけ登校し、大介さんは私立高校へ。ボクシング部
の練習に打ち込んだが、1年生の冬、再び布団から出られなくなる。
不登校になり、退学を決めた。

高校で最後のあいさつを終えた帰り道、母は優しく伝えた、
「やりたいようにやればいいよ」
息子は、ただうなずいた。直後、通信制高校へ。

 2年生の夏。和田さんが唱題していると部屋の戸が開いた。
大介さんが入ってくると唐突に、「お母さんは何になりたかったん?」
と質問してきた。

すでに夫はギャンブルと縁を切っていたが、和田さんの脳裏に、借金に
悩み、弁護士と掛け合った過去が浮かんだ。
「そうやね、弁護士になりたかったかなあ」

 息子の目は、真っすぐに母を見ていた。
「お母さんの、その思い、俺が継いであげる。お母さんの夢をかなえ
るわ」

 そう口にして大介さんが部屋を出ると、和田さんは夫に電話を。
会話は自然と涙声になった。

 08年12月。夫婦は再び涙する。創価大学法学部合格の知らせを
受け取った。39期生として新生活が始まると、息子の弾む声を聞いた。
「学校って、こんなに楽しい所なんや!」
 
 苦悩の中で、夫婦は、いつも感謝の題目を唱えてきた。
突然の試練は、14年の6月、夫・信也さんが心臓発作で急逝する。
副支部長だった夫は亡くなる直前、地区の全ての壮年部員宅を
訪れていた。

珍しく「男の集いやから」と、息子たちと飲みにも出掛けた。

 広布への思いを託し、新たな生へ旅立った。そう思えた和田さんには
「寂しさはあっても悲しみはありませんでした」。
その年、夫の友人2人を入会に導く。葬儀後に交流が深まったから、
”夫の折伏だ”と感じた。

 大介さんは、創大法科大学院の2年生だった。「立ち止まらず、泥くさく
、這ってでも」と、父の姿を胸に、机に向かい続けた。

 本年5月、迎えた司法試験。結果は合格。和田さんはまた一つ、
信仰の確信をつかんだ。「悩み苦しんだとしても、信心をしている限り、
全て、希望を生むドラマになるんですね」


大介さんの話

中学生の頃、学校に行けない後ろめたさがあって、家族すら拒絶して
いました。でも、一番信用していたからこそ、親にはぶっかれたんだと
思います。

 劣等感があった自分が創価大学で変われました。周りに期待をされる
ことなんてないと感じていた自分に、創立者・池田先生や両親がずっと
思いを寄せてくれたんです。

 期待に応えたい。そう思える相手がたくさんいて幸せです。昔は、
人と比べてコンプレックスに縛られていたけど、自分は自分のままで
いいと、今は信じられます。

不登校の原因はさまざまだと思いますが、悩む子には、「君は君のままで
いいんだよ」と言ってあげたい。

 父が亡くなって、母からの電話が増えました。最初は、母を元気づけ
ようとしました。でも、御書をすごく勉強し始めたらしく、御文を拝して、
逆に励まされるようになったんです。

 10代の自分を考えると、今が不思議。絶対にあり得へん。(笑い)。
口で言うばかりではなく、いつも祈ってくれた両親に感謝しかないんです。
頑固すぎるけど、筋の通った母は、本当に唱題する人。

 そのおかげで、想像さえできなかった自分になれました。「法律家」
という立場以前に、まず、困っている人のために行動する人になります。
それが僕の親孝行です。

 おわり (2016年11月19日付)

 『2017年(平成29年)PR版春季号』聖教新聞

 まとめ
信仰体験 次男が不登校を乗り越え、司法試験に合格(1)
信仰体験 次男が不登校を乗り越え、司法試験に合格(2)

トップページヘ



posted by mity504 at 14:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

久本雅美の仏法との出会い



 高木(こうぼく)は風当たりが強い。出る釘は打たれる。
格言のごとく、実力のある人を妬みから、引き下ろそうとする
輩(やから)は必ずいます。

しかし、実力のある人は、それだけ人知れず常に忍耐強く研究、努力
している。

人に抜きんずる人は必ず人知れず地道な努力がある。
これは間違いありません。

久本雅美さんは今や全国区で知られる ビッグスターです。

 入信する前の彼女と入信後の彼女の遍歴が分かる動画です。


トップページヘ

posted by mity504 at 22:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

信仰体験 母ありて「耐えてなんぼの人生ですよ」(1)

母ありて 1.PNG


信仰体験 母ありて「耐えてなんぼの人生ですよ」(1)

 第16回 広島県尾道市 佐藤富貴子さん

 デニムのオーバーオールに赤いジャンパー姿。「いつもこんな感じ。
スカートなんかはいたら島中の話題になる」。とにかく明るい。
佐藤富貴子さん(71)=沼南支部、地区副婦人部長=の案内で、
瀬戸内海に浮かぶ百島を巡った。「頼もしい後輩」と紹介してくれた
のは島の消防団。
昨春まで佐藤さんも一員だった。

「消防のふき姉さん」で通る。30年務めた。尾道市初の女性消防団員
だった。分団長の重圧から円形脱毛症になったが、任期中の火災と
災害はゼロ。島の安全に力を注いだ。

 普段着の赤いジャンバーは、「カープの赤。消防団の赤。それから
信心に燃えてる赤」と、ちゃめっ気たっぷり。笑顔の艶に感心すると、
「潮風と苦労でこの顔になったんですけど」。

 百島の生まれ。20歳で島を離れ、都会の光と影を知る。41歳で大阪
から夫婦で帰郷し、古びた雑貨店を営む母と暮らした。

 当時、島には学会への無理解があった。出合う誰もが下を向いた。
”無冠の友”の佐藤さんは、本紙の切り抜きを手にあいさつした。
受け取ってくれる手はどこにもなかった。母には「忍耐の二字を
背負っていきなさい」と言われた。

 辛抱強さは母親譲り。「忍辱を行ずるは瞋恚(しんい)の病を除く
なり」(御書755ページ)。人との関りを渇望する日々は、師弟の
距離を縮めた日々でもあった。「とにかく池田先生の指導をかみ締めて
生きてきた。耐えてなんぼの人生ですよ」

 婦人消防隊に入ったことが、地域密着の糸口となる。「地獄のような
訓練」を受けた7年目、婦人消防隊の県代表として全国大会に出場した。

 忘れられないのは島の応援団がバス2台で横浜まで来てくれたこと。
「ますます島の人を守りたい気持ちが強くなった」。女性消防隊は
島の誇りとなり、指揮者の大役を果たした佐藤さんは一躍、人気者に
なった。

 NHKのドラマ撮影が島で行われた時、歓迎の花束を手渡す「ミス百島」
を誰にするかという話になった。愛嬌の良さから当時、五十路の
佐藤さんに白羽の矢が立った。

「気分はもう映画女優」と、まんざらでもなかったが、タスキの文字を
「ブス百島」と読み違えた人がいた。笑いの渦に包まれながら、「島の
人と私の笑顔が一致したな」と感じた。

 行動力は折り紙付き。分団長の2年間、尾道市の管理で消防車と救急車
の設置を、島の役員と実現した。粘り強く交渉した訳は、「百島には
境涯革命させてもらった恩があるから」。

 退任後は、信号もコンビニもない島で、「何でも屋みたいなことを
してます」。母から継いだ雑貨店を構えながら、高齢者を診療所や
墓参りに連れて行き食事やごみ捨てまで担う。

地域貢献の信条は?「人の喜ぶことなら何でもするだけ」島の人は宝物。
「ふきちゃんとおったら、元気が出てええわ」の声が何よりの幸せだ。

 今では、島の大半の人が本紙の購読者となった。母が残した言葉を思う。
「宿業は私で断ち切るから、富貴子は幸せになりなさい……」

   つづく

 『聖教新聞 2017/04/12(水)』

 まとめ
信仰体験 母ありて「耐えてなんぼの人生ですよ」(1)
信仰体験 母ありて 86歳の現役美容師(2)

 トップページヘ


posted by mity504 at 17:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

信仰体験 母ありて 86歳の現役美容師(2)

母ありて 2.PNG
ルビー美容室には、高橋さん(左)の明るい
笑顔とおしゃべりの花が咲く


信仰体験 母ありて 86歳の現役美容師(2)

 第16回 59年越しで夫が入会
語らいの花 さらに

 86歳の現役美容師

【東京都八王子市】”ルビーさん”の愛称で親しまれる高橋トワさん
(86)=新世紀支部、地区副婦人部長=は、美容師になって約70年。
一人で営む「ルビー美容室」で、今もはさみを握る。

 常連客の多くは70代、80代の高齢者。「お客さまが、やめさせて
くれないの。”あなたじゃなきゃ駄目。まだまだ元気なんだから”
って。そうよね。目も見える。指も動く。はさみを握ったら自由自在。
一番動くのは口かしら(笑い)」

 18歳で親戚の店に勤め、修行を。終戦間もない当時は暖房もない。
冬になると、手は霜焼け、足はひび割れ。火鉢で暖を取りながら、
カットしていた。1958年(昭和33年)に自分の店をオープン。

店名の由来を尋ねると、「準備が忙しく、当時付けていたルビーの
指輪を見て、”これでいいや”つて。そんな名前で、まさか60年近くも
続くとはねえ」。

 61年、常連客から仏法の話を聞き、創価学会に入会。長男の非行、
夫のリストラを乗り越え、信心の確信をつかむ。「唱題すると、”さあ、
やるぞ”っていう気持ちになれる。お客さまからも、『いつも一生懸命
で、すごいね』って」

 そんな高橋さんには、長年の悩みがあった。結婚して59年間、夫・
義一さん(85)=壮年部員=が信心に無理解だった。会合にいこうと
して、強く反対されたことも。自宅で唱題できず、同志の家に通い、
題目を唱えた。

「お客さまにヘアスプレーを届けてくる」と言って、会合に行った
こともある。

 ”夫が信心する日は来ないかも……”。何度も諦めそうになったが、
「昔、『必ず夫と一家和楽の信心の家庭を築きます』って、みんなの
前で宣言したのよ」。以来、ずっと祈り続けてきた。

 2014年(平成26年)の年末、義一さんが「たこつぼ型心筋症」で
倒れる。高橋さんは懸命に題目を唱えた。心肺停止から意識が戻ると、
医師からは「奇跡的な回復」と、病室で義一さんは、「俺は生き返った
んだなあ」とポツリ。

 翌年の夏、一時退院で帰宅。夫が寝ているベッドの横で、唱題して
いると、義一さんも小声で「南無妙法蓮華経」と唱えていた。
「お父さん、一緒に信心しよう」。高橋さんが語ると、義一さんは「
そうだな」と、静かにうなずいた。

 入会は、8月24日。地区の同志に囲まれ、いつになく笑顔の義一さん。
”こんな日が来るなんて”振り返れば、多くの苦難を越えてきた。
10年前、高橋さん自身、脊柱管狭窄症の手術を受け、昨年は胃潰瘍が
見つかった。

「仕事をやめて、ゆっくりしょうかなと思うんだけど、題目はすごいね。
元気とやる気が湧いてくるのよ」今でも、新規の顧客が増えている。
「お客さまから紹介されて、去年から95歳のご婦人も来てくださってい
て」。来店客と話し込み、「最近はカットよりも、おしゃべりの方が
長いね」。

 ”居心地がいい”と評判なのは、高橋さんの人柄が愛されている証拠。
毎日、近隣の人が集まるルビー美容室は、地域の憩いの場になっている。

 定休日には、入院生活を続ける義一さんを見舞い、買い物や掃除、
学会活動に歩き回る。「池田先生の『友情は人生の花』って言葉が
大好きなの。語りたい人がたくさんいるから、まだまだ看板は下ろし
ませんよ」

 今日も、”ルビーさん”の笑顔が、キラキラと輝いている。

 おわり

  『聖教新聞 2017/04/12(水)』

 まとめ
信仰体験 母ありて「耐えてなんぼの人生ですよ」(1)
信仰体験 母ありて 86歳の現役美容師(2)

 トップページヘ


posted by mity504 at 12:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験
Copyright © 聖教新聞 体験談そのほか気になる記事 All Rights Reserved.
当サイトのテキストや画像等すべての転載転用・商用販売を固く禁じます
<