信仰体験 いま想う 戦後71年の歩み - 聖教新聞 体験談そのほか気になる記事

戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(1)

植野さんの体験談1.PNG

信仰体験。人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(1)

いま想う E 戦後71年の歩み

ビルマ(ミヤンマー)からの生還 (1)


【兵庫県西宮市】4年前のこと。植野正次さん(95)=春風支部、副本部長
=が、散歩の途中で公園に立ち寄ると、お年寄りたちの話し声が聞こえた。
「あんたはどこの部隊?」「食うや食わずで行軍しましたな」
「空襲も激しかった」、、、、戦時中の話のようだ。
「交ぜてもらってよろしいですか」。そう言って、植野さんも
輪に加わった。


1944年(昭和19年)7月8日、植野さんのいた第49師団歩兵第106連隊は、
戦艦大和で広島の呉を出発。タイを経由し、鉄道でビルマ(現・ミャンマー)
へと向かった。

41年の太平洋戦争開戦後、日本軍はビルマに侵攻し、全土を制圧する。
だが43年末から、英、米、中国などの連合軍反攻に遭い、形勢は逆転。
膨大な数の死者を出した(日本軍の死者数は、終戦まで16万人に及んだ)。

23歳の植野さんに不安はなかった。「”決して沈まない船”
と言われた大和に、意気揚々と乗り込みましたから、負けるなんて
少しも思いませんでしたな。

”敵を打ち負かしたる”とね」連隊は、翌45年3月から、ビルマにおいて
対英国の戦闘に加わる。植野さんの所属は、機関銃中隊。
歩兵の突撃を、銃撃で援護するのが任務だった。

「突っ込めー」の号令で進む仲間の歩兵たち。上空には戦闘機、
眼前には戦車と大砲が待ち構えていた。「あんな兵器の前に、銃剣1本
突き立てたって勝てるわけありません。でも、引いたって死ぬ。
どちらも死ぬなら、行くしかないわな」

戦艦大和で抱いた高揚感は、すでになかった。がむしゃらに機関銃を撃つ。
敵の人影が倒れていくのが見える。耳が張り裂けんばかりの戦車と大砲の
ごう音。その中で、次々に敵味方が死んだ。”これが戦争か”

ある日、敵の砲弾が目の前に落ちて爆発。破片が多数、両足に突き刺さる。
さらに2発目の砲弾。大木に直撃し、植野さんは折れた木々の下敷きに。
生き埋めとなったまま、日が暮れた。

”このまま、死ぬのか”。故郷の兵庫で農家を営む両親の顔が浮かんだ。
どれ程の時が過ぎただろうか。足音が聞こえた。「助けてくれ」。
敵か味方か分からないが、声を振り絞る。日本軍の別部隊に救助された。

負傷兵となり、川を下って軍の野戦病院に向かった。
搬送中、船が攻撃を受ける。甲板から川岸に投げ出され、意識を失った。
気づいた時は病院のベッドの上。間一髪で難を逃れた。

「破片が食い込んだ傷口から、ウジが湧いてきましてな。
蜂の巣みたいにへばりついた包帯をはがすと、ウジがポトッと
ベッドの上に落ちるんです。痛みと高熱がひどくてな。やっと眠れたと
思っても、また痛みにのたうち回る夢を見る」!

足に食い込んだ破片は13か所に上った。1週間後、9か所の破片を取り除く。
薬は底をつき、麻酔なしで手術を行う。
4か所は、戦後も破片が入ったままとなった。

負傷兵は続々と運び込まれた。ある時、植野さんは、病院の中庭に
薪がくみ上げられているのを目にする。その上には、手術で
切断された負傷兵の手足が。屋外で燃やした。

「曲がっていた手足が、燃やすと、ぴゅんと真っすぐに伸びるんですわ。
山のように積まれていてね。何とも言えんかった」
終戦の8月15日は、病院のベッドの上で迎えた。

「”ああ、やっと終わったー!”と思いましたよ。”負けたのか”も
”悔しい”もない。”こんなにまでして、人を殺すのは、もうええやろ”
と。そう思いましてな」

 2につづく  (聖教新聞)

 まとめ
戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(1)
戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(2)

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戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(2)

植野さんの体験談2.PNG

右の写真。ビルマ戦場において負傷兵を担架で護送する衛生兵
(毎日新聞社提供)
左の写真。日に3回の散歩を習慣にしている植野さん、右。
大半は、妻・君子さんと共に出掛ける。「いろんなことがあったけど、
うち(妻)のと一緒に歩いている今が、人生で一番幸せな時やで」と

戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(2)

いま想う E 戦後71年の歩み

ビルマ(ミヤンマー)からの生還

戦後、植野さんは、大阪で鮮魚店を開く。戦前、奉公していた店の大将が
植野さんを呼び寄せ、のれん分けをしてくれた。
妻・君子さん(89)=婦人部副本部長=と、懸命に働いた。
時として、夫婦は衝突することも。

鮮度が命の商売で、植野さんはせっかちだが、君子さんは自他ともに認める
「おっとりして性格」。君子さんが一人のお客と話し込んでいると、
「日が暮れるわ!」と植野さん。カッとなり、客の前で手を上げることも
しばしばだった。

そんな様子を見ていたのが、隣に店を出していた「天ぷら屋のおっちゃん」。
店先で声を掛けられた。「きょうの晩、座談会言うのをやりますのや。
一緒に来てみまへんか?」と。座談会で仏法の話を聞いた。

「この世に、神も仏もありますかいな。そんなんがおる言うんなら、
わしに、あんなにたくさん、弾の破片が当たるわけがおまへんやろが!」
”神国日本は無敵”と教えられ、戦場で目にした現実、、、植野さんは、
とうとうとまくし立てた。

しかし、”天ぷら屋のおっちゃん”は、柔和な笑顔でこう応じた。
「植野さん、宗教には、正しいものと、そうでないものがある。
何を信じるかが大事なんや。あんた、言うてましたな。

『500人の中隊で、13人しか生きて帰らへんかった』『残りの12人を
、この先も面倒見ていきたいと思っとる』って。なら、
この信心で幸せになってもらおうやないか」

その言葉に感心した。”うまいこと、言うもんや”。
家に戻ると、君子さんに告げた。「明日から、うちは創価学会や」。
終戦から10年後、1955年(昭和30年)のことだった。

入会の翌年、若き日の池田SGI会長が広布拡大の指揮を執り、
1万1111世帯の金字塔を打ち立てた「大阪の戦い」に巡り合う。
以来、折伏へ挑み続けてきた。

「残りの戦友12人に折伏が実った、、!と言うたらかっこええんやけど、
なかなかそうはいきまへん。やっぱり折伏は大変ですな」と植野さん。
冗談めかして笑うが、仏法対話は、最後の一人が亡くなるまで、
真心を込めて続けた。

「この信心で教えてもらったことは、”人を大事にせえ”いうこと。
ほんで”折伏してみんなを幸せにせえ”いうことや。
”人を殺してなんぼ”から、”人を幸せにしてなんぼ”、、、
それを教わったんやね」

正しい宗教と証明するため、仕事にも精が出た。鮮魚店は2店舗に拡大。
その後、次女夫婦が開いたスーパーマーケットでも、84歳まで鮮魚の
仕入れを担う。夫婦仲も、同志から一家和楽の模範と
尊敬されるようになった。

長年、大阪の地で広布に励み、2011年(平成23年)に三女夫婦の
住む西宮に越した。一年が過ぎたころ、植野さんは心に決める。
「新天地一周年に、折伏をやって池田先生にお答えしよう」。

そのころ、公園で戦時中の話をする”井戸端会議”に遭遇したのだ。
植野さんは、戦争の体験を語った。話は戦時中にとどまらない。
創価学会で生きてきた戦後の話も余すことなく。

後日、そこで意気投合した一人の壮年が学会に入会した。
91歳にして、有言実行の弘教を実らせた。

「天ぷら屋のおっちゃんのおかげやで」と笑う。
学会と出会い、心に定めた”人を幸せに”との誓い。
戦後71年の今も、少しも衰えることはない。(良)


  おわり  (聖教新聞)

まとめ
戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(1)
戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(2)

今年は終戦71年、戦後5.6年は物もない食料も乏しい
貧困の時代であった。
現在70歳以上の高齢者がすべてこの世を去れば、
生で戦争体験や戦後の貧困の時代を語る人々は
いなくなる。

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戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(1)

1戦後の樺太.PNG

写真上 思い出したくもない、つらく悲惨な体験も、
「平和のために語り継いでいかねば」と栗田さん。
「私たちが経験した苦しみや悲しみは、子や孫、
そして子々孫々まで、絶対に味わわせたくないから」と
写真下 栗田さんが電話交換手として、勤めていた樺太・
豊原逓信局の建物。にぎやかな駅前通りにあった
(1939年撮影、写真:近現代PL/アフロ)

戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(1)

いま想うーGー戦後71年の歩み

樺太 終戦後の戦争

命を懸けて声を届けた電話交換手


【北海道苫小牧市】昨年7月、栗田八千子さん(88)=錦岡支部、副白ゆり長
=は、戦後の引き上げ後初めて、ロシア極東サハリンのホルムスクを
訪れた。かって「樺太」の「真岡」と呼ばれていた町。戦前の面影はない。
70年前の記憶を頼りに、栗田さんは中心街の一角で足を止めた。

持参した花を供え、題目を唱える。目を閉じると、同僚だった乙女たちの
声がよみがえってきた。恋を語り夢を語り合った、懐かしいあの声。
短い青春に別れを告げる、苦しみと無念のあの声、、、。
かつてそこにあった建物で、悲劇は起きた。”終戦後の戦争”である。


樺太 終戦後の戦争
「どうしょう!真岡が攻撃されている!」同僚の突然の声に、
栗田さんは慌てて、ブレスト(電話交換手の受話器)を取った。
終戦から5日がたった1945年(昭和20年)の早朝。

南樺太の中心都市・豊原(現在のユジノサハリンスク)の
逓信局で、17歳の栗田さんは当直勤務をしていた。
逓信とは、音信を取り次ぎ、送り伝えること。当時は、交換手が
手作業で電話回線をつないでいた。

栗田さんはとっさに、「だめよ、逃げて!」と叫んだ。
「死なないで!」と何度も声を上げた。
ブレストの向こうから、別の声がする。(苦しい、、、)

服毒自殺だと直感した。彼女たちは日頃、”もし敵が攻めてきても、
決して持ち場を離れず、堂々と自決しましょう”と確認し合ってきた。
数日前から、女性に対し、緊急疎開が命じられていた。
しかし、彼女たちは交換台にとどまった。

”電話が使えなくなれば、町はさらに混乱する。軍の通信にも
支障をきたしてしまう。仕事を続けなければ!”
この日の早朝、ソ連軍が艦砲射撃をしながら真岡に上陸。

だが、彼女らは職場を死守し続けた。そして、次々と青酸カリを。
9人が若き命を自ら断ったのである。
「70年以上たった今でも、彼女たちの最期の声を忘れることができない。
思い起こすたび、心臓をえぐられるような気がします」

2日後の22日午後、栗田さんがいた豊原の町も、空襲を受けた。
逓信局の2階にいた彼女は、地下室にかけ下りた。
そこは、逃れてきた人々であふれかえっていた。血まみれで横たわり、
生死も知れぬ人。

頭が吹き飛ばされた赤ん坊を、ぼうぜんとしておぶったままの母親。
爆音が収まると、地獄のような光景が怖くて、栗田さんは職場に戻った。
外は一面、火の海である。

毛布を頭からかぶり、震える手を押さえながら、惨状を札幌の逓信局へ
伝えた。だが、日本軍は解散しており、援軍は来ない。
具体的な指示や助言も得られなかった。

「”戦争が終わった本土”と”戦争中の樺太”との間には、
埋めがたい空気の温度差がありました。」
夕方、女性は帰宅を命じられ、栗田さんも自宅へ。
ソ連兵が襲ってくるかもしれないと、部屋の明かりを消し身を潜めた。

この日、引揚者を乗せて、樺太から北海道へ向かっていた舩3艘が、
潜水艦の攻撃を受け、1700人以上が死亡。
これにより、引揚事業は中断。栗田さんら大勢の日本人が
樺太で孤立することになる。

豊原では、焼夷弾による火災が、翌23日まで続いた。
同日深夜には、ソ連軍の進駐が始まる。戦闘は終結したが、各地で、
暴行や略奪が頻発。

そうした行為をソ連当局も取り締まったが、一部の蛮行は
なくならなかった。夜、住民は表戸を板で打ち付け、女性を天井裏や
地下室に隠す。

いざという時、すぐに家の外へ出られるように、「どんでん返し」
と呼ばれるからくりも作られた。栗田さんも、何度も危険な目に遭った。
便所の小窓から外へ飛び出し逃げたこと。

拳銃を突き付けられていたところを、通リすがりの人に助けられたこと。
理不尽な嫌疑でシベリア送りを命じられたこともあったが、
友人にかくまってもらって逃げ延びた。

出征中の夫・幸次郎さん(故人)の留守を守り、生後間もない病弱な
長女・幸子さん(70)を、懸命に育てた。過酷な収容所生活でも、
み知らぬ人に頭を下げ、母乳を分けてもらったことも。

”もう無理”と何度思ったかしれない。だが、幼子の寝顔を見ては
涙を拭いた。”この子のために、何があっても生き抜いてみせる!”
と。

  第2につづく  (聖教新聞)

まとめ
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戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(2)

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戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(2)

2戦後の樺太 .PNG

長女・幸子さん(前列左端)ら子や、孫、ひ孫に
囲まれて。「立派に育つ後継の子らに大事にされて、
私は本当に幸せ者です」と。(同中央が栗田さん)

戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(2))

いま想うーGー戦後71年の歩み

樺太 終戦後の戦争

命を懸けて声を届けた電話交換手


栗田さんが、本土へ引き上げを果たすのは46年末。
その後、東北や北海道各地を転々とし、復員した夫・幸次郎さんと再会する。
家族一緒に暮らしていくが、10年、15年とたっても、生活は貧しいまま。

幸次郎さんは酒乱で、真面目に働かない。5人の子を養うため、栗田さんは
働き詰めの毎日。”幸せなんて私とは無縁”。そう思って生きてきた。
そんな中、「あなたも必ず幸せになれる」と熱く語る人に出会う。

創価学会の壮年だった。そんなことを言われても、信じられるわけもない。
62年4月、幸次郎さんが酔った勢いで入会を決め、栗田さんも渋々従ったが、
学会活動に取り組むことはなかった。

ただ、亡くなった家族や樺太の同僚たちの供養にと、勤行・唱題は
地道に続けた。その後、幸次郎さんが班長(当時)に任命されたが、
学会活動を真面目にやらない。

仕方なく、栗田さんが班員への連絡など、活動せざるを得なくなる。
弘教にも歩いた。そのうち、徐々に変わったことが起き始めた。
長年苦しんできた貧血が、すっかり治った。
そして幸次郎さんが真面目に働くようになった。

さらに、貧乏から抜け出せなかったのが、一軒家を建てられるまでになった。
それだけではない。「終戦直後から、ずっと、目の前の悩みで
いっぱいだった私が、気づけば、人の幸せを祈れる自分に変わっていた。
性格も明るくなった。それが、一番の功徳かもしれません」

戦中戦後を生きてきた人は、誰もが、生きることに精一杯だった。
時には人をだまし、陥れてでも、自分を守る時がある。
そんな人間の醜さ、心の弱さを、栗田さんも幾度となく目にしてきた。

それも仕方ない、と思って生きてきた。
だがそうではない、と学会が教えてくれた。もっと自分を高められる。
そう訴える「人間革命」という哲学に出会えた。

そして、”自分も幸せになれるんだ”と思えた。
この時、栗田さんの”戦争”は終わったのかもしれない。
今、人々の要望に応え、各地で戦争体験を語る活動も続けている。

来年で卒寿を迎えるが、「体が動く限り、平和の尊さを訴え続けたい」
と心に決めている。

命を懸けて声を届け続けた、あの乙女たちの分まで、と、、、。

 (北海道支局編集部発) (聖教新聞)

  おわり

まとめ
戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(1)
戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった(2)

昭和20年8月15日に戦争は終わっている。本篇の記事にあるように、戦争は終わり、
樺太から日本兵はひきあげた。そんな状況の中、ソ連兵は攻撃してきた。そのため、
これからという若い女性の電話交換手たちは無為に命を終えた。
終戦後、日本軍が引き揚げた後、ソ連兵は武器を持たぬ一般庶民を攻撃してきた。

多くの日本人が殺された。こらは犯罪ではないのか。
ソ連がここまで強硬に出れたのは、英、米、ソの首脳によろ
ヤルタ会談の戦後処理の密約があった。

ソ連が犯した反逆行為は決して忘れてはならない。

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戦後71年の歩み・悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(1)

体験談、中澤さん1.PNG
ひ孫を抱いて、笑みをこぼす中澤さん。「信心という宝を
一人一人に伝えていかなきゃね」と(左から、孫の拓海さん
、長女・純子さん、中澤さんとひ孫の早川真珠ちゃん、
孫の早川瑠美さん)


【茨城県つくば市】戦争が終結すると、戦地や日本の植民地、
占領地にいた軍人や民間人、合わせて600万人以上が日本へ帰還した。
その中の一人、中澤とく江さん(77)=館野広宣支部、婦人部
副本部長=の引き揚げは、「悲惨という言葉では言い尽くせない。
生きて帰れないのが当たり前だった」。
今、6月に生まれたばかりのひ孫の世話に励む彼女。
死を直視し、人生の意味を問い続けたからこそ、新たな命を育む
喜びは深い。

信仰体験 いま想う 戦後71年の歩み 

悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(1)

親子を引き裂いた満州からの引き揚げ

1932年(昭和7年)、中国東北部に日本の傀儡国家「満州国」
が建国された。
中澤さん一家は、新たな農地を求めて41年に茨城県から満州へ。
当時2歳。たどれる記憶はない。

だが6歳からの出来事は、残酷なほど心に刻まれている。
日本の敗戦を機に、生活は一変した。
満州国を支配していた日本は、ソ連兵や現地人の襲撃に
さらされた。

引き揚げまでは命の危険ばかり。関東軍(日本陸軍の満州駐屯部隊)
から、自ら命を絶つための青酸カリが配られた。
ある日、燐家の婦人が血相を変え、家に駆けこんできた。

事情を聞いた母は、すぐさま燐家に走った。
中澤さんも後を追う。家の中には、婦人の5人の幼子が布に覆われて
横になっていた。枕元には、白米に箸が刺さった茶碗が。
「お父さん、お母さんも後で逝くから」と、
青酸カリを飲まされて亡くなっていた。

年長の娘さんが血を吐き、のたうち回っていた。
娘が死に切れなかったため、燐家の婦人は、中澤さん宅に青酸カリを
もらいに来たのだった。口に含ませると、すぐに息を引き取った。

中澤さんは泣きじゃくって家へ帰った。「母は生涯、毒をわたすしか
なかったことを悲しそうに話していました」
後日、母と共に、6人の子が埋められた場所へ向かった。

そこで、地面から飛び出した腕や足を見た。周りには、
数匹のオオカミが死んでいた。オオカミが遺体を掘り返し、
毒が回ったのだろう。母は無言で土をかけていた。
中澤さんは母の身体にしがみつき、家のそばで摘んできた
紫色の花をたむけた。

妊娠していた母は、46年春に、弟・塚越良安さん(70)=副支部長=
を出産した。中澤さんの胸には、喜びと同時に恐怖も湧いた。
「子どもは足でまといになるから、小さい子ほど殺されました」。
不安に駆られ続けた。眠れぬ日々を重ねた、ある夜、物音で目が覚めた。

何かをすりつぶすような音。父が青酸カリを水に溶かし、
生後まもない弟に与えようとしていた。「あんちゃん、早く助けて!」。
中澤さんの叫び声に飛び起きた兄は、弟を抱きしめ、「俺が育てる!」
と。以来、兄と一緒に弟の世話を担った。

父は事あるごとに、母と言い争った。そのたびに母は、
「死ぬ時は、みんな一緒だ」。それが口癖だった。
父親が信じられなくなった。生きて日本に帰れるとも思えなかった。
「親に殺されるかもしれない。生きていても、地獄のようだった」

引き揚げまでの道のりは、よく覚えていない。ハルピン、新京・・・
耳にした都市の名前だけが、家族の足跡を物語る。
いつ襲われるかもしれない恐怖の日々。女性は連れ去られた。
当時16歳の姉も姿が消え、二度と会えなかった。

47年の春、引き揚げ船に乗った。京都の舞鶴港に着くと、声を掛けられた。
「お人形さんを背負っているの?」「人形じゃないよ。弟だよ」
家族と同じように、弟も痩せ細り、はたから見れば、生きているのか
どうかも分からないような状態だった。

2につづく  (聖教新聞)

まとめ
悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(1)
悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(2)

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戦後71年の歩み・悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(2)

体験談、中澤さん2.PNG

満州からの引き揚げ孤児33人が臨時列車で品川駅に着き、
引き取り先が決まるまで保護された
(1946年12月5日撮影、朝日新聞社提供)

信仰体験 いま想う 戦後71年の歩み F

悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(2)

親子を引き裂いた満州からの引き揚げ

苦悩は引き揚げ後も続いた。茨城県稲敷群で一家は農家を始めるも、
貧乏のどん底だった。小学生の中澤さんには、一本の鉛筆すら
買えなかった。足には母の編んだわら草履、背中に弟を背負って
小学校へ。

「満州帰り!」と、ののしられた。家の手伝いもあり、
学校から遠のいていった。父は酒を浴びるように飲んでは、
母に暴力を振るった。父を避けようと、夜は野山へ。

月明かりに照らされ、土の上で寝るのが日常だった。
15歳で東京へ出稼ぎに出た。小・中学校にろくに通えず、読み書きは
おろか、数字の計算も全くできない。

お金も触らせてもらえず、惨めな思いを何度も味わった。
長生きもしたくないが、死ぬのも怖い。辞書で、「幸福」の意味を調べては、
ため息をつく青春だった。

「人なんて誰も信じられない。自分には幸せなんて、ほど遠かった」
結婚し、出産を控えた63年、創価学会に入会する。
明るく生きる近所の婦人から折伏をされると、母の姿が浮かんだ。
「この信心で、母親を幸せにしたかった」

”ただ幸せになれるのなら”と信心を真っすぐに貫いた。
砂利道を歩き、「泥だらけになって折伏に走った」。
聖教新聞を読むために辞書を開いた。ほとんどの漢字に振り仮名を付け、
学んだ。

「私にとって、創価学会は人生の全てを学べる総合大学でした」
座談会で同志の変毒為薬の体験談に触れれば、境遇を嘆かない自分になれた。
夫、弟、そして母親が、入会するのに時間はかからなかった。

中澤さんは幼少から歌が大好きだった。いつも学会歌「今日も元気で」
を歌いながら、2人の子を乗せ自転車をこいだ。
山を越え、砂ぼこりにまみれても、「私たちは誇り高き親子よ!」と、
笑い飛ばした。

母もまた新聞の文字が読めず、その分、会合に参加しては、
うれしそうな顔をしていた。69年、胃がんと闘った母が亡くなった。
最後の言葉は、「題目を唱えられて幸せだよ。ありがとう」。
試練の連続を越え、迎えた最期の姿に、中澤さんは妙法の力を感じた。

「法華経を信じる人は冬のごとし冬は必ず春となる」
(御書1253ページ)。
”この一節の証明者になる”。そう心に定めて、
建設業を営む夫を支え、時に自らも軽トラックを運転した。

98年、夫が58歳で亡くなった。「事あるごとに、人間は悲しくなる。
それでも、同志がいて、池田先生がいるから、
立ち上がってこられたんです」
池田SGI会長は、つづっている。

「世界の平和とは、お母さんが幸福になることである。
一日また一日、まじめに生き抜く女性が、一番、
幸福を勝ち取っていくことである。そのように、文明の中心軸を
変えていくことが、広宣流布であり、立正安国である」

中澤さんが「私の境涯革命」と語ったのは、中国への思いの変化だ。
日本が蹂躙したがゆえに、中国にも苦しんだ父母、子どもが大勢いる。
日中友好に徹し抜くSGI会長の行動に触れ、「恨んでばかりだった
中国の方々に申し訳ない」と題目を唱えてきた。

8年前、両膝に人工関節を入れたが、学会活動の足は止まらない。
話せば笑顔が絶えず、明るい中澤さんは、「父と母に、人生に、
心の底から感謝できる。そんな自分になれたことが本当に幸せなんです」
と。

人生に悲嘆した彼女は、孫、、ひ孫たちの笑顔に囲まれ、
今月3日、喜寿を迎えた。(光)

 おわり  (聖教新聞)

まとめ
悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(1)
悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(2)


戦争ほど、残酷なものはない。 戦争ほど、悲惨なものはない。
(人間革命 第1巻 黎明)この体験談の中澤さんの終戦から
引き揚げ中の恐怖と苦しみ、見知らぬ異国でいつ殺されるかもしれぬ
日々。

幼少の女の子が弟を背負い、必死に生き抜こうとする不憫と哀れさ。
帰国後の日本での貧乏時代の体験、
「満州からの引き揚げ」といじめられ、学校にも行けなかった女の子。

戦争ゆえの悲劇である。

引き揚げに際して、関東軍から、
まさかの時には自決せよ。と「青酸カリ」を渡される。
6,7歳の女の子が弟をおぶって、引き揚げでさまよう。
いつ殺されるか分からない恐怖。

親がわが子を殺さざるを得ない、極限状況。
16歳の姉は誘拐されて、その後二度と会えない。
なんて残酷で悲惨なのだ。しかし 敵味方どちらでも、

戦争そのものが残酷で悲惨なのです。敵も味方も苦しむ。
戦争で破壊されたものは、また 再建しなければならない。

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戦後71年の歩み、生きて帰ったこの命は平和のために使うんだ(1)

鈴木さん1.PNG
戦場の日々を振り返る鈴木さん。「暑い夏が訪れるたび、終戦前、
飢えと爆撃に耐えた日々が思い出されます。こんなに生きられるとは
考えもしなかった。これからも一日一日を大切に、広布のため、
平和のために語り続けます」と。

2鈴木さん.PNG
パラオ本島のアイライ空港近くの草むらに残された日本軍の高射砲
(1976年10月1日撮影、朝日新聞社提供)

鈴木さん3.PNG
パラオ


【東京都世田谷区】「白菊と/黄菊と咲いて/日本かな」(夏目漱石)
鈴木健さん(96)=野沢支部、副区長=が、青年時代に愛した句である。
自宅の軒先で鉢を育てて25年以上。毎年、花が咲く秋を楽しみに待つ。
「年を経て、菊への思いも変わってきた」と。
鈴木さんの人生にとって、菊の花がもつ意味とは何か。
その始まりは、太平洋戦争の激戦地・パラオでの日々にある。

信仰体験 いま想うB 戦後71年の歩み

戦後71年の歩み、生きて帰ったこの命は平和のために使うんだ(1)

太平洋の激戦地・パラオでの記憶


菊花紋章の付いた軍旗と共に太平洋を南下したのは、1944年(昭和19年)
春のことだった。”われ、日本の防波堤たらん”
動員に際し、満州(現・中国東北部)の駐屯地で受けた訓示が、
そのまま鈴木さんの決意だった。当時、24歳。陸軍第14師団歩兵第59連隊
に所属する主計将校であった。

本来の任務は現地での食糧の確保等であり、前線に出る可能性は低い。
しかし戦局は悪化していた。前年のガダルカナル島撤退以降は、
日本軍が全滅したという情報も洩れ聞いた。

訓示後、仲間と密室で語った。「我々は”玉砕”しに行くのだ」
同年7月、鈴木さんのいる大隊はパラオ本島へ。
上陸直後、乗ってきた輸送船4隻全てが米軍の艦載機に撃沈され、
間一髪でジャングルに逃げ延びた。

米軍は9月15日にぺりりュー島、17日にアンガウル島に上陸。
日米双方に、膨大な死者を出していく。
パラオ本島の日本軍は、ぺりりュー島へ、民間船を用いて夜襲をかけた。

だが無数の照明弾が空を照らし、島に入る水路で米軍の機銃掃射に遭う。
「2度の出撃で、戦況報告のため帰還者以外は、皆、死にました」
3度目の切り込みに、鈴木さんにも命令が下る。

ヤシの木で作った宿舎を、残らず解体した。”立つ鳥、跡を濁さず”
の行為であったという。「防波堤として喜んで死ぬ。たたき込まれた
軍人精神を、誇りと信じていた」

夜中、パラオ本島のアイライの港から船に乗り込もうとしたまさに
その時。連隊本部から、「切り込み中止」の命令を受けた。
中止の理由は分からない。

しかし、鈴木さんの命はつながった。中止命令伝達の瞬間、鈴木さんに
未知の感情が湧いた。”助かった、、、”
「全身の力が抜け、初めて自覚したんですね。”俺は、生きたいんだ!”と」
ジャングルに戻り、再び宿営の小屋を建て、米軍と対峙した。

アンガウル島の戦闘は44年10月中旬、ぺりりュー島は11月下旬に終結。
万を超える死者が出た。パラオ本島に米軍の上陸はなかったが、
終戦まで爆撃にさらされ続けた。

「連日、グラマン(戦闘機)が4機編隊で来て、機銃掃射されてね。
一度見つかったら、30分は続く。動かずに、死んだふりをして耐える
のみです。弾丸の1発は手の甲を貫通し、命拾いしました」

B29による爆撃で2メートル先に爆弾が落ちたことも。”これまでか”
と覚悟したが、幸い、不発弾だった。飢えにも苦しんだ。
主計将校として、サツマイモの栽培を試みるも、太平洋地域特有の
スコール(大雨)で流された。カタツムリやトカゲを、ヤシの実から
採った油で揚げて食した。

亡くなる者は一目で分かった。食べていないのにパンパンに
腹がふくれる。下痢が続く。”明日はもうだめだろう”と思うと、
間違いなく亡くなっていた。

「戦病死と記録されたうち、その多くは餓死でした」。
鈴木さん自身も衰弱した。軍刀を”つえ”にして歩くが、石につまずき、
容易には起き上がれなかった。

パラオ本島到着から1年後の45年7月、付近の防空壕に爆弾が直撃した。
間もなく、壕にいた陸軍経理学校同期の主計将校が戦死したことを知る。
母一人子一人で育ち、仲間の誰よりも優秀で、親思いの好青年であった。
自身の飢えと闘いながら、鈴木さんは感じた。

”戦場では、優秀なやつ、必要とされる男から死んでいくのか、、、”」
生と死が隣り合わせの中、殺し合うことの不条理を思った。
8月16日、連隊本部に集められ、前日の玉音放送の内容を聞く。
終戦を知った。

翌年の1月7日、米軍の船で神奈川県の浦賀に着いた。港で、
正月の晴れ着を身にまとった女性を目にした。街は戦火の爪痕を色濃く
残していたが、その中にも、新たな歩みが始まっていること感じた。

 (2)につづく (聖教新聞)

まとめ
戦後71年の歩み、生きて帰ったこの命は平和のために使うんだ(1)
戦後71年の歩み、生きて帰ったこの命は平和のために使うんだ(2)

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戦後71年の歩み、生きて帰ったこの命は平和のために使うんだ(2)

鈴木さん4.PNG
大切に育てる菊の鉢を前に、語らいのひととき。妻。禎子さん(右)が
「今年の秋も咲くかしら?」と問うと、鈴木さんは「きっときれいな
花をつけるさ」と笑顔で応える。


信仰体験 いま想うB 戦後71年の歩み

戦後71年の歩み、生きて帰ったこの命は平和のために使うんだ(2)


終戦から2年後の47年、妻、禎子さん(90)=支部副婦人部長=
と結婚した。「自分を必要としてくれる人がいる。そのことが、
本当にうれしかった。戦争で一度は死んだ命。喜んで尽くそうと
思った」

”望まれれば、何でも役に立たせてもらおう”
その考えは、万事に渡った。母校の商業高校で教壇に立った後、
義父のプレス工場で額に汗して働く。一方で、戦場で感じた葛藤が、
常に心の奥深くにあった。

”なぜ俺は生き残り、なぜ仲間は死んでいったのか”
鈴木さんが「がむしゃらなほど」懸命に働き、「頼まれたら断らない」
のは、その答えを模索していたからかもしれない。戦後10年の55年に、
親戚から信心の話を聞いた。

「御書の一節に出あったんです。弥三郎殿御返事でした。
『但偏(ただひとえ)に思い切るべし、今年の世間を鏡とせよ若干(そこばく)
の人の死ぬるに
今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり』(1451ページ)。

全身に電流が走ったような感動を覚えました。”なぜ生きている?
そうか!”この仏法を弘め、平和な社会を築くためだ”と」
家族そろって入会。戸田第2代会長、若き日の池田SGI会長にも
励ましを受け、広布一筋に駆けた。

時は流れ、鈴木さんが70歳となった90年11月、学会創立60周年の佳節に、
SGI会長は世田谷区内にある東京池田記念講堂を訪問した。
SGI会長を迎えたのは、鈴木さんたち世田谷の同志が丹精込めて育て、
爛漫と咲き誇った菊の花々だった。

SGI会長は句を詠み贈った。「創立に/勝利の宴や/菊花城」
以来、四半世紀。その時の菊から株分けし、子、孫の株まで
育み続けている。

「平和のために世界の指導者と対話される池田先生と、私の絆が、
この菊なんです。私も体が動く限り、平和のために尽力しようと
菊を育てながら思う」

創価学会の姿を知ってもらおうと、対話に歩き、地域で友情を
広げてきた。3年前、小学校の校長から、ある依頼が。
「戦争の経験を、子供たちに話してくださいませんか」

93歳で、語り部として教壇に。今も語り続ける。児童からは、
「戦争がどんなに恐ろしいものかを知りました。同時に命の大切さも
あらためて知りました」

「これから私の下の世代にも教えていけたらいいなと思います」と。
感想の数々が、胸に迫った。生き残った意味を表現するのに
ふさわしい言葉を鈴木さんは探す。

「幸運か、福運か、宿命か、、、」。こう結んだ。「使命と確信し、
最後まで平和のために生き抜く」と。 (良)

  おわり  (聖教新聞)

まとめ
戦後71年の歩み、生きて帰ったこの命は平和のために使うんだ(1)
戦後71年の歩み、生きて帰ったこの命は平和のために使うんだ(2)

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信仰体験 いま想う 戦後71年の歩み 信心で無力感は使命感へ(1)

通信兵として 1.PNG
磯村さんは、「戦争とは破壊。全てを破壊することじゃ。
いいことは一つもない」と戦時を振り返る。戦後は、
価値を創造する創価の哲学を一心に広めてきた


【山口県周南市】」本年、93歳になった磯村勝美さん=熊毛栄光支部、
副支部長=は、感慨深そうに振り返る。「まさか、この年まで元気で
生きられるとは思わなかった」。
19歳から3年間、戦地で過ごした。生きて帰ったものの、たびたび
体調を崩した。ふとした時に脳裏に浮かぶ、戦場で目の当たりにした
兵士たちの亡きがら。心に刻まれた傷が癒えることはなかった。

信仰体験 いま想う(9)戦後71年の歩み

戦場で奪われた無数の命を胸に――

信心で無力感は使命感へ(1)


通信兵として中国大陸に出征

うせ戦争に行くんだから、早く兵隊に入ろう”。軍需会社に
徴用されていた磯村さんは、太平洋戦争が始まり、1年がたった1942年
(昭和17年)12月、通信隊に志願した。

大東亜共栄圏の名の下に、中国大陸に侵攻していた日本陸軍の第39師団に
配属され、師団司令部と大隊の交信を担う通信兵として、長江中流部に
位置する湖北省へ向かった。

”生きては帰ってこられない”と覚悟して。45年3月下旬、米軍による
空襲が激しさを増す中、磯村さんにとって初めての作戦が決行される。
荊門から襄陽を目指し、歩兵大隊と共に北上した。

昼は空襲を避けて木陰に隠れ、日が沈み始めると敵陣へ突っ込む、
切り込みが行われた。後方からは、野砲による援護射撃が。
通信隊はどんどん前進する歩兵を、無線機を背負ったまま必死に
追い掛ける。

夜が明ければ、敵も味方も入り乱れた、無数の死骸がそこかしこに
横たわっていた。「見たくない。早く通り過ぎたい。ひどいもんじゃ。
殺し合いじゃ」

通信兵として 2.PNG


通信兵とはいえ、磯村さんも、いつ流れ弾に当たって命を落とすか
分からない。「いつも、おふくろのことを頭に浮かべていた。
それしか考えんかった」途中、民家が炎に包まれている光景を
何度も目にした。

「中国兵が使わんように、日本軍が燃やしたんじゃろう。家のそばで、
ぼうぜんとしている年寄りが、あまりにもかわいそうじゃった」
「戦争なんかやるもんじゃない。上の者はどうか知らん。わしら下の者は
戦争に出たくないよ。だけど、しょうがない。義務じゃからな」

日本軍は襄陽を占領。一部の兵隊は北上を続けたが、反撃が予想され、
反転。約20日間、続いた作戦は4月上旬に終了した。
磯村さんの分隊は襄陽占領後、当陽での警備に就いた。

8月になると、師団司令部からの無線を傍受していた戦友から、
「日本は負けるらしいで」と聞かされた。そして15日、敗戦が伝えられた。
”ああ、終わった”と力が抜けた。

捕虜となり、使役を課せられ、半年後、帰国が命じられた。

 第2につづく (聖教新聞 2016/09/01 木)

まとめ
信仰体験 いま想う(9)戦後71年の歩み 信心で無力感は使命感へ(1)
信仰体験 いま想う(9)戦後71年の歩み 信心で無力感は使命感へ(2)

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信仰体験 いま想う 戦後71年の歩み 信心で無力感は使命感へ(2)

通信兵として3.PNG
中国大陸の戦場で連絡を取る通信隊の兵士
(毎日新聞社提供)


信仰体験 いま想う 戦後71年の歩み

戦場で奪われた無数の命を胸に――

信心で無力感は使命感へ(2)

通信兵として中国大陸に出征

 戦から10ヶ月後、山口県のわが家にたどり着いた。玄関に飛び
出してきた両親は、生きて帰った息子を前に、しばらく絶句していた。
その後、闇米を求めて鹿児島へ行ったり、出稼ぎのために北海道の
炭鉱へ行ったりするうち、48年に、戦友から横浜での仕事を紹介された。

ところが、体調が良くない。元気が出ない。戦場での日々が、磯村さん
の心身をすり減らせていた。半年間、休養しては仕事に復帰し、
しばらくしてまた休養、、、そんな生活を繰り返した。

結婚もしたが、健康は取り戻せなかった。そんな磯村さんを見ていた
近所の知人から、創価学会の座談会に誘われた。参加すると、中心者から
諭された。

「この信心をやったら、必ず元気になる。一緒にやろう」その場で
決めた。53年8月のことだった。「『その代わり、折伏をやらにゃいけん』
って言われてね。そのころ、住んでいた会社の寮に10世帯ぐらい入って
て、片っ端から信心の話をして、6世帯が入会したよ」

 56年には、若き池田SGI会長が指揮を執った山口開拓指導に加わり、
故郷で家族や友人33人を入会に導いた。
人の幸福に尽くす日々に喜びを感じた。気づけば体調を崩すことは
なくなっていた。

「入会を決めた座談会で『あんたは病気じゃない。しっかりしなさい』
って励まされたんじゃ。戦争で感じた無力感を引きずっていたのかも
しれん」

65年、折伏した実家の家族へ信心を教えるため、横浜から山口へ転居。
妻の勢津子さん(故人)から、「うちにはお金がないけれど、7人の
子どもたちのために、必ず宿命転換しょうね」と背中を押され、
貧乏と戦いながら、電気工事店を開業。
やがて安定した生活を送れるようになる。

60歳だった85年から町議会議員を3期12年務めるなど、地域の発展に
尽くした。その懸命な仕事ぶりは、それまで学会に偏見を抱いていた
知人が、周囲に「磯村さんを見習って、創価学会に入りなさい」
と勧めるほどだった。


暦を迎えた磯村さんは、”世界平和のお役に立てれば”と、
国際協力機構(JICA)が推進するホームステイの受け入れを始め、
昨年まで約30年間、続けてきた。アフリカのギニアビサウ、
南太平洋のフィジー、東南アジアのフィリッピン、マレーシア、
そして中国、、、言葉も文化も異なる人との交流の原点は、戦中にあった。

 当陽にいた時のこと。警備に就いていた磯村さんに、現地の住人が
泣きながら訴えてきた。「日本兵に鍋を持っていかれた。返してくれ」。
戦友と付いて行くと、工兵が鍋で料理をしているところだった。

磯村さんが「返してやれ」と叱ると工兵は素直に応じた。すると後日、
その中国人が、磯村さんと戦友を自宅に招き、ごちそうで
もてなしてくれた、、、。

「わしらが遠慮するだろうからって、相手のお父さんが料理を
取り分けてくれてね。いわば敵地なわけで不安もあったし、言葉も
通じなかったけど、同じ人間として真心が通じ合った」

だが、現実には命令に従い、日本兵は中国兵を攻め、殺さなければ
ならない。戦後になり、磯村さんは、心のどこかで、戦争の不条理を
解決する方途を求め続けていた。そして、創価学会の信仰に励む中で、
その方途を見だしていった。

「人間革命を進めていかなきゃいけない」。磯村さんは自分自身が
そうだったように、折伏した相手も、唱題と折伏の実践によって
蘇生する、数々の実証を目の当たりにしてきた。

SGI会長は、仏道修行によって得られる「心の財(たから)」
について語っている。〈「心の財」とは、生命の強さ、輝きであり、
人間性の豊かさである。さらに、三世永遠にわたって、崩れることの
ない福運ともいえよう〉

60年間、真面目に信心を貫いてきた磯村さんは実感している。
「日蓮大聖人の仏法は、わしらが『生も歓喜、死も歓喜』の絶対的
幸福境涯を開けることを教えてくださっている。全ての人間生命に、
計り知れない可能性があるっちゅうこと。それほど生命を尊ぶ宗教
なんじゃ」

戦場で奪われた無数の命を思う時、磯村さんの胸は痛む。


そして今も世界各地で争いが続き、悲惨な事件は後を絶たない。
「だから、創価の生死不二の正しい哲学を世界に流布していかないと、
平和はない。それを今、池田先生が進めておられるんじゃ」

磯村さんが、これまで入会に導いた人は100人に上る。そして
90歳を過ぎた今も、使命感を燃やし、平和を創る戦いを続けている。
 (幸)
 
 (聖教新聞 2016/09/01(木))

  おわり

まとめ
信仰体験 いま想う(9)戦後71年の歩み 信心で無力感は使命感へ(1)
信仰体験 いま想う(9)戦後71年の歩み 信心で無力感は使命感へ(2)

 
 戦争ほど、残酷なものはない。
 戦争ほど、悲惨なものはない。
 人間革命 第1巻 黎明

人間革命 (第1巻) (聖教文庫 (8))

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いま想う・戦後71年の歩み まとめ 1


いま想う・戦後71年の歩み まとめ 1

通信兵として 1.PNG
磯村さんは、「戦争とは破壊。全てを破壊することじゃ。
いいことは一つもない」と戦時を振り返る。戦後は、
価値を創造する創価の哲学を一心に広めてきた
信仰体験 いま想う 戦後71年の歩み 信心で無力感は使命感へ(1)

鈴木さん1.PNG
戦場の日々を振り返る鈴木さん。「暑い夏が訪れるたび、終戦前、
飢えと爆撃に耐えた日々が思い出されます。こんなに生きられるとは
考えもしなかった。これからも一日一日を大切に、広布のため、
平和のために語り続けます」と。
戦後71年の歩み、生きて帰ったこの命は平和のために使うんだ(1)

体験談、中澤さん1.PNG
ひ孫を抱いて、笑みをこぼす中澤さん。「信心という宝を
一人一人に伝えていかなきゃね」と(左から、孫の拓海さん
、長女・純子さん、中澤さんとひ孫の早川真珠ちゃん、
孫の早川瑠美さん)
戦後71年の歩み・悲しくても立ち上がる「全てに感謝できる自分に」(1)

1戦後の樺太.PNG
写真上 思い出したくもない、つらく悲惨な体験も、
「平和のために語り継いでいかねば」と栗田さん。
「私たちが経験した苦しみや悲しみは、子や孫、
そして子々孫々まで、絶対に味わわせたくないから」と
写真下 栗田さんが電話交換手として、勤めていた樺太・
豊原逓信局の建物。にぎやかな駅前通りにあった
(1939年撮影、写真:近現代PL/アフロ)
戦後71年の歩み 人の幸せを祈れる自分に変わった

植野さんの体験談1.PNG
1944年(昭和19年)7月8日、
植野さんのいた第49師団歩兵第106連隊は、
戦艦大和で広島の呉を出発。タイを経由し、
鉄道でビルマ(現・ミャンマー)へと向かった。
戦後71年の歩み・人を幸せにしてなんぼ、その信念で生きてきた(1)


カニの浜海道


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