ブラボーわが人生 - 聖教新聞 体験談そのほか気になる記事

ブラボーわが人生「この信心、分かんない人はお気の毒です」(1)

ナツさんの場合1.PNG

【茨城県ひたちなか市】自分のことを「家で一番の偉さま」という。
4世帯で暮らす、池田ナツさん(95)=津田支部、支部副婦人部長。
ひ孫に「ばあちゃん、ご飯だよ」と呼ばれる食事のおいしいこと。
いつも一番風呂で、湯船を「年寄り用に作り替えてくれた」
らしい。子犬とじゃれあい、洗濯物を畳み、掃除機をかける日々。
「みんな信心で一致してるから、この家庭にふったく(不満)
がねえの」。その声に、一家和楽がにじむ。

信仰体験 
ブラボーわが人生「この信心、分かんない人はお気の毒です」(1)

第20回 一家和楽 ナツさんの場合

昔のことを言うと恥ずかしいけど、それはそれは大変でした。
父は大酒飲みでむなしく暮らすもんだから、若くして死んじゃった。
オレは5人きょうだいの一番上。

足が悪かった母の代わりに、オレが家族を支えたんだ。
養蚕の時期は蚕さん、農業の時期は農家さんで働いた
朝4時から汗水流して1日60銭ほっち。
でもその金が欲しかった。

米を食べた記憶がないほど、貧乏の底に生きてきたよ。
3人の母となったけど、戦後のひもじさってないね。
3年前に亡くなった主人(米蔵さん)が炭鉱で働いて、オレは
ダムで働いた。

つるはしで穴掘ってると、一度だけ濁流に命を取られかけたんだ。
働いて、働いて、働き抜いて。それでも貧乏の棒が取れなくて。
結核のきょうだいを養ってたもんで、子供には粗末なご飯しか
出せませんでした。

心が疲れたのかもしれないね。オレは皮膚の病気になったんだ。
毛が抜けて、膿が出た。どこへ行っても治んない。
アタマに包帯巻いてたもんだから、近所の子供が鍋をたたいて
オレを囲むんだ。

それが嫌で、昭和32年(1957)に信心したのさ。戸田先生は
「やればやっただけ功徳は大きい」と教えてくだすった。
信心を語り歩いたよ。まさかりで追いかけられたことも
あったっけ。

あれは冬の日だ。頬被りして街灯のない道を急いでいると、
道端の家の窓から明かりが見えたんだ。
こたつに入って、楽しそうに笑ってた。オレはちょっぴり
悲しくなったけど、仏法は勝負だもん。

この人達が勝つか、オレが勝つか。
子供にだけは、オレのつらさを味わわせたくなかったからね。
自分にムチ打って、折伏したもんだ。

昭和39年9月でした。池田先生が水戸会館にいらしてな。
オレは縮こまって自己紹介したの。そしたら、先生がオレの手を
握ってくれたんだ。「私と同じ名前だね。前世は親戚だったかな」
って。

すぐに地区の皆さんに話したよ。オレの手を代わる代わる
握って来たんだ。この時ばかりは万歳万歳で、
涙がポロポロと流れたね。

三度の飯より学会活動が好きになりました。
バス代がなくても学会歌を歌いながら、遠くの村まで折伏の足を
運ぶんだ。

気づけば皮膚病が治ってた。生活は貧しかったけど、
心が裕福になりましたよ。子供は気まずさそうに給食袋を
見せるんだ。オレは「心配すんな。うちには金のなる木があんだ」
とご本尊様の前に置いて、題目あげんの。

なーに、子が寝た後、夜なべしたお金を給食袋に入れて、
木の枝にぶら下げてやるのさ。
もつたいないけど、子供は御本尊様を「金のなる木」だと思ったようだ。

信心を教えるのは、そんなところから始まるんじゃないかな。
一丁前に皆さんと肩を並べられるようになったのは、何時だったかねえ。
腹をすかせた男子部に家でラーメンを食べさせたんだ。

小さい食卓で、オレの子も身を寄せ合うようにして、すするんだ。
その後ろ姿を見た時に、ようやく一息つけた気がしたねえ。
学もねえ、取りえもねえオレだけど、貫いたことは一つです。

「聴聞する時は・もえたつばかりをもえども・とをざかりぬれば・
すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たいせず信ずるなり」
(御書1544ページ)。これなんだ。

 2につづく  (聖教新聞)

トップページヘ


posted by mity504 at 18:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブラボーわが人生

ブラボーわが人生「この信心、分かんない人はお気の毒です」(2)

ナツさんの場合2.PNG

信仰体験 
ブラボーわが人生「この信心、分かんない人はお気の毒です」(2)

第20回 一家和楽 ナツさんの場合

どんな会合にも
子供を連れて行きましたよ。
オレの生き方を一番近くで見てほしかったんだ。
子供は立派な信心をしています。だってオレに、気合を入れるように
なったんだもん。

十数年前、オレは坐骨神経痛になってなあ。
ノコギリで切られるほど痛いから、いろんな煩悩が湧くわけだ。
もう駄目だなと弱気になるところへ、娘が「何十年信心してるの!」
と、一喝するわけ。

オレもカチンときて、朝4時から題目ですよ。
畳に汗が染みこむぐらい、題目あげたんだ。ひょいと思い出したのは、
池田先生と握手したことなんだ。手のぬくもりって不思議だねえ。

だんだん湧き上がってくるんだもん。そしたら楽しい題目になっちゃうの。
御本尊と境地冥合した時の涙は、なんともいえない。
生きてきて、こういう幸せはないね。
腰の痛みが3週間で治ったよ。

煎じ詰めればオレの人生、池田先生と御書以外には何もない。
「池田先生」と言うだけで、胸が詰まっちゃう。南無妙法蓮華経が
オレになかったら、今の幸せはなかったよ。

過去のつらさは全部、今の幸せにつながる準備だったんだ。
この信心、分かんない人は、お気の毒です。
主人がまだ生きている時、娘夫婦が「一緒に住まないか」って言ってくれたんだ。

そりゃあ年金があるから、普通に暮らせるよ。でも年を重ねると、
面倒になるんだ。おなかすいたら、お膳が出て「さあどうぞ」
っていうのは無いもんかねえ、と一緒に題目上げてたわけです。

おかげで今は、朝起きると手も濡らさずに食べたいものが、ちゃーんと
出てくる。ひもじい思いをさせた子供が、オレを食べさせてくれるんだ。
「ありがとう」と言える幸せがある。

不自由なく暮らせる今こそ大勝利。だから信心の確信が、ドンドン湧いちゃう。
ああ今日も、ひ孫がオレを呼ぶ元気な声が聞こえてくる。
こんな楽しい人生、まだまだ終われないから、おじいちゃん、もう少し待っててね。

 おわり (聖教新聞)


るるぶショッピング
最新の宿数やクチコミ数を掲載しております
マップルトラベル

トップページヘ



posted by mity504 at 14:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブラボーわが人生

信仰体験 ブラボーわが人生 第26回 心の長者は91歳(1)

91歳で元気 1.PNG


信仰体験 ブラボーわが人生 第26回 心の長者は91歳(1)

「題目は打ち出の小づちじゃけえ」

信仰体験 心の長者は91歳【広島市安佐北区】「痛いも、からいも、酸いも、引っ張り出そうかいね」
そう前置きして、新宅ミスヱさん(91)=白木支部、支部副婦人部長=
は、歩みを話してくれた。

広島県の小さな島に19歳で嫁いだ。5人の子を産んだが、島の流儀に
なじめなかった。身内から「役に立たん」といびられ、泣いた。
子どもを連れて帰郷しようと、港で船を待つ間、悩んだ。

わが子が父親の愛情を知らずに育っていいものか。踏みとどまった。
夫と、船に砂利を積んで運ぶ仕事を始めた。うまくいかず、
みそ汁のみそも買えない暮らしになった。貧しさにあえぎ、いろんな
宗教をつついてみた。

陸の運送業に活路を求めた。その頃、信心の話を聞く。1962年(昭和37年)
、創価学会に入会すると、毎日「ゲタがちびるほど」学会活動に歩いた。
人生の土台が固まった気がして、ようやく胸を張れた。
倒産を2度味わっても、めげたりしない。

「見とってみい。この倍の会社にしちゃる」。支えは、池田先生と交わした
握手(75年)。「頑張ってください」と声を掛けられた思い出だけで、
耐えに耐えた。

泥から這い上がったその手で土木会社を築き、子に継いだ。
もう一つ、大きな山を越えなければならなかった。4年前、67歳の長男を
病で亡くす。

新宅さんは息子の息が切れるまで、題目を聞かせた。張り裂けそうな思いで
、葬儀の導師を自ら務めた。

 人生に起こる全てを、「生まれた時の約束ごと」と受けとめる。
親より先に子が旅立つことは、身の置き場がないほど悲しく、つらい。
それでも「もう題目しかないけえ」と、祈りを途切らせはしなかった。

新宅さんの語る言葉の端々に、信心への覚悟がにじむ。
「こがな幸せがくるとは思わんかった」と、張りのある声で言い切る。
宿命を丸ごと宝に変えてみせた”心の長者”に、共鳴する人は多いだろう。
 (天)


 ●信心の味

 題目は打ち出の小づちじゃけえ。頭で思うただけで、宝物が出るんよ。
買い物に行くじゃろ。家帰って「しもうた!卵買うの忘れた」言うてのお。
ほしたら玄関がピンポーンと鳴るんよ。開けたら近所の人が卵を箱で
持っとった。

こがな不思議なことが続くんよ。座談会の帰りに「シイタケ食べたい」
言やあ、玄関に干しシイタケがドサッと置いてあるし、粕汁が飲みたい
思うたら、「粕汁こしらえたけえ食べんさい」言うて縁側に来てじゃし。

欲しい時に欲しい物がスイスイ飛んでくる。それが功徳なんよ。
みんな、打ち出の小づちを持っとるんじゃけどのお。振らんけえ、宝も
功徳も出んのんよ。振ってみんさい。信心の味を占めたら、やめられんけえ。


 ●宝の受け方

 池田先生の言われる通りに、信心すりゃあええ。題目あげても幸せになれん、
いうのは、大うそよ。朝晩、勤行しよるじゃろ。寿量品に「雨曼陀羅華
(うまんだらけ)」ってあろうが。宝物が毎日、天から降ってきよるんよ。

じゃけど、みんなよう受け取らんのよ。前掛け広げて受けるんじゃあ
ないで。題目あげて、受ける器をつくっとかにゃあ。
私は欲深いけえね。降り注ぐもんを全部受けるで。見てみんさい。
この正月も、子と孫がみんなお年玉くれたんじゃけえ。

 次につづく

 まとめ
信仰体験 ブラボーわが人生 第26回 心の長者は91歳(1)
信仰体験 ブラボーわが人生 第26回 心の長者は91歳(2)

『聖教新聞 2017/01/31(火)』

トップページヘ


posted by mity504 at 17:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブラボーわが人生

信仰体験 ブラボーわが人生 第26回 心の長者は91歳(2)

91歳で元気 2.PNG
長女の文子さんと2人暮らし


91歳で元気 3.PNG
心に響いた本紙の言葉を
書きとどめることが日課


信仰体験 ブラボーわが人生 第26回 心の長者は91歳(2)

「題目は打ち出の小づちじゃけえ」


 ●小宇宙

題目をあげりゃあ、宇宙全体が力を貸してくれるんよ。
恐ろしい物は無いなるわいね。雨も風も、それこそ雪も加勢してくれる。
みんな南無妙法蓮華経の当体じゃけえ。

その力を借りて努力しんさい。棚からぼた餅じゃあ、つまらんで。
わたしゃあ太陽が、ことのほか好きなんじゃ。自分だけを照らしてくれる
気がするけえね。

「ありがとう」言うて手を振って、食器じゃろうが、何じゃろうが
干すんよ。最後は、わしが物干し竿にぶら下がろうか思うてから。
それぐらい太陽が好きなんよ。

 とにかく題目あげてみんさい。宇宙を感じて涙が出るけえ。
じゃけえ人間は「小宇宙」いうんよ。


 ●魔との攻防

寒くなったら、布団から出にくいわね。無理に起こす者もおらんし、
寝ときゃあええ。でもの、そう思った時には、もう魔が入っとる。
魔いうのは、題目をあげささん力のことなんよ。

 わたしゃあサスペンスが好きでのお。いつも2人の自分が言い合い
するんよ。「こりゃあ見たのお」「見んさいや」
「ほいでも題目あげにゃあ」「まあええじゃないか。今日ぐらい」。

仏と魔とは背中あわせ。魔の陣地に引っ張られたら、なかなか
元には戻らんけえの。

 持続が肝心よ。「今日あげたけえ、明日は題目を休んでええ」じゃあ、
魔が命をそそのかすで。


 ●祈りの構え

題目あげんと、一日損した気分になる。題目は素晴らしいよ。
何にでも効く薬よ。それを信じんさいや。同じ題目でも、間違うた
題目あげたらいけん。「この願いは無理かもしれませんが、
何とか……」。

それじゃあ御本尊様から「知ったこっちゃない」と
言われるんがオチよ。腹を決めて「こうします」いう、かなえるような
姿勢で祈らにゃあ。

「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」
(御書234ページ)。忘れんさんな。わしらは、題目をあげるために
生まれてきたんじゃけえの。


 ●願い生まれし

 宿業いうもんは、たちが悪い。願って生まれたことを忘れるんじゃけえ。
病気じゃろうが、何じゃろうが、他人のもんじゃない。
御書にちゃんとあるじゃないですか。

そりゃあ凡夫じゃけえ、疑うわいね。わしは苦しいたびに、池田先生の
本を読みよる。ほいで応用問題を解くように「何でですか」言いながら、
御本尊様に題目あげよる。

 引いたらいけん。引いたら宿業が雪崩をうってやってくるけん。
宿業ちゅうのは、逃げたら10のもんが3倍にも4倍にも膨れ上がるんよ。
文句言わんと向き合うたら、10が5に減るんじゃけえ。

智慧があるじゃないですか。御本尊様から頂く知恵が。
それで解決すりゃあええじゃない。ピンチをチャンスに変えていくんよ。
題目あげ抜きゃあ、何から、かんから、ええあんばいに丸う収まるん
じゃけえ。

わしは息が続く限り、信心の話をして歩くけんね。功徳を山ほど、
もらうんじゃ。

 まあ、ようしゃべったのお。まこと今日はええ天気じゃ。このお日さん
塩漬けにして取っておきたいわ。

 おわり

 まとめ
信仰体験 ブラボーわが人生 第26回 心の長者は91歳(1)
信仰体験 ブラボーわが人生 第26回 心の長者は91歳(2)

 『聖教新聞 2017/01/31(火)』

トップページヘ


posted by mity504 at 15:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブラボーわが人生

ブラボーわが人生 第28回 米一粒に師弟あり(1)

伊藤さん 1.PNG


 信仰体験 ブラボーわが人生
第28回 米一粒に師弟あり(1)

 「題目あげでみろ。たまげるほどの幸せ感じっど」


【山形県・飯豊町】暦は桜薫る4月でも、遠くの山はまだ白い。東北の
春は、雪解け水に感謝し、花咲く風を喜ぶ。ぬるむ田んぼに囲まれた
家を訪ねた。あるじは、米農家だった伊藤ちゑさん(97)=飯豊支部、
婦人部副本部長。凍てつく冬の厳しさにあらがうことなく、暮らしを
つないできた。その歩みに人間凱歌の輝きがある。


 まんず、御本尊様のおかげだと思ってる。いい時に信心したった
もんでよ。いろいろあっけんども、三障四魔から逃げらんねえもんだ
すな。

 おれは米さ作ってたんだ。田んぼは1町歩(約1ヘクタール)ぐれえ
あったなあ。米作りは土との戦いだ。土がよくねえと駄目だ。あんまり、
肥料やりすぎると枯れてしまう。そこらへんはほれ、熟練のさじ加減
だんべ。

 春に牛で耕して水かけてよお。そこのところさ種まくの。洗っても
爪の間の泥がとれねえ手は、働き者の手だ。夏には青々と伸びて、
秋には黄金色の穂が実るべ。そいつを鎌で刈ったら、指の拳(第二関節)
が太くなるわけ。

汗水垂らして作る米は、農家の人生が詰まってんのよ。
 やっぱり、飯豊山からくる雪解けの水がいんだべなあ。けんどよお、
そいつさ止められた時は、まいったべ。

 昭和35年(1960年)だ。東京の杉並から、信心した人が近くに来てご
ざった。座談会があるから行ったの。20人ぐれえ、いたったなあ。
おれ肝臓が悪かったっす。病気克服の体験を聞いてよお。

ああこれ以上の話はねえと思ったんだ。「信心する人と聞かれて、
おれ一人が手あげた。「この信心を貫けば、三障四魔が必ず起こる。
それでもいいか」。おれは「何言われても負げない」って話したば。

 集落長のうちさ行って、「信心した」と言ったのよ。そしたら、
「このバカ」と怒鳴られてよお。目つり上げて「集落さおかねえ」
んだと。

 そこへ、神社に寄付する話さ断ったもんだから、朝の4時まで公民館で
村のみんなに詰め寄られてよお。改宗を迫られたんだ。親友まで
そっぽ向かれてしまった。

 村八分にされたのさ。塩まかれんのはいいけんど、何よりつらかった
のは、田んぼの水さ止められたことだな。土が割れたんだ。そいつ見て、
「こんなことで負げでらんね」と父ちゃんと話したっけ。

 信心に憎しみはよくねえよ。それより題目だ。題目あげんだ。おれは
御本尊様に「相手の命を変えてけろ」と祈ったんだ。仏法は勝負ださけえ。
自分たちの姿をもって、実証を示していく以外にないのさ。

 三障四魔に負げねえよ。種をよ、御本尊様にあげて唱題すんだ。
おれの家はササニシキを作ってやった。人より早く田んぼさ出てよ。
昼休みなんて、ねがったっす。題目っつうのは、どこさ行ってもできる
もんな。一本一本苗植えながら、唱題したんだ。

 次につづく 『聖教新聞 2017/05/02(火)』

 まとめ
ブラボーわが人生 第28回 米一粒に師弟あり(1)
ブラボーわが人生 第28回 米一粒に師弟あり(2)

トップページヘ


posted by mity504 at 14:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブラボーわが人生

ブラボーわが人生 第28回 米一粒に師弟あり(2)


 信仰体験 ブラボーわが人生

第28回 米一粒に師弟あり(2)

 「題目あげでみろ。たまげるほどの幸せ感じっど」



 学会活動で福運も積まねばなんねべえ。みんなのうちさ行って、「題目
あげてみろ」と教えっけんども、石ぶん投げられるしよお。

 米沢とか山形とかの会合さ行ったもんだ。いい服着てんと陰で言われっ
から、洋服の上にジャンパー引っかけて、汽車さ乗んだ。

 帰りは汽車もバスも走んねえ夜中だからよお。真冬の猛吹雪に、50メー
トルおきの電柱を頼りに、歩いたっち。戦いだ。命懸けの戦いだ。
そうやって米一粒を作ってきたんだ。

 何事も御本尊様が先だんべ。新米お供えしてよお。「この一年、無事に
取らせていただいて、おしょうしなあ(ありがとうございます)」。
おれの田んぼは、題目の法味が詰まってっからよ。いい米がたくさん
取れたんだ。

 5年過ぎてからだな。「今までのこと、水に流してけろ」と村の人が
うちさ来たのはよ。

伊藤さん 2.PNG
50年前の伊藤さん(手前右)一家。
実りの秋に感謝


 山形の米は、ツヤっつうか、違うすね。どこの田んぼも青々と伸びた
年があったんだ。豊作でせわしなく働いた。もうすぐ刈り取りって時、
昭和42年の羽越豪雨に遭ったんだ。

 堤防を越えて、農道が川になってよお。田んぼが土砂で埋まったっす
めえ。「家が流されたってよかった。稲さえ無事でいてくれたらよお
……」。田んぼさ見て泣く老人がいたったもんなあ。

 おれの田んぼは脇に用水路があったから、無事だったんだ。刈り取りも
できたけんど、みんな早く御本尊様を持たせにゃ、かわいそうでよお。
信心さ聞かせて、「村が豊作になるようにお願いします」と題目あげた
んだ。

 昭和47年だな。池田先生が山形県隊体育館に来てくださってよお。
一緒に写真さ撮ってけだったなあ。その頃も庄内・最上地方で、河川の
被害が田畑に出たんだ。池田先生は御書を引かれたんだな。

「災来るとも変じて幸いと為らん」(979ページ)。すごい確信だこって。
おれは、生きてるうちにどこまでも題目あげるべ、と誓ったんだ。

 先生の話さ聞いてっと、土地改良した村のみんなが浮かんでよお。
ちゃっこい田んぼを大きくして、用水路も広げたんだ。変毒為薬だんべ。
おれは池田先生と米さ作ったど。うまい米になってけろや、って題目し
ながら田植えたんだ。

 米一粒に、農家の人生が詰まってんのよ。おれには見えんだ。だから、
ぶさたにしては(無駄にしては)なんねえの。米は命をつなぐものだべ。
「白米は白米にあらず・すなわち命なり」(御書1597ページ)。
米さ粗末にする人に、いい人いねえべっちゃ。

 父ちゃん亡くなって、昭和の終わりごろに田んぼをやめたんだ。
農家を引退しても、使命に定年はねえべ。ずっと題目。おれは題目切ら
さねえよ。題目ばあさんだ。
題目ながったら、別の人生になってたなあと思ってよお。

 今は近くの農家から米さ買ってる。その人は、おれの田んぼで作っ
てんの。あいや、おいしくてよお。まだ田んぼに題目の法味が詰まって
んだな。まんず、いがったな。

伊藤さん 3.PNG
家訓は「米一粒なげたり(粗末に)するな」。
ひ孫までしっかりと行き届く


 池田先生と記念撮影した折、「生きて生きて生き抜いてください」
と激励され、「百歳会」の結成があった。ちゑさんは責任の重さを感じる。
「自分だけ生きるのではなく、村の人みんなが100歳まで生きるように
祈らねば」。そこに「百歳会」の使命があると言う。

「題目の王者」と評される。東北の春の到来を物語るような不屈の歩み。
「あの時、勝ったから、こうしてられる」と、四面楚歌だった日々
を思う。

「題目あげてみろ。たまげるほどの幸せ感じっど」。友に語る言葉は、
今も昔も変わらない。

 ちゑさんの手を握った。日本の食卓を支え、気高い人生を築いてみせた
手は、
節くれ立った厚みのある手だった。山の残雪が解ける5月、飯豊の里に
田植えが始まる。(天)

おわり 『聖教新聞 2017/05/02(火)』

 まとめ
ブラボーわが人生 第28回 米一粒に師弟あり(1)
ブラボーわが人生 第28回 米一粒に師弟あり(2)

トップページヘ


posted by mity504 at 16:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブラボーわが人生

ブラボーわが人生・第40回 105歳 連勝記録更新中

チヨさん 105歳 1912年.PNG

ブラボーわが人生・第40回 105歳 連勝記録更新中

「幸せすぎて申し訳ありません」



 【東京都品川区】一見、そのつぶらな瞳は、穏やかな色をたたえている。
だが近くで見つめると、心の底まで射抜かれるようなすごみがある。

新宅チヨさん(105)=戸越公園支部、地区副婦人部長=の使う言葉は、
言い知れぬ苦労ゆえか、きれいで慈悲の心がのぞく。
話すと止まらない補聴器なしの取材。放たれる言葉には、胸の奥に
突き刺さるものがある。


 第40回 105歳 連勝記録更新中

 ■朝起きて
 朝起きますと感謝しかありません。
「御本尊様、今日も目が覚めました。ありがとうございます」。
ベッドから下りて、身支度をしまして、お題目をあげさせていただきます。
大正元年(1912年)の生まれです。
一日一日の奇跡に感謝しております。

 ■清潔であれば
 家族にしゃべり過ぎだって言われます。だけど、語る力も御本尊様に
いただいているからですもの。孫がくれた花束もはっきりと見えます。
あまりに鮮やかなので、造花かなと思って触ったら、本当の花でした。

幸せを確かめる目も、御本尊様からいただきました。
もう何もいりません。物もお金もいらないんです。心と体が清潔であれば
いいと思います。

 ■デイサービス1年生
 この7月からデイサービスに通っております。皆さん本当によくして
くださるんですよ。105歳の誕生会もしてくれました。行くとこ行くとこ、
いい人ばっかり。皆さんが諸天善神に見えますよ。
お友達がいっぱいできたから、いつか信心の話ができればいいな。

 ■息子よ
 よく息子にあきれられます。年寄りは同じことを何回も言いますからね。
「それ、さっきも言ったぞ」。そんな時は、空がなぐさめてくれます。

 昔、よく息子と手をつないで歩きました。「おかあちゃん、おそらが
きれいだね」。優しい目で見上げてきた日が懐かしいです。息子は
70歳を過ぎたけど、かわいい時もあったんです。
それを思い出して、息子に心で言ってあげるの。あなたも今に
こうなるわよ。

 ■わが師
 池田先生のこと……言葉では語り尽くせません。わたしの全てです。
班長。班担当員(当時)の記念撮影をしてくださいました。
写真を見ましても、自分の顔が分からないんです。だけど、あの日の
ドキドキだけは覚えています。

 亡くなった夫は「池田先生は、世界に二人とないお方だよ」と
言いました。先生と奥さまは世界の希望です。いつまでも健康で長生き
なさってくださるよう、祈ります。

 ■青年部に
 池田先生の教えをちゃんと守って、後継者になってください。
私たちは戦争で苦労しましたから。信心する上で大事なことは、
感謝の気持ちです。皆さんを尊敬しています。ありがとうございます。

新聞を読む.PNG
「聖教新聞で毎日、池田先生とお会いしております」
……チヨさんの師弟の距離はこれほど近い



 ■連勝記録更新中
 池田先生のことを知っていただくには、聖教新聞を読んでもらうしか
ないと思います。新聞を読めば、創価学会が何を目指しているのか、
分ります。

 生きています限り、購読の推進は続けます。役目ですから。でも毎月、
息子の家に行っては、「今月できないけど、どうしょ。どうしょ」。
そう言って、ご近所をもう一回りしてきます。

 わたくしがどこへ行っても、御本尊様がちゃんと見ててくださるん
ですね。だって、新聞とってくれる人が必ず現れるんですから。
(チヨさんは本誌の購読推進を十数年間、毎月続けている)

 ■座談会
 皆さんを座談会にお誘いするのは、創価学会はこういう楽しいところ
ですよって分かってもらいたいからです。勇気はちょっといりますけど、
「グラフSGI」を一緒に見たりして、お誘いします。今月もご近所の方が
参加してくださいました。

 ■一番の幸せ
 人生で一番の幸せですか
105年ほど生きておりますが、結局のところ、折伏できた喜びに勝るものは
なかったように思います。

 みんな折伏できるのに、自分だけできなかった時がありました。
そんな時は、もう涙が出るんですね。悔しいのか、情けないのか自分でも
分かりません。「池田先生、どうすれば折伏できるか、教えてください」
って題目あげました。
もったいない言い方ですが、御本尊様が電話になって、池田先生と
お話させてくれた気がします。
やつと折伏できた時、うれしくてまた泣きました。

 ■平和よ続け
 今は平和で、ありがたいです。子どもたち、孫たちがいつまでも幸せに
暮らせればと願っています。戦中戦後、自分でもよく生きたなあと思うほど
でした。食べ物もありませんし、世の中に色がなかった気がします。

 だけど今は、食べきれないほど食べ物がある。朝はパンとシーズ。
果物をたくさん食べます。昼は栄養のバランスを考えて、麺類に野菜を
添えます。夜は嫁が作るおいしい手料理を。

こんなありがたい世の中が、ずっと続いてほしい。ですから何としても、
世界平和を願っている創価学会が広宣流布されるよう、祈っております。

 ■かなうんです
 今、はっきり言えます。お題目をあげれば、願いは絶対にかないます。
かなうんです。「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ
信じさせ給え」(御書1124ページ)。経王殿御返事ですか。
御本尊様は本当にありがたいです。この素晴らしい信心を教えてくださった
大工さんに、感謝しております。

 皆さんに助けられて、ここまで生きることができました。ありがとう
ございます。こんなにしゃべって、ほんとすいません。記事にしないで
くださいね。ああ、はずかしい。

手押し車で買い物.PNG
手押し車でお買い物

 

 取材中、チヨさんは「岸壁の母」を歌ってくれた。セリフもすらすら
出てくる。母を思うという。古里・島根県は隠岐の島の母を。

 国鉄(現・JR)で働く夫との結婚は、母が決めたものだった。縁談を
断れば母が困る。だから受けた。でも心がついていかず、結婚式の朝まで
部屋の隅で泣いた。
 夫は働き者で素直な心を持っていた。夫婦で信心を始める。
自宅を広布の会場に提供し、友の激励に走った。若き日に看護学校に
通っていたチヨさんは助産師の免許を取り、助産師の看板を掲げた。
「御本尊様にお預かりしたお産」。60歳まで生命の誕生に立ち会った。

 師弟に生きた夫と妻。1973年(昭和48年)11月、池田先生を迎えた
品川区幹部総会には、一番いい着物で参加した。「今考えますと、親の
言うことを聞いてよかったと思います」。
歌を歌えば思い出す。チヨさんが島を出る日、港に一人立ち、船が見え
なくなるまで手を振ってくれた母の姿を。

 取材の帰り、握手を求めた。その手を千代さんは両手で包み、額を
つけてくれた。手に伝わるぬくもりだけで、寒い冬を越せそうだ。(天)


 【聖教新聞・2017年/12月28日(木)】


posted by mity504 at 16:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブラボーわが人生

信仰体験・ブラボーわが人生 第32回 89歳 絹糸の強さよ

IMG_0919 (編集済み).JPG

 
【香川県高松市】「池田先生にお目にかかってなかったら、私はとうに
死んどる」。その言葉がちっとも大げさでないことは、小比賀絹子さん
(89)=香川支部、地区副婦人部長=の足跡をたどれば合点がいく。

 31歳で大腸がんになった。手術費がなく、生きることを諦めた。
母が「最後の花道だから」と用意した振り袖を着て、よたよたと
退院した。足裏の浮腫に死期を感じた時、小比賀さんは4年半も
拒み続けた信心を始めた。

「悪い宗教が元で死ねるなら、それもええ」。捨て鉢な決断だったが、
学会の同志は命に潤いを与えようとした。満足に歩けない小比賀さんを
板に乗せ、瀬戸内海の直島から船に乗せた。

訳も分からず連れてこられた東京の日大講堂。2階席の手すりをつかんで
参加したのは、池田先生の第3代会長就任式だった。

 その後、友の唱題に背を押され、「3人前の信心せんな」と腹を決めた。
心が体を突き動かし、足を引きずって歩けるようになった。
粗末な服で参加した夏季講習会。昼食代もなく、一人で唱題していた。

思いがけず、池田先生と出会う。「何があっても生きるんだ」と、みかんの
缶詰を握らせてくれた。宿に帰って、みんなと湯呑みに分けた。
小比賀さんは自らの口に入れなかった。空き缶だけで幸せだった。

「臨終只今の思い」は、こと信心になると鬼の形相でつかみかかってきた
夫をも、入会に導いた。その直後のことだった。
夫が仕事中の事故で他界した。
悲運に立ち向かう妻は、わが子の手を引いて、故郷の高松市へ向かった。


信仰体験・ブラボーわが人生
 第32回 89歳 絹糸の強さよ

「不可能を可能にする信心させてもろうとん」

実家は厳しいもんや。「聖教新聞が家の敷居をまたぐのは許さん」と。
夫の会社からのお悔やみを少しずつ渡した。3ヶ月で38円しか残らん
かった。そしたら「出て行け」と。

「貸家」いう張り紙を探しては、頭を下げた。雪のちらちら降る日に、
ようやく家を見つけた。でも貧しさゆえに、ご飯がない。小さい子どもが
おる。仕事せないかん。

 ある日、トロ箱(鮮魚を入れる箱)を二つ積んだ自転車がタバコ屋に
止まっとん。「よし、魚の行商をやろう」。自転車の持ち主から
トロ箱を一つもろうた。

   ○ ○ ○

 魚屋で3ヶ月修行した。鐘を鳴らして行商に歩いたけど、
チョロチョロしか売れん。かっぱを買うお金はありません。
行商で雨にぬれることぐらいは頓着せん。

ラーメン買うてきては、お湯沸かした。誰かに「子どもには果物も
食べさせえな、いかんのぞ」と言われた。そりゃ食べさせたかった。
でも果物を買う金がない。子にラーメンをすすらせえて、残りの汁を
私がすすっての。武士は食わねど高ようじで働いた。

 それでも家賃が払えんで、福祉施設の母子寮に入った。
人間の影法師は、動いたらどこまでも、ついてくる。宿業も一緒。
なんぼ逃げても、ついてくる。宿命転換する以外に道はない。

 池田先生に誓うた。「たとえ飲まず食わずでも、子供だけは
広宣流布のお役に立つ子に育てます」。そしたら、先生の声が心に
響いてくる。

「題目挙げてるよ。頑張れ。頑張れ」。不可能を可能にする信心させて
もろうとん。強く生きな、いかんのや。

 3ヶ月で8万円できた。それを元手に店を始めた。薄板で隔てた、
駅の待合所の裏側。正味3坪ないし4坪。セメント分けてもろうて、魚飾る
台を自分で作った。屋号は、徳川家康の康をとって「魚康」にした。


   ○ ○ ○
IMG_0923 (編集済み).JPG
「魚康」で水をまく小比賀さん



 鐘鳴らして客呼んで、題目あげて働いた。節穴から目玉がのぞいとん。
目玉のあるじに「信心しましょう」と声掛けた。貧しい身なりを笑われた
けん、こう言うた。

「今は仮の姿。この姿をじっと見よってよ。必ず信心のすごさを示すから」
魚売りながら考えることは折伏だけや。「池田先生、三編とは申しません。
一遍の題目を小比賀絹子に送ってください」。

一生懸命に信心を語った。そうさせまいとする働きも強い。常に魔と
戦うた。常に自分の信心を試された。

 息子が20歳で亡くなっての。昭和50年(1975)や。「船乗りになって、
お母ちゃんを世界航路に連れていく」と言ってくれたのに……。
店の中で、いっとき泣いたです。これからどうやって自分は生きてい
くんやろ。

でもそれ以上泣くことは、貧しさが許してくれんかった。

 午前2時には市場に入っとらないかん。下の娘を起こして、ランドセル
を背負わしての。市場の食堂で朝ご飯食べさせて、学校へ送る。
うれしいこともあったけど、悲しいことがありすぎた。

だけども全部自分の宿業だから、「池田先生、先生」と題目あげた。
ほやから、先生と会えた時は感涙抑え難しでの。


   ○ ○ ○


 昭和53年1月、池田先生が四国研修道場に来られたんや。先生が車に
乗られる寸前にの、くるっと後戻りしてくれた。小学生の娘の肩に
手を置いて、「若い婦人部だね。お母さんを大切にね」と。

 昭和55年1月には「さんふらわあ7」号で神奈川にも行った。
翌年に「紅の歌」が誕生した時も、先生は手を包んでくださった。

 貧乏は不幸ではない。師を持たん人生が不幸や。私はの、母親としては
、失格かもしれん。貧しさから、娘に学問を受けさせてやれんかった。
結婚も3回した。ほいでも信心だけは頑張った。

 人生の指針がある。昭和37年8月に、池田先生から御書を頂いての。
表紙をめくると筆文字で、私の名前が書いてある。届けてくれた人から、
先生のご伝言を聞いた。

「絹糸は、糸の中でも一番細い。だけども強い」。私は子どもに何も
残せん。でも絹糸のように強く生きる姿を見せよう。そう決めた。

 魚売って、折伏して、余事を交えず池田先生のことを考えた。
頭には病気の「病」の字もなかった。子には「親と思うな。信心の
先輩と思え」と育てた。「冬は必ず春となる」(1253ページ)しか
なかった。


   ○ ○ ○
IMG_0922 (編集済み).JPG
家族に笑顔に包まれて暮らす




 35年間掲げた「魚康」の看板を下ろした日、私は御本尊と会話した。
「御本尊様、泣き虫の自分が、波瀾万丈の人生を耐え抜きました。
自分で自分を褒めてやりたいです」。泣いた。

 もともと病気だらけの人間や。みかんの缶詰を握らせてくれた
池田先生の手のぬくもりが、私に「生きろ」と励ましてくれた。
その恩がある。先生の名誉学術称号の数だけ折伏すると決めた。
今日までに254人に信心を持たせてきた。

 先日、病院で診てもろうたら片肺は真っ白。いまだに大腸がんも
あるがな。一日の命がどれほど大事か。たまに会合での、行商で使っと
った鐘を鳴らしよん。盛り上がるでよ。

 ひ孫と勤行した時、聞かれたんや。「おばあちゃんは、いつまで
生きる?」「おばあちゃんは130歳まで生きるよ」。驚いて笑われた。
でもの、私の人生、これからが本番だと決めとん。あと41年は
生きる計算や。   (天)


 【聖教新聞・2017年(平成29年)8月2日(水)】


posted by mity504 at 20:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブラボーわが人生
Copyright © 聖教新聞 体験談そのほか気になる記事 All Rights Reserved.
当サイトのテキストや画像等すべての転載転用・商用販売を固く禁じます
<