聖教新聞 体験談そのほか気になる記事

ブラボーわが人生・第40回 105歳 連勝記録更新中

チヨさん 105歳 1912年.PNG

ブラボーわが人生・第40回 105歳 連勝記録更新中

「幸せすぎて申し訳ありません」



 【東京都品川区】一見、そのつぶらな瞳は、穏やかな色をたたえている。
だが近くで見つめると、心の底まで射抜かれるようなすごみがある。

新宅チヨさん(105)=戸越公園支部、地区副婦人部長=の使う言葉は、
言い知れぬ苦労ゆえか、きれいで慈悲の心がのぞく。
話すと止まらない補聴器なしの取材。放たれる言葉には、胸の奥に
突き刺さるものがある。


 第40回 105歳 連勝記録更新中

 ■朝起きて
 朝起きますと感謝しかありません。
「御本尊様、今日も目が覚めました。ありがとうございます」。
ベッドから下りて、身支度をしまして、お題目をあげさせていただきます。
大正元年(1912年)の生まれです。
一日一日の奇跡に感謝しております。

 ■清潔であれば
 家族にしゃべり過ぎだって言われます。だけど、語る力も御本尊様に
いただいているからですもの。孫がくれた花束もはっきりと見えます。
あまりに鮮やかなので、造花かなと思って触ったら、本当の花でした。

幸せを確かめる目も、御本尊様からいただきました。
もう何もいりません。物もお金もいらないんです。心と体が清潔であれば
いいと思います。

 ■デイサービス1年生
 この7月からデイサービスに通っております。皆さん本当によくして
くださるんですよ。105歳の誕生会もしてくれました。行くとこ行くとこ、
いい人ばっかり。皆さんが諸天善神に見えますよ。
お友達がいっぱいできたから、いつか信心の話ができればいいな。

 ■息子よ
 よく息子にあきれられます。年寄りは同じことを何回も言いますからね。
「それ、さっきも言ったぞ」。そんな時は、空がなぐさめてくれます。

 昔、よく息子と手をつないで歩きました。「おかあちゃん、おそらが
きれいだね」。優しい目で見上げてきた日が懐かしいです。息子は
70歳を過ぎたけど、かわいい時もあったんです。
それを思い出して、息子に心で言ってあげるの。あなたも今に
こうなるわよ。

 ■わが師
 池田先生のこと……言葉では語り尽くせません。わたしの全てです。
班長。班担当員(当時)の記念撮影をしてくださいました。
写真を見ましても、自分の顔が分からないんです。だけど、あの日の
ドキドキだけは覚えています。

 亡くなった夫は「池田先生は、世界に二人とないお方だよ」と
言いました。先生と奥さまは世界の希望です。いつまでも健康で長生き
なさってくださるよう、祈ります。

 ■青年部に
 池田先生の教えをちゃんと守って、後継者になってください。
私たちは戦争で苦労しましたから。信心する上で大事なことは、
感謝の気持ちです。皆さんを尊敬しています。ありがとうございます。

新聞を読む.PNG
「聖教新聞で毎日、池田先生とお会いしております」
……チヨさんの師弟の距離はこれほど近い



 ■連勝記録更新中
 池田先生のことを知っていただくには、聖教新聞を読んでもらうしか
ないと思います。新聞を読めば、創価学会が何を目指しているのか、
分ります。

 生きています限り、購読の推進は続けます。役目ですから。でも毎月、
息子の家に行っては、「今月できないけど、どうしょ。どうしょ」。
そう言って、ご近所をもう一回りしてきます。

 わたくしがどこへ行っても、御本尊様がちゃんと見ててくださるん
ですね。だって、新聞とってくれる人が必ず現れるんですから。
(チヨさんは本誌の購読推進を十数年間、毎月続けている)

 ■座談会
 皆さんを座談会にお誘いするのは、創価学会はこういう楽しいところ
ですよって分かってもらいたいからです。勇気はちょっといりますけど、
「グラフSGI」を一緒に見たりして、お誘いします。今月もご近所の方が
参加してくださいました。

 ■一番の幸せ
 人生で一番の幸せですか
105年ほど生きておりますが、結局のところ、折伏できた喜びに勝るものは
なかったように思います。

 みんな折伏できるのに、自分だけできなかった時がありました。
そんな時は、もう涙が出るんですね。悔しいのか、情けないのか自分でも
分かりません。「池田先生、どうすれば折伏できるか、教えてください」
って題目あげました。
もったいない言い方ですが、御本尊様が電話になって、池田先生と
お話させてくれた気がします。
やつと折伏できた時、うれしくてまた泣きました。

 ■平和よ続け
 今は平和で、ありがたいです。子どもたち、孫たちがいつまでも幸せに
暮らせればと願っています。戦中戦後、自分でもよく生きたなあと思うほど
でした。食べ物もありませんし、世の中に色がなかった気がします。

 だけど今は、食べきれないほど食べ物がある。朝はパンとシーズ。
果物をたくさん食べます。昼は栄養のバランスを考えて、麺類に野菜を
添えます。夜は嫁が作るおいしい手料理を。

こんなありがたい世の中が、ずっと続いてほしい。ですから何としても、
世界平和を願っている創価学会が広宣流布されるよう、祈っております。

 ■かなうんです
 今、はっきり言えます。お題目をあげれば、願いは絶対にかないます。
かなうんです。「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ
信じさせ給え」(御書1124ページ)。経王殿御返事ですか。
御本尊様は本当にありがたいです。この素晴らしい信心を教えてくださった
大工さんに、感謝しております。

 皆さんに助けられて、ここまで生きることができました。ありがとう
ございます。こんなにしゃべって、ほんとすいません。記事にしないで
くださいね。ああ、はずかしい。

手押し車で買い物.PNG
手押し車でお買い物

 

 取材中、チヨさんは「岸壁の母」を歌ってくれた。セリフもすらすら
出てくる。母を思うという。古里・島根県は隠岐の島の母を。

 国鉄(現・JR)で働く夫との結婚は、母が決めたものだった。縁談を
断れば母が困る。だから受けた。でも心がついていかず、結婚式の朝まで
部屋の隅で泣いた。
 夫は働き者で素直な心を持っていた。夫婦で信心を始める。
自宅を広布の会場に提供し、友の激励に走った。若き日に看護学校に
通っていたチヨさんは助産師の免許を取り、助産師の看板を掲げた。
「御本尊様にお預かりしたお産」。60歳まで生命の誕生に立ち会った。

 師弟に生きた夫と妻。1973年(昭和48年)11月、池田先生を迎えた
品川区幹部総会には、一番いい着物で参加した。「今考えますと、親の
言うことを聞いてよかったと思います」。
歌を歌えば思い出す。チヨさんが島を出る日、港に一人立ち、船が見え
なくなるまで手を振ってくれた母の姿を。

 取材の帰り、握手を求めた。その手を千代さんは両手で包み、額を
つけてくれた。手に伝わるぬくもりだけで、寒い冬を越せそうだ。(天)


 【聖教新聞・2017年/12月28日(木)】


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心が変われば日常が輝き出す。グローバルウオッチ・世界を見つめて

花木静香さん.PNG

 心が変われば日常が輝き出す。

 グローバルウオッチ・世界を見つめて
 若者と幸福


 現代社会の課題を見つめる「グローバルウオッチ・世界を見つめて
若者と幸福」。明治期、屯田兵として北海道を開拓した一族の4代目
に当たる女性がいる。祖父の父が酪農を始め、祖父は新たな牧場を求め
、さらに山奥へ。父もその後を継いだ。以前は”土地に縛られ、
一族に縛られている”と思っていたが、信仰の実践により彼女は
変わった。そこに、幸福を築くヒントがある。(記事=橋本良太)


 牧場の娘に生まれて 北海道・湧別町 花木 静香さん


 隣家までは2キロ、小学校までは5キロ。幼い頃は、友達よりも牛と
遊ぶことの方が多かった。快活な少女が笑わなくなったのは、中学時代
、いじめに遭ってからのことだ。

 靴を隠され、クラス全員から無視され、「ウザい」「キモい」と言葉の
暴力。苦しいが、家族には言えなかった。

 両親も、苦境に立たされていた。当時、業界の低迷から、酪農でも
大規模経営化が進む。花木一族も、酪農に携わる子孫が共同経営し、
牛舎を集中させることに。

一族の中でも年が若い父と母は、経営方針や人間関係で肩身の狭い
思いをしていた。

 いじめに耐え、中学を卒業した同じ頃、牧場での心労が重なった
母は心の病になった。泣き叫び、暴れることも。

 いじめられた故郷も、混乱する家も、大嫌いだった。高校3年の冬、
札幌の専門学校への進学を希望する。だが、家計がそれを許さなかった。
「すまない」

 父の謝罪の言葉に、「どうして……」としか言えず、あとは泣くのが
精いっぱい。2010年(平成22年)。卒業と同時に、一族の牧場で
働くこととなった。

 午前4時から、165頭の搾乳、清掃、餌やり……。冬場は氷点下20度
を下回る。牛に蹴られて体はあざだらけ。

指先もひび割れ、血だらけに。それ以上に衝撃だったのは、共に働く
親戚からの一言だ。
「花木の家の女に、進学した人なんて誰もいないよ」

 一族の生き方が、人生を縛る鎖のようで重たかった。

 働き始めて3年目、創価学会の女子部の先輩が訪ねてきた。何度も
通ってくれる先輩に、ある日、本音を打ち明けた。
「もう牧場で働きたくない」「家から離れたい」

 先輩は、じっと話を聞き、ゆっくりと語り始めた。
「私も昔、思っていた。”自分が輝く場所は他にあるんじゃないか”
って。分かるよ。苦しいよね。逃げたいよね」

 先輩は続けた。「生命力を付ければ、どこに居ても幸せになれる。
周りの人まで、幸せにしていけるんだよ」と。

その日から、朝晩の勤行・唱題を始めた。正直、”お題目で何が
変わるの?”と思った。だが、変わった。日に日に、牛に怒りを
感じなくなり、乳房の拭き方から牛への声の掛け方までが一変する。

 ”牛は、行動で気持ちを伝えるしかない。そのサインを見逃すな”
という、父の口癖の意味がわかった。いつしか父を尊敬するように
なった。

   ◇ ◇ ◇

花木静香 2.PNG
町内の牧場で。仕事の一環で酪農家を回ることも。

花木静香さん 3.PNG
今でも牛が大好きな花木さん。「抱きつきたくなるけど、
我慢してます(笑い)」

女子部の華陽姉妹と共に。「先輩が、かつて孤独だった
私を励ましてくれたように、今度は私が皆さんの
お役に立てるように頑張りたい」と花木さん
(左から3人目)

【湧別町の特徴】
オホーツク海に面し、道内最大の湖・サロマ湖を抱える。
湧別川流域の平地では畑作が、山あいや河口域は
乳牛飼育による酪農が盛ん。酪農は一時の大規模経営から、
最新の機械を導入した中・小規模単位の経営に移行して
いるが、最盛期に比べて酪農人口は減少している。

「花木さんの家族.PNG
家族だんらんのひととき。父は結婚を機に入会後、男子部
・壮年部で公布にまい進。叔母も二人三脚で歩む父母の
姿を見て、12年前に入会した。そして今、弟と妹も
学会活動に励む(左から叔母・ミエ子さん、母・奈緒美、
花木さん、妹の育美さん、父・寿美さん)


 牛が大好きになった頃、一族の会議で経営縮小が決まる。
父と共に牧場を辞めた。

 もう人生を縛るものはない。だが、故郷に残った。16年春、父と共に
JAに再就職する。牛に関わり続けたいと考え、何より”母との絆を
取り戻したい”と願うようになっていた。

 母の病状は思わしくなかった。意思疎通ができず、感情を物に
ぶっけたり、一時的に行方不明になったことも。同年6月、入院が決定し
、父と妹が付き添って行った。妹から電話があったのは、入院した日の
夜のことだ。

 「お姉ちゃん、お母さんのかぱんからね……」〈花木静香〉〈花木翼〉
〈花木育美〉……妹が見つけたのは、母が作っていた、
子どもたち名義の預金通帳だった。

「お母さん、病気で苦しんでいる中で、私たちのこと、ずっと思って
くれていたんだね」。妹の声は涙で震えていた。

 信心を一人たもって、花木の家に嫁いできた母だった。一族の
しがらみに苦労したことは、大人になった今なら、いくらかは分かる。
”ありがとう、お母さん”

 本年、母は病状が回復し、自宅へ。十数年ぶりに、家族だんらんが
戻ってきた。

 「何げない日常が、とても楽しい」と思う。職場の事務仕事、同僚との
お茶会、外回りで触れ合う牛の吐息、そして母の笑顔……。

 ”女子部は一人ももれなく幸福に”と励ましを送り続けてきた池田先生
は、こう綴っている。「幸福とは、外にあるのではない。私たちの心の
なかにある。それを教えているのが仏法です」

 だから今、目に映る全てが輝いている。


はなき・しずか 高校卒業後、家族が親戚と共同経営していた
牧場に就職。6年間働き、その後、地域のJAに再就職。
「昨日できなかったことが、今日できるようになったら、どんな
身近なことでも、それが人間革命なんだよ」……かつての先輩の
励ましが、今も胸に響く。現在は畜産課で事務や経営の仕事を担う
とともに、酪農家のサポートを。上湧別支部、女子部本部長。

北海道の冬.PNG
サンピラー(太陽柱)。日の出や日の入りの際、太陽光
が大気中の氷の結晶に反射し、垂直方向に伸びて見える
珍しい自然現象



世界の体験プラザ・心を鍛え人生の勝利ひらく


 
メリールーさん 1.PNG

 世界の体験プラザ・心を鍛え人生の勝利ひらく

 大手不動産会社の副社長
 アメリカSGIメリールー・バークさん

 全米規模のビジネスを牽引


 メリールー・バークさんは、米国ニューヨークで、100年以上の伝統を
誇る大手不動産会社の副社長を務める。

 主な仕事は商業用の高層ビルの管理・運営だが、賃貸オフィスの交渉、
建設工事なども担当する。自らが手掛けるビルは、マンハッタンの
一等地をはじめ全米各地に及ぶ。

大小合わせて百数十の案件を並行してこなし、受信する電子メールは
一日数百通に上る。極めて多忙な日々だ。

 当然、抱えるスタッフの数も多い。ニューヨークの社内に約80人と
外部委託の500人近い従業員をまとめ上げている。

 熾烈な競争が繰り広げられるニューヨークのビジネス事情。
生き馬の目を抜くような世界だけに「タフでなければ、生き抜いて
いけません」とバーグさん。
そのためにも「毎日の唱題の実践が欠かせないんです」

 現在の自宅はニューヨークの中心街にある高層マンションの最上階。
誰もがうらやむ成功を手にしているが、これまでの人生の道のりは
決して平坦ではなかった。

 「私のポジションにいる人々は、法律家やMBA(経営学修士)取得者
など専門性の高い人ばかりです。高校しか卒業していない私が、
プロフェッショナルな世界で、ここまでの社会的地位にたどり着けたのは
、仏法に出会ったからです」


 「信心の実証を示す」と誓う

 11歳の時、バークさんの父が他界。母と兄、妹との4人暮らしとなった。
高校を卒業すると、家計を支えるため働くことに。秘書職に就いた。

 後に夫となるミュージシャンのアレンさんと出会ったのは、1974年。
熱心な仏法者だった。それから数年間、一緒に唱題を実践し、SGIの会合
には頻繁に出席するようになった。

 77年、働きながら大学で施設運営・管理を学ぶようになると、コンピュー
ター・システム・サービス会社への転職を勝ち取る。
その後、投資会社に移り、マネジメント職を得た。

 「人生が好転していきました。そこから順調にキャリアを積み上げていく
ことができたのです」

 80年に入会。翌81年には、アレンさんと結婚した。

 働くことに生きがいを感じていたバークさん。学歴不足を補おうと、
誰よりも懸命に働く日々を過ごした。その努力が実を結び、84年には大手
不動産会社の副社長に就任する。

 「何もかもがうまくいくかに見えました」

 だが、3年後の87年、予期せぬ出来事がバークさんを襲った。勤務する
会社が倒産したのだ。

 「これまで積み上げてきたキャリアの全てを失いました。人生初の
大きな挫折でした」

 従業員の再雇用先を探すために奔走する慌ただしい日々が続いた。

喪失感と絶望感に覆われ、先のことを考える余裕すらない中、向かった
先はSGI婦人部の先輩同志の元だった。

 婦人部の先輩は力強く励ましたくれた。

 ”今こそ信心を奮い起こし、社会で実証を示す時よ!”と。

この一言に、バークさんは再び立ち上がる。

 「祈りの姿勢を変えることができました。それ以降、この仕事に
就きたい、あのボジションを得たいと願うのではなく、”信心の実証を
示したい”と祈り続けるようになったのです」


メリールーさん 2.PNG
激しい競争が繰り広げられる、世界経済の
中心地ニューヨーク。街には多くの高層ビルがそびえる


  倒産・失職の試練を乗り越え

 ”何かを失う恐怖”との戦い

 再就職を勝ち取り、企業経営の世界へ戻ったバークさん。精力的に
仕事に取り組む一方で、常に”何かを失うことへの恐怖・不安”と
向き合う日々だった。

 「90年代は、ずっと自信を取り戻す戦いが続きました」
 
 バークさんは、米国の大手通信社や金融機関、日系の通信会社など、
さまざまな企業で経営に携わり、輝かしい実績を残していった。

 「業務を遂行する上でSGIの活動で学んだことが役立ちました。
互いに支え合うこと、他者への思いやりを忘れないこと……どれも組織を
運営するのに欠かせません」

 経営に携われば、時に大量解雇やダウンサイジング(経営合理化)
の判断を迫られる。経営者と意見が異なることも。
それでも、信心根本に仕事と向き合うことで「3年ほど経てば、一緒に
仕事した経営者は友人になるんです」と。

 2008年、現在の不動産会社の副社長に。バークさんは、50人の候補者の
中から選出された。

 出勤初日の朝、会社のトップから他の経営陣に「彼女は問題解決型の
リーダーです」と紹介された。

 「何かを失えば、それで終わるのが普通の考え方。けれど、何を
失おうとも、どのような苦境に立たされても、それをバネにして
一層成長し、状況を改善していくのが仏法。この信仰に出会えたことに
本当に感謝しています」

 アメリカSGIでは、理事・地区指導員として、広布への情熱を傾けている。

 「私にとって、仕事の成功以上に大切なこと……それは自身の
『内なる変革』『人間革命』なのです」

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自宅のリビングで夫アレンさんとくつろぐ


『聖教新聞・2017/10/02(月)』 

体験談 運命に負けない強き母になる 

三崎港の綾さん 1.PNG
ここで生きる……。手かぎをぎゅっと
握り締めて、今日も使命を果たす


 運命に負けない強き母になる

 「出刃選別」でマグロを見極める職人技

 日本有数の三崎漁港で奮闘する


 【神奈川県三浦市】三崎漁港に冷気が立ち込める。年の瀬を迎え、
一年で最もマグロの取扱量が多くなる時期を迎えた。
「三崎魚類(株)」で、現場に出る社員の中で唯一の女性として、
マグロの品定めから営業までこなす鈴木綾さん(38)=初声支部、
副白ゆり長。力仕事もいとわない。
時には、150キロのマグロを引っ張ることもある。
周囲から”綾ちゃん”と親しまれる、自称・マグロの親善大使である
……。

三崎港の綾さん 2.PNG
水揚げの際、指示を出す綾さん



 る日の午前8時過ぎ。三崎漁港の市場に冷凍マグロがずらり。
1列25本のマグロが6列並ぶ。

その間を、何度も行き来する男たち。彼ら仲買人は、手かぎで
マグロの尾を持ち上げ、断面にじっと目を凝らす。

年の瀬の正月商戦を前に、少しでもいい品を競り落とそうと、
真剣なまなざしだ。

 こうした仲買人に魚を卸す役割を担うのが荷受業者。
創業67年で三崎のマグロを全国ブランドに押し上げた歴史を誇る
三崎魚類(株)は三崎漁港に二つある荷受業者の一つ。

 男性ばかりの職場で、奮闘するのが鈴木綾さんだ。行動は迅速。
指示は簡潔。慌ただしい場内で、綾さんの存在がきらりと光っている。

 長年、三崎漁港に出入りする仲買人に聞いた。「綾ちゃん?
いつも元気だよ。マグロもどんどん引っ張っていくしね。見ていて
気持ちがいいよ」

 入札の際、最も高い見積額を提示した仲買人の屋号が黒板に
記されていく。競り落とされたマグロは次々と引っ張られ、カーリング
競技のストーン(円盤形の石)のように、地面を滑っていく。
 
 午前10時過ぎ、入札が終わると、綾さんは隣接する冷凍設備のある
倉庫へ。翌日の入札に向け、マグロを仕分ける出刃選別を行う。

 出刃選別とは、マグロに出刃包丁を刺して、身の質、脂の乗り具合を
見極める職人技。マイナス60度で凍らせた身に、出刃包丁を刺すのは、
男の手でも容易ではない。

 綾さんは、力が入りやすいように、出刃包丁の柄を短くし、軍手を
かぶせ、その上からビニールテープを巻きつけ太くする。修行を重ねた末、
職人技を身に付けた。

 出刃選別をおえると、同僚と岸壁へ移動。ハワイ沖で漁を終えた船から
魚が水揚げされていく。この日の漁獲量はおよそ30トン。
クレーンで次々と冷凍マグロをつり上げては下ろす。操縦士にその指示を
出すのが綾さんだ。

 彼女には、仕事で実証を示すと決めた理由があった。

    

 水産高校を卒業後、18歳でこの道へ。20歳で結婚し退職。だが2007年
(平成19年)27歳で離婚することに。前の職場に戻るつもりはなかったが、
2人の娘(恵さん=高校2年、咲さん=高校1年)を育てなければならず、
保育園に預けては、男社会に飛び込んだ。

「大変なことは承知の上。つらかったのは、知り合いの魚屋さんから、
明け方の歳末セールの手伝いを頼まれた時。どうしても断れなくて、
深夜、家を出ようとすると、下の娘が、『どこにも行かないで』って
泣きながら抱きついてきた。胸の奥がズキズキ痛んで、私もぎゅっと
抱き締めて。『お母さん頑張って働いてくるからね』と言って
ドアを閉めてね。あの時は、なんでこんな境遇なのって、心で泣いた」

 無我夢中で働いた。”女だから”って言われたくない。
だが子育てもある。どうしても、子どもと関わる時間が減っていく。

三崎港の綾さん 3.PNG
並べる順番を見極め、指示を出すのも綾さんの仕事



つも私が一番早く家を出るので、子どもたちが学校に行ったかどうか
分からなくて。昼頃、担任の先生から『来てません』って連絡が来ると、
『すいません!起きたら行くと思います』って明るく返したけど、
内心は”どうしょう”って」

 悩んだ時はいつも、聖教新聞を隅から隅まで読んで、自分にぴったりな
指導を探した。夜、子どもたちが寝静まってから、それをノートに
書き写すのが日課になった。

「ある時、出あったのが『運命より、生命の力はずっと強い』という言葉。
運命にほんろうされるんじゃない。生命力を高めて、打ち勝っていくんだ。
そうすれば、人生を充実させていける。生命力を鍛えるには信心しかない
って、気が付いたんです」

 信心で立ち向かっていく姿勢は、元漁師だった父・鈴木義雄さん(74)
=副本部長=から学んだ。綾さんが7歳の時、母を劇症C型肝炎で亡くす。
闘病中、父はずっと題目を唱えていた。漁師をやめ、エンジニアという
慣れない仕事に変わっても、必ず会合に出掛けた。

 「父の口癖は、『信心だけは真面目に貫くんだ』。だから私も、学会活動
から一歩も引かなかった。福運が全部、娘にいけばいいと思って、
挑戦してきました。部員さん宅を訪問して、直接会って話すと、力を
もらえて。学会活動ってすごい!」

 「生命力が高まると、仕事でも実証を示さなきゃって思えるんです。
どの世界も同じかもしれないけど、黙っていたら、誰も教えてくれない。
『自分にやらせてください』って言っていかないと。

出刃選別もそうですし、船が帰港する時の船舶代理店業務も、定年間際の
上司に『私が引き継ぎますから、教えてください』ってお願いしました。
今では、私が担当してます」

 離婚し10年。がむしゃらに頑張ってきた。自身のもつ幸福感にも
変化があった。

 「昔は、『苦労した人が一番幸せになる』という言葉の意味が
分からなかった。でも、今考えると、幸せって結果じゃないんですよね。
悩みや苦労を乗り越えようっと挑戦していく中に、幸せがあるって
思えたんです。
婦人部の同志や友人の悩みに寄り添える自分になれた。
共感するみたいな。親戚にも弘教が実りました」

 「娘は今、反抗期の真っただ中(笑い)。でも、”使命を果たして、
幸せな人生を歩んでほしい”って祈っていると思い出すんです。
父が後に再婚したお母さん〈鈴木照江さん(74)=支部副婦人部長〉も、
私が高校生の時、こうして祈ってくれてたんだなって。
だからいつか娘にも通じると思って祈り続けます。

 皆さんのおかげで、今の私がある。だから恩返しです。実証を
示さないと!世界一おいしい三崎のマグロを、皆に食べてもらいたい。
私は自称”マグロ親善大使”ですから!」

三崎港の綾さん 4.PNG
旭光地区の同志と語り合う
(左から2人目が綾さん)


 『聖教新聞 2017/12/09(土)』




posted by mity504 at 15:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験

体験談・声をつないで花開かせる ターニングポイント

 
花開かせる 1.PNG

 声をつないで花開かせる ターニングポイント

 大手電機メーカー勤務 金田美智代さん

 ーケティングの部署で電子レンジの担当になったのは、2011年
(平姓23年)。金田美智代がパナソニックに入社して、3年目のことだった。

「レンジでチン」が表す性能は、「加熱」だけではない。生や冷凍の食材
から、ワンタッチで「調理」できる時代。開発競争が進み、同社でも、
フラッグシップモデル(最上位機種)には約400ものメニューが
プログラムされている。

 だが担当を引き継ぐ際、美智代は意外な事実を知らされた。
「(売り上げが)少し厳しいんだよね」高価格帯の製品が、伸び悩んでいる。
美智代は、小売店を回る営業担当者へ、ヒアリングを始めた。

「どんなふうに商品を語っていますか?」「う〜ん、どうしても冷蔵庫とか
大物の商談後になりがちで、あまり話ができないというか……。
製品の説明も、なかなか難しくて」

 店頭販売に立ったことのある営業からは、こんな声も。「主婦のお客さま
がすごくお詳しいので、”自分には答えられないんじゃないか”と不安で
、トークも弾まないんです」

 営業の多くは男性で、料理の経験があまりない。レンジと男性は相性が
悪いのか……。「そんなことないですよ」という人がいた。
商品研修を行う男性社員だ。商品愛にあふれ、開発部門にまで名を
とどろかす電子レンジマニアである。目を輝かせて語ってくれた。

 「一緒に料理すると、営業の人も”こんな簡単なの!?”って感動して
くれます。店頭でも一緒に実演販売しましたが、お客さまとの会話も弾み、
売り上が伸びました。実際、うちの製品はすごいですから!」

 多くの声を集め、つないで、美智代は考える。上司に、ある提案をした。
「電子レンジで料理を作る研修プログラムを、全国で実施したいと
考えています」

 
花開かせる 2.PNG
これまでの経験を生かし、商品企画に尽力する

 

うして「キッチン部」がスタートした。全国約1,000人の営業担当者を、
社内資格である「キッチンマイスター」に育てる取り組みだ。

 不安もあった。営業担当者にとって、仕事量が増えても、給料が増える
わけではない。レンジで調理する感動だって、全員が抱くかどうかは
未知数だ。

 ”もしも、うまくいかなかったら……”
 出勤前、帰宅後、美智代が欠かさず向かったのは、自宅にあるご本尊
だった。

創価学会の信仰に励む両親を見て育ち、進学や就職、多くの場面で祈りの
力を実感してきたから。

 仕事は、先が見通せない状況。祈り続ける中で、その受け止め方が
変わった。”この状況を、思いっきり、楽しんでいこう!”
 自分の視界が、大きく開けた気がした。

 大好きな、池田先生の指導がある。
「真剣と深刻とは違う。勇敢と悲壮とは違う。大勇の人は、明るい。
確信の人は、冷静である。知性の人には笑顔の余裕がある。
まさしく闊達な『笑い』こそは、不屈なる『心の勝者』の証しである」
と。

 多くの課題が生まれたが向き合うことが楽しくなった。いつも笑顔で
朗らかに、”どんな壁も、来るなら来い!”。

 職場では、各地のキッチン部責任者と対話を重ねていった。
何のために、この取り組みがあるのか?

 「”レンジで調理するという文化”を社会に届けたい。それによって、
働く女性に休む時間ができる。お母さんが、子どもと遊べる。お父さんが
”クッキングパパ”なれる。生活を豊かにする、そんな手助けがしたいん
です」

 上司をはじめ、多くの責任者が動いてくれた。そこには創業者・
松下幸之助氏の精神が共有されていた。”社会に貢献した報酬として、
社会から与えられるのが利益である”……。

 努力は、結果となって花開いた。高価格帯電子レンジの売り上は、
2年連続で2桁成長の伸びを記録。営業マンからも「調理は楽しいですね。
プライベートでも、レンジで家族に唐揚げを作りました」と、
喜びの声が寄せられた。

 電子レンジから始まった「キッチン部」は、炊飯器、ベーカリーなどにも
幅を広げ、営業マンに親しまれていいる。

 美智代は、社内規定の最年少の年で昇進を果たした。移動を経て、
現在は商品企画の仕事を担う。

 「いつの日か、家電で開発途上国の生活を豊かにするサポートが
したいと思います」

 家電製品の多くは”必欲品”。経済水準に余裕がないと普及して
いかない定めにある。だが彼女の夢は、その限界を超えていく。


 彼女の原点

 「秀才とは、人の5倍の勉強家なり」
 創価大学の入学式で聞いて以来、美智代が自らの指針と決めた、
池田先生のスピーチだ。就職活動の時は、小説『新・人間革命』第15巻の
「創価大学」の章を読んだ。……創大の草創期、創立者の池田先生は、
何度もキャンパスへ足を運んだ。秋の「創大祭」では、就職活動に挑む
1期生のため、企業の代表など来賓一人一人に声を掛け、名刺交換を。
「(1期生へ)ご指導、ご尽力を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます
」。先生は、深々と頭を下げて回った。
噴き出した汗を、スーツの襟にまで、にじませながら……。
創立者の学生に対する心を知り、美智代は決意した。”今度は私が、先生の
名刺の1枚となって、同窓生たちと一緒に、社会の信頼を得る青年になる”
 単に”自分が認められたい”という功名心では、キッチン部は成功しな
かったと思う。
応えたい師匠がいるからこそ、「持っている以上の力が出せた」のだと。


 かねだ・みちよ 京都市在住。創価高校・大学に学び、大学卒業後、
パナソニックに就職する。東京でマーケテイングの部署に配属され、
ミキサー、ホームベーカリー、電子レンジなど調理家電の担当を。
「キッチン部」や一般顧客向けの料理体験教室など、数多くの取り組みを
手掛けた。現在は昇進、異動を経て、コーヒーメーカーやトースターの
商品企画を担う。女子部本部長。塩小路支部。

花開かせる 3.PNG
女子部の華陽姉妹と励まし合いながら、広布の青春を歩む(中央が金田さん)


「聖教新聞・2017(平成29年)/12/03(日)」


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名字の言 2017年(平成29年)10月9日(木)


名字の言 2017年(平成29年)10月9日(木)

 元プロ野球選手の豊田泰光さんは、黄金期の西鉄ライオンズなどで
活躍した。4度出場した日本シリーズでは通算3割6分2厘の高打率。
現役の終盤には2試合連続代打サヨナラ本塁打を放つなど、土壇場で
大役を果たした。

 そんな豊田さんが論じる「勝負強さ」が興味深い▼いわく、勝負に
弱い人は打席に入っても「なぜ打てないのか」と悩んでしまう。
反対に、勝負強い人は「どうやったら打てるだろう」と考える。

すると、相手が見えるようになり、目の前が一気に開けてくるという
(『豊田泰光のチェンジアップ人生論』日本経済新聞社)

▼いざという時、失敗を恐れ、一歩を踏み出せないことがある。
その時に、”なぜできないか”と縮こまるのではなく、”どうすれば
できるか”と心躍らせて挑みたい。克服すべき課題、対峙すべき
相手に正面から向き合ってこそ、活路は開かれる。

▼日蓮大聖人は、広布の途上に起きる数々の大難にも「いよいよ・
はりあげてせむべし」(御書1090ページ)と、満々たる”攻め”
の精神を貫かれた。決して忘れてはならない言論闘争の魂である。

▼対話の場にあっては、どんな人も「必ず味方に変えてみせる!」
との強き一念で、真実を語り抜きたい。その確信の声が、わが地域
の広布の決定打となる。(値)


posted by mity504 at 20:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 名字の言

信仰体験 新生の道 東日本大震災

石巻・鈴木さん.PNG
鈴木造船所の新工場に立つ鈴木さん。
最大で総重量499トンの船を受け入れられる


信仰体験 新生の道 東日本大震災

 石巻の造船所 不屈の火ともす

 【宮城県石巻市】大船を引くウインチのきしむ音が曇天に響く。
先月18日、鈴木造船所の新工場が稼働した。上架した第一船は、船長
40メートル船幅18メートル。
復興に休みなく働いた約100トン吊りの大型クレーン台船だ。
社長の鈴木千代正(60)=湊福光支部、副県長=は、この日を待ち
焦がれていた。

 鈴木造船所は、伊達政宗に招かれた船大工を先祖に持つ。1927年
(昭和2年)の創業。オイルショックや200カイリ漁業水域を背景に
、2度の倒産を経験した。

 夜通し練った再建計画を手に、債権者を回った。力を尽くして
説明したが納得してもらえず、顔を朱にして怒鳴られた。地面に額を
こすりつける思いで何度もわびた。

 鈴木さんは修羅場を耐え忍びながら、力を蓄えた。石巻の造船の
火を消すものか。鋼(たがね)の意志で、2006年(平成18年)に負債を
完済した。
まさにこれからという時だった。東日本大震災の津波で、造船所は
全滅した。
         ◇
 被災4ヶ月後に工場の一部を稼働させ、翌年には全設備を復興して
みせた。だが河口部の堤防建設の話が持ち上がり、移転を迫られた。
廃業も考えられる事態だったが、鈴木さんは迷わず移転を決断した。
津波に奪われた2人の従業員の顔が浮んだからだ。

 震災直後、線香をあげに行くと、遺された家族から聞かされた。
「会社のこれからが楽しみだって言っていた」。
遺影の前で正座したまま泣いた。

 石巻で立ち上がってこそ意味がある。己にそう言い聞かせたものの、
手探りの土地探しは難航した。巨額の資金調達にも不安が募る。
船が上架できない夢を見た。

ようやく喉を通った食事は、味がしない。しおれる心を、題目で
奮い立たせる日々だった。
          
 不屈の祈りは、「母がくれた1年」の上に脈打つ。病弱の母は入退院
を繰り返し、やがて意識が戻らず寝たきりになった。
当時25歳の鈴木さんは、母のためを思って信心を始めた。

小説『人間革命』で師弟の真髄を学び、題目の威力を自力でつかんだ。
母を見舞い、耳元で題目を毎週聞かせた。

 結婚前夜、「俺、幸せになっから」と、人工呼吸器につながれた母に
妻を紹介した。母は息子の成長を見届けるかのように、春夏秋冬を
経て鼓動を止めた。

 母がいれば、会社再建に汗する今の自分はどう見えるだろう。
鈴木さんは退路を断ち、題目をひたすらに積み上げた。
           ◇
 工場移転の重圧にあえいだ苦闘は、極限の中に宿る「師弟の底力」
を教えてくれた。

 池田先生は被災地の友を、「苦楽を分かち合う共選の同志」と呼んだ。
言葉の奥をすくい取ると、弟子の痛みをわが痛みに変えるという慈愛が
あった。

それが逆境の扉を開け放つ力になった。だから全身で叫んだ。
 負けてたまるか……。

 おととし、約2万1000平方メートルの県有地を見つけた。
「池田先生に応える一念に、諸天が感応してくれた」。国と市の補助金
を活用した。

 落成式はこの6月、約180人が集った。新工場は船台3基を新設し、
大型クレーンを構える。船長70メートル級の対応が可能になった。
鈴木さんは「水産の街・石巻の復興に少しでも貢献したい」と皆に
誓った。
           ◇
 自分一人ではたどり着けなかった再出発。「運の良さと偶然が味方
した。人だったり、政策だったり」。かつて怒鳴られた取引先も力を
貸してくれた。

福運のある人生を歩むことがどれほど大切か。「夫(そ)れ運きはまり
ぬれば兵法もいらず・果報つきぬれば所従もしたがはず」(御書1192
ページ)。入会した日に教わった一節をかみしめる。

 石巻の造船の火は不屈であり、強靭だ。高揚感が漂う中、鈴木さんは
気を引き締める。「これからです。創業90年の節目。大きな使命を感じる」

   おわり 『聖教新聞・2017/08/01(火)』


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不敗の原点「大阪大会」60周年記念特集(2)

峯山さん 1.PNG
大阪市中央公会堂の前で、関西婦人部の代表が
師弟共戦を誓って(4日)。池田先生は「常勝の母」
たちへの万感の思いを詠んでいる。「常勝の 
大関西の 婦人部に 幸福 燦たれ 諸仏も護れと」


  師弟こそ仏法の真髄なり

 不敗の原点「大阪大会」60周年記念特集(2)

「関西の友の真心を一生涯、忘れない」



 「大阪大会」の公判は、逮捕から4年半、84回に及んだ。この間、
池田先生は23回、法廷の場に立った。

 先生は裁判に出廷する前日、当日、翌日と可能な限り、関西の友
に会い、励ましを送り続けた。手づくりで、関西広布を一段と伸展さ
せていったのである。

57年10月18日の初公判の日の夜には、神戸で友を激励。翌19日には、
京都の宇治方面を訪れている。

 61年(同36年)9月22日の午前には、第二室戸台風で被災した西淀
川区に足を運んだ。午後からは大阪地裁で、先生自らが検事への
証人尋問に臨んだ。

 検察が起訴した刑事事件の有罪率は当時、「99%」を超えた。
起訴されてしまえば、無罪は”不可能”といえた。

 さらに、「大阪事件」を担当した弁護士は、「有罪は覚悟してほしい
」という弱腰だった。その中で、62年(同37年)1月25日、先生に
「無罪」判決が出たのである。
峯山さん 2.PNG
峯山益子さん
峯山益子さん(関西婦人部総主事)は、この日のことが忘れられない。

 高校卒業後、図書館で働き始めた。53年(同28年)12月、「常勝の
母」と慕われた矢追久子さん(故人)の勧めで信心を始めた。

 翌年、先生が矢追さんの家を訪問。そこで、師との初めての出会いを
刻んだ。

 図書館で勤務していることを伝えると、先生から「御書は持っている?
と聞かれた。この時、まだ持っていなかった。

 「その場で、先生は御書を学ぶ大切さを教えて下さいました」

以来、御書の研さんに励んだ。職場には、学会を嫌う人がいた。週刊誌
などに学会の批判記事が掲載されると、その雑誌が必ず机の上に
置かれていた。

「でも、全く気になりませんでした。”すべて御書の通りだ”って思って
いましたから。『大阪事件』が起こった時、信心が揺らがなかったのも、
御書を研さんしていたおかげです」

 61年、峯山さんは結婚。その直後、肋膜炎を患った。「自宅療養を
していましたが、先生が無罪を勝ち取られた日、母と一緒に旧関西本部
へ向かいました」

 無罪判決が出た後、先生は旧関西本部へ。「大法興隆所願成就」の
関西常住のご本尊の前に端座し、感謝の祈りをささげた。

 そして、その場にいた峯山さんの病気平癒を祈り、「大丈夫たよ」と
励ましを送った。

 「先生の慈愛は、今も心から離れることはありません。生涯、師恩に
報いる人生を歩んでいきます」

 裁判を勝利で終えた直後も、先生は「一人の励まし」に徹した。
広宣流布は、この「一人の励まし」から始まることを、関西の友に
改めて示したのである。

       ◇

 「大阪事件」の本質とは、何であったか。

 それは、飛躍的な発展を遂げている学会に対して、自分たちを脅かす
勢力になると恐れた権力による卑劣な弾圧であった。

 池田先生は、小説『新・人間革命』第5巻「獅子」の章でつづっている。

 「社会の主役、国家の主役は民衆です。その民衆を虐げ、苦しめ、
人権を踏みにじる魔性の権力とは、断固戦わなければならない。それが
学会の使命であると、私は宣言しておきます」

 民衆の側に立ち、正義の旗を掲げ続ける……。

 そのことを、先生が自らの身をもって示した「大阪事件」とその勝利。
不滅の「正義の原点」に刻まれた師の精神は、世界広布の明日を
照らし続ける。


   取材後記

 取材の折、栗原さん、峯山さん、林さんが、同じ言葉を口にした。
「関西を『常勝関西』にしてくださったのは、池田先生です」
「関西が『世界のカンサイ』になったのは、池田先生のおかげです」
「関西に『凱歌の夜明け』を告げてくださったのは、池田先生です」

 あふれ出る師への感謝。今も燃える師への誓願。こうした無数の
「関西の母」たちありて、
 池田先生は、関西婦人部をたたえている。

「どんな深い闇も、底抜けに明るい笑顔で打ち破ってくれる関西の
母たちこそ、世界第一の『常勝の太陽』なのである」

  おわり 『聖教新聞 2017/07/17(月)』

創価学会の3代会長がいかに権力と戦ってきたのか、という
厳然たる事実の歴史です。
3代会長.PNG

動画・youtube
3代会長の権力との戦いと勝利の栄冠

 まとめ 
不敗の原点「大阪大会」60周年記念特集(1)
不敗の原点「大阪大会」60周年記念特集(2)


posted by mity504 at 16:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大会・会合

不敗の原点「大阪大会」60周年記念特集(1)


大阪大会 1.PNG
赤レンガの壁と緑のドーム屋根が特徴的な
中之島の「大阪市中央公会堂」。
数々の関西広布の節目を飾る舞台となってきた。


 師弟こそ仏法の真髄なり
不敗の原点「大阪大会」60周年記念特集(1)

信心しきったものが必ず勝つ


大阪大会 2.PNG
「大阪大会」であいさつに立つ池田先生。”信心しきったもの
が必ず勝つ”との師子吼は、関西の不敗の誓いとなった。
(1957年7月17日、中之島の大阪市中央公会堂で)



きょう7月17日は、1957年(昭和32年)に中之島の大阪市中央公会堂で
「大阪大会」が行われた日である。この時の”戦いは負けたらあかん”
との「関西魂」は今、世界に輝き広がる。

ここでは、「不敗の原点『大阪大会』60周年記念特集」として、関西
婦人部の代表の証言を交え、その精神を確認する。

 大阪市の関西池田記念会館に「師弟常勝之碑」がある。碑文は、
「大阪大会」50周年の2007年(平成19年)7月、池田先生が関西の共に
贈ったものだ。

その冒頭は「師弟こそ 仏法の真髄にして 最極の魂の結合なり」と。
創価学会は、「師弟」という深い人間の絆で結ばれた団体である。
ここに、権力の不当な弾圧にも屈しない強さの源泉がある。

 60年前、権力に魔性が牙を向いた。「大阪事件」に、関西は負けな
かった。師と共に迫害を堂々と勝ち越えた。関西の友が満天下に示した
のは、「師弟」の底力にほかならない。

 1957年(昭和32年)7月3日、池田先生は事実無根の冤罪で、不当逮捕
された。発端は、3ヶ月前の参院選(大阪地方区の補欠選挙)にさか
のぼる。一部の会員が起こした選挙違反を、池田先生に強引に結び付けた
のである。

 この逮捕までに、警察と検察は、学会員に威圧的な取り調べを行った。
 
 当時、女子部班長だった林智栄子さん(関西婦人部総主事)。参院選
から数日後、刑事が自宅に来た。戸別訪問の容疑だという。
3大阪大会 .PNG
林智栄子さん
 連日、朝から晩までの取り調べ。刑事は「誰の指示で動いた!」
問い詰めた。戸別訪問などしていない林さんは、否認し続けた。

 
 その後、取り調べは大阪地方検察庁へ移った。そこでは、複数の検事
に取り囲まれた。

ある時には、検事が池田先生の写真を手に、「知ってるやろ」と
恐ろしい剣幕で詰め寄ってきた。
 その激しさは、林さんの頭をもうろうとさせ、”私、悪いことしたん
やろか”と錯覚させるほどだった。

「罪もない人を陥れようとする。権力の怖さを心の底から感じまあした」
池田先生が不当逮捕されたのは、この取り調べから一ヶ月半ほど後の
こと。

「先生の逮捕を聞いた時は”私の取り調べでさえ、あれだけ問い詰められ
たのに、どれほど先生は責められてしまうのか”と不安で仕方ありません
でした」

池田先生は逮捕から5日後の1957年(昭和32年)7月8日、大阪拘置所に
移監された。

 この日、検事は2人がかりで夕食も取らせず、深夜まで取り調べを続
けた。

 9日、検事は「罪を認めなければ、学会本部を手入れし、戸田会長を
逮捕する」と恫喝した。

 すでに恩師の体は衰弱しており、逮捕は生命の危険にも結び付きか
ねない状況だった。

 獄中で一人、煩悶を続けた先生は、恩師の身を案じ、法廷で真実を
証明することを決断したのである。

      ◇

大阪大会 5 1.PNG
「大阪大会」60週年を記念して行われた「関西勝利大会」。
今再びの常勝の大行進を誓いあった。(10日、同公会堂で)


57年7月17日の正午過ぎ、池田先生は大阪拘置所から出所。多くの再びの
関西の同志が歓喜して出迎えた。先生はつづっている。
「私の投獄を、わがことのように心配し、悲しみ、憤った、関西の
同志たち。私は、その真心への感謝を、絶対に一生涯忘れることは
ないだろう」

 午後6時、場内と場外合わせて約2万人の友が集まり、中之島の
大阪市中央公会堂で「大阪大会」が開会した。

 しばらくすると、空を厚い雲が覆い始めた。横暴な権力に対する
諸天の怒りであるかのごとく、豪雨が地面をたたき、空には雷鳴が
轟いた。

 場外のスピーカーの声は、雨の音でかき消された。だが、誰一人と
して、帰ろうとする人はいない。

 仕事を終えて駆け付けた林さん。ずぶ濡れになりながら、堂島川を
挟んで公会堂の対岸にあった大阪地検の建物を睨みながら、固く誓った。

 ”負けたから、こんな悔しい思いをした。戦いは負けたらあかん。
一生かけても、この仇は討つ”

 その燃えるような気迫は、60年が過ぎた今も赤々と。林さんは
力を込めた。

 「”仇討ち”とは、個人的な復讐などではありません。”師と共に”
との心で、広布拡大に挑むこと。それが、関西の関西たるゆえんであり、
池田先生が教えてくださった精神です」。
大阪大会 4.PNG
栗原明子さん
 栗原明子さん(関西婦人部総主事)は当時、女子部部隊長を務めていた。

 ある日、いてもたってもいられず、警察署などを回った。すると、
偶然、署の前に一台のジープ型の車が止まった。その直後、先生の姿が
見えた。

 目が合った。「元気?」と先生から声が。「元気です!」と栗原さん。

 今から取り調べが待っているにもかかわらず、一人を大切にする、
いつもの「常勝将軍」の雄姿が、そこにはあった。

 「いついかなる時も、先生は変わらない。先生のお姿を拝見し、”権力
の魔性などに断じて負けてなるものか”と深く誓いました」

 もう一つ、栗原さんには忘れられないことがある。

 池田先生の逮捕以来、旧関西本部には、頻繁に戸田先生から電話が
かかってきた、ある時の電話の後、応対していた壮年が受話器を持った
まま、号泣する姿を、栗原さんは見かけた。

 壮年が涙したのは、戸田先生が「代われるものなら、わしが代わって
やりたい。あそこは入った者でないと分からないんだ」と語ったからで
ある。

 師の恩は山よりも高く、海よりも深い……どこまでも弟子を思う師の
慈愛を、栗原さんが深く知った瞬間だった。

 「大阪大会」には、場内で参加。終了後、池田先生は「一緒においで」
と栗原さんをはじめ、居合わせた友に声を掛けた。

 先生の後ろにつき、公会堂の階段を上がった。先生は窓を開けると、
場外の友に手を振った。

 沸き上がる歓声と拍手は、しばしの間、鳴りやまなかった。

「池田先生と関西の絆は、どのような障魔が競い起ころうとも、断ち切る
ことなどできない。そのことを確認した光景でした」

 「大阪大会」で、池田先生は師子吼した。

 ”最後は、信心しきったものが必ず勝つ”

 この宣言は今、人生を切り開き、人間革命の勝利劇をつづりゆく”
常勝の指針”として、関西の同志の心に受け継がれている。

 次回につづく 『聖教新聞 2017/07/17(月)』

創価学会の3代会長がいかに権力と戦ってきたのか、という
厳然たる事実の歴史です。
3代会長.PNG

動画・youtube
3代会長の権力との戦いと勝利の栄冠

 まとめ 
不敗の原点「大阪大会」60周年記念特集(1)
不敗の原点「大阪大会」60周年記念特集(2)


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世界の体験プラザ 世界的監査法人の勤務経験生かす(2)

ホンさん3.PNG
台湾女子部のメンバーと(左から3人目が洪さん)


世界の体験プラザ 世界的監査法人の勤務経験生かす(2)

 大手総合商社の経理・税を担う

現地と日本を結ぶ架け橋に

  台湾SGI 洪 孟君(ホン モンジュン)さん

  師と新たな原点を


 現在の職場では、二つの業務を担当しています。

 一つは、決算の数字を東京本社の海外会計部に送り、連結決算書を
作成することです。台湾では、13年から、国際会計基準が導入され、
最新の知識に精通した人材が求められています。

 もう一つは、財務報告書の作成や、法人税の申告などをする上で必要な
、監査法人とのやりとりです。その窓口を担当しています。

 国際会計基準も、監査法人も、どちらも私の職歴が役に立ち、これほど
うれしいことはありません。

 池田先生はかつて、戸田先生の「経理」に関する指導を引かれつつ、
「どこの世界でも、金銭や人事に厳格なところが最後は勝っている。
あいまいなところは敗北している」とスピーチされました。

 この指針を胸に、現地支社と東京本社の発展のために、また台湾と
日本の架け橋となって活躍していこうと決意しています。

 一昨年の9月4日には、新たな信心の原点を刻むことができました。
日本でSGI青年研修会に参加し、池田先生にお会い出来たのです。

 この日は、くしくも私の誕生日。涙の向こうに三色旗を振る先生の
姿を見て、”私も共に希望を送る存在になる。社会に貢献できる人材に
成長しよう”と深く誓いました。

 「私にやらせてください」と手を挙げた時から、一念が変わったことを
実感します。これからも青年らしく、いかなる困難も前進の糧に変え、
報恩の人生を歩んでいきます。

  おわり 【聖教新聞 2017/07/17(月)】



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