聖教新聞 体験談そのほか気になる記事

ブラボーわが人生 第28回 米一粒に師弟あり(2)


 信仰体験 ブラボーわが人生

第28回 米一粒に師弟あり(2)

 「題目あげでみろ。たまげるほどの幸せ感じっど」



 学会活動で福運も積まねばなんねべえ。みんなのうちさ行って、「題目
あげてみろ」と教えっけんども、石ぶん投げられるしよお。

 米沢とか山形とかの会合さ行ったもんだ。いい服着てんと陰で言われっ
から、洋服の上にジャンパー引っかけて、汽車さ乗んだ。

 帰りは汽車もバスも走んねえ夜中だからよお。真冬の猛吹雪に、50メー
トルおきの電柱を頼りに、歩いたっち。戦いだ。命懸けの戦いだ。
そうやって米一粒を作ってきたんだ。

 何事も御本尊様が先だんべ。新米お供えしてよお。「この一年、無事に
取らせていただいて、おしょうしなあ(ありがとうございます)」。
おれの田んぼは、題目の法味が詰まってっからよ。いい米がたくさん
取れたんだ。

 5年過ぎてからだな。「今までのこと、水に流してけろ」と村の人が
うちさ来たのはよ。

伊藤さん 2.PNG
50年前の伊藤さん(手前右)一家。
実りの秋に感謝


 山形の米は、ツヤっつうか、違うすね。どこの田んぼも青々と伸びた
年があったんだ。豊作でせわしなく働いた。もうすぐ刈り取りって時、
昭和42年の羽越豪雨に遭ったんだ。

 堤防を越えて、農道が川になってよお。田んぼが土砂で埋まったっす
めえ。「家が流されたってよかった。稲さえ無事でいてくれたらよお
……」。田んぼさ見て泣く老人がいたったもんなあ。

 おれの田んぼは脇に用水路があったから、無事だったんだ。刈り取りも
できたけんど、みんな早く御本尊様を持たせにゃ、かわいそうでよお。
信心さ聞かせて、「村が豊作になるようにお願いします」と題目あげた
んだ。

 昭和47年だな。池田先生が山形県隊体育館に来てくださってよお。
一緒に写真さ撮ってけだったなあ。その頃も庄内・最上地方で、河川の
被害が田畑に出たんだ。池田先生は御書を引かれたんだな。

「災来るとも変じて幸いと為らん」(979ページ)。すごい確信だこって。
おれは、生きてるうちにどこまでも題目あげるべ、と誓ったんだ。

 先生の話さ聞いてっと、土地改良した村のみんなが浮かんでよお。
ちゃっこい田んぼを大きくして、用水路も広げたんだ。変毒為薬だんべ。
おれは池田先生と米さ作ったど。うまい米になってけろや、って題目し
ながら田植えたんだ。

 米一粒に、農家の人生が詰まってんのよ。おれには見えんだ。だから、
ぶさたにしては(無駄にしては)なんねえの。米は命をつなぐものだべ。
「白米は白米にあらず・すなわち命なり」(御書1597ページ)。
米さ粗末にする人に、いい人いねえべっちゃ。

 父ちゃん亡くなって、昭和の終わりごろに田んぼをやめたんだ。
農家を引退しても、使命に定年はねえべ。ずっと題目。おれは題目切ら
さねえよ。題目ばあさんだ。
題目ながったら、別の人生になってたなあと思ってよお。

 今は近くの農家から米さ買ってる。その人は、おれの田んぼで作っ
てんの。あいや、おいしくてよお。まだ田んぼに題目の法味が詰まって
んだな。まんず、いがったな。

伊藤さん 3.PNG
家訓は「米一粒なげたり(粗末に)するな」。
ひ孫までしっかりと行き届く


 池田先生と記念撮影した折、「生きて生きて生き抜いてください」
と激励され、「百歳会」の結成があった。ちゑさんは責任の重さを感じる。
「自分だけ生きるのではなく、村の人みんなが100歳まで生きるように
祈らねば」。そこに「百歳会」の使命があると言う。

「題目の王者」と評される。東北の春の到来を物語るような不屈の歩み。
「あの時、勝ったから、こうしてられる」と、四面楚歌だった日々
を思う。

「題目あげてみろ。たまげるほどの幸せ感じっど」。友に語る言葉は、
今も昔も変わらない。

 ちゑさんの手を握った。日本の食卓を支え、気高い人生を築いてみせた
手は、
節くれ立った厚みのある手だった。山の残雪が解ける5月、飯豊の里に
田植えが始まる。(天)

おわり 『聖教新聞 2017/05/02(火)』

 まとめ
ブラボーわが人生 第28回 米一粒に師弟あり(1)
ブラボーわが人生 第28回 米一粒に師弟あり(2)

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ブラボーわが人生 第28回 米一粒に師弟あり(1)

伊藤さん 1.PNG


 信仰体験 ブラボーわが人生
第28回 米一粒に師弟あり(1)

 「題目あげでみろ。たまげるほどの幸せ感じっど」


【山形県・飯豊町】暦は桜薫る4月でも、遠くの山はまだ白い。東北の
春は、雪解け水に感謝し、花咲く風を喜ぶ。ぬるむ田んぼに囲まれた
家を訪ねた。あるじは、米農家だった伊藤ちゑさん(97)=飯豊支部、
婦人部副本部長。凍てつく冬の厳しさにあらがうことなく、暮らしを
つないできた。その歩みに人間凱歌の輝きがある。


 まんず、御本尊様のおかげだと思ってる。いい時に信心したった
もんでよ。いろいろあっけんども、三障四魔から逃げらんねえもんだ
すな。

 おれは米さ作ってたんだ。田んぼは1町歩(約1ヘクタール)ぐれえ
あったなあ。米作りは土との戦いだ。土がよくねえと駄目だ。あんまり、
肥料やりすぎると枯れてしまう。そこらへんはほれ、熟練のさじ加減
だんべ。

 春に牛で耕して水かけてよお。そこのところさ種まくの。洗っても
爪の間の泥がとれねえ手は、働き者の手だ。夏には青々と伸びて、
秋には黄金色の穂が実るべ。そいつを鎌で刈ったら、指の拳(第二関節)
が太くなるわけ。

汗水垂らして作る米は、農家の人生が詰まってんのよ。
 やっぱり、飯豊山からくる雪解けの水がいんだべなあ。けんどよお、
そいつさ止められた時は、まいったべ。

 昭和35年(1960年)だ。東京の杉並から、信心した人が近くに来てご
ざった。座談会があるから行ったの。20人ぐれえ、いたったなあ。
おれ肝臓が悪かったっす。病気克服の体験を聞いてよお。

ああこれ以上の話はねえと思ったんだ。「信心する人と聞かれて、
おれ一人が手あげた。「この信心を貫けば、三障四魔が必ず起こる。
それでもいいか」。おれは「何言われても負げない」って話したば。

 集落長のうちさ行って、「信心した」と言ったのよ。そしたら、
「このバカ」と怒鳴られてよお。目つり上げて「集落さおかねえ」
んだと。

 そこへ、神社に寄付する話さ断ったもんだから、朝の4時まで公民館で
村のみんなに詰め寄られてよお。改宗を迫られたんだ。親友まで
そっぽ向かれてしまった。

 村八分にされたのさ。塩まかれんのはいいけんど、何よりつらかった
のは、田んぼの水さ止められたことだな。土が割れたんだ。そいつ見て、
「こんなことで負げでらんね」と父ちゃんと話したっけ。

 信心に憎しみはよくねえよ。それより題目だ。題目あげんだ。おれは
御本尊様に「相手の命を変えてけろ」と祈ったんだ。仏法は勝負ださけえ。
自分たちの姿をもって、実証を示していく以外にないのさ。

 三障四魔に負げねえよ。種をよ、御本尊様にあげて唱題すんだ。
おれの家はササニシキを作ってやった。人より早く田んぼさ出てよ。
昼休みなんて、ねがったっす。題目っつうのは、どこさ行ってもできる
もんな。一本一本苗植えながら、唱題したんだ。

 次につづく 『聖教新聞 2017/05/02(火)』

 まとめ
ブラボーわが人生 第28回 米一粒に師弟あり(1)
ブラボーわが人生 第28回 米一粒に師弟あり(2)

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世界の体験プラザ 劣等生から「平和構築」の専門家に(2)

パンジュワニさん 4.PNG
人種や平等をテーマに、インドの高校生たちを
啓発するワークショップで(パンジュワニさんは右端)


世界の体験プラザ
 子供の人権守る・教育コンサルタントとして活躍

 
 インド創価学会 マンシ・アルン・パンジュワニ

 劣等生から「平和構築」の専門家に(2)

 「競争」よりも「共感」を育む

 池田先生は、創価大学を創立された当時から今日まで一貫して、「人格
を形成」し、「平和への知性」を与え、「社会への貢献」を教える
「人間愛の教育」こそが最も必要だということを訴えてこられました。

 12年、私は中米コスタリカにある国連平和大学の「平和教育」修士課程
に進学することができました。しかも、インド人としては同大学史上
初めて、全学費免除の奨学生に選ばれたのです。

 帰国後は、インドの複数の州やアフリカのウガンダにある教育機関で、
平和構築のためにフリーランスのコンサルタントとして働き始めました。
取り組んだのは、「競争」よりも「共感」という視点で学生のリーダー
シップを育む訓練です。

 15年、日本を訪れて念願だった広宣流布大聖堂での誓願勤行会に参加
しました。池田先生はお一人で、世界中の何百万という人々を励まして
こられたのだと実感し、一人の人間が持つ無限の可能性に、あらためて
、気付かされました。

 また、この折に広島平和記念資料館も訪問し、核兵器の悲惨さに平和へ
の決意をさらに深くしました。

 16年、再び訪日するに当たり、池田先生に勝利のご報告をしょうと決意。
安定した長期プロジェクトに参画できるよう、祈りながら努力しました。

 すると、日本に出発する前日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)から、
インドの五つの州の教育カリキュラムを再構築する仕事を引き受けてもら
えないかと依頼されたのです。

 本年、そのプロジェクトを無事に終え、現在は、ノーベル平和賞を受賞
したカイラシュ・サティアーティ氏のNGOで子どもの人権を守る教育
カリキュラムを構築しています。

 勝利の結果は、これだけではありません。

 弟の入院をきっかけに、姉弟の温かい愛情を取り戻すこともできました。
さらに母もうつを乗り越え、自分の人生を力強く歩みだしました。

 思えば、私は父の病気によって仏法に巡り会い、母の病気によって信心
を強めることができたのです。難と戦い、宿命転換することができました。

 明年の大聖堂完成5周年を次の目標に、平和・文化・教育のためにさらに
力を尽くしていくとともに、女子部のリーダーとして、担当する全同志の
幸福と成長を祈り、走り抜いていく決意です。

パンジュワニさん 5.PNG
インド「value creation」誌


 おわり 『聖教新聞 2017/04/24(月)』

 まとめ
世界の体験プラザ 劣等生から「平和構築」の専門家に(1)
世界の体験プラザ 劣等生から「平和構築」の専門家に(2)
 
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世界の体験プラザ 劣等生から「平和構築」の専門家に(1)

パンジュワニさん 1.PNG
フリーランスの教育コンサルタントとして数
多くの機関や団体と平和教育を推進している


世界の体験プラザ
 子供の人権守る・教育コンサルタントとして活躍

 
 インド創価学会 マンシ・アルン・パンジュワニ

 劣等生から「平和構築」の専門家に(1)

創価の世界の真心の暖かさ

 
 幼い頃の私は、両親や友達と衝突を繰り返し、成績も最悪で、
追試を受けなければ進級すらおぼつかない劣等生でした。
将来の夢を尋ねられると、悪びれもせず「世界を変えること」と大見え
切りながら、勉強は後回しにしていたのです。

 そんな時、父にすい臓がんが見つかり、「余命3ヶ月」の宣告を
受けました。父の病苦を乗り越えようと、一家でインド創価学会に入会
しました。2002年のことでした。

 SGIの同志たちは、それこそ父と面識のない人までが、時間をこじ開け
るようにして、懸命に題目を送ってくれました。創価の世界のあまりの
暖かさに、私は感動で胸がいっぱいになりました。

 私は、せめて両親の喜ぶ姿が見たいと願っていました。すると、未来部
の担当者が「そのためには勉学でベストを尽くそう」と励ましてくれま
した。

 日々、勤行・唱題を重ね、池田先生が未来部の友に贈った『青春対話』
を同志と研さんしつつ、勉学に猛然と挑戦しました。両親は、娘が大きく
変わったことをとても喜び、私を誇りに思ってくれるようになりました。

 アメリカ創価大学(SUA)が「貢献的人生を生きゆく世界市民の確固た
る潮流を築く」との理念を掲げていることを知り、私は受験を決意して
さらに勉強に打ち込みました。

 父は、宣告された余命を1年半も延ばし、仕事を続けながら日々に
目標を持って、朗らかに人生を楽しみ切りました。自身の病によって、
私たち家族をSGIの仏法へと導き、翌03年に霊山へと旅立ったのです。


パンジュワニさん 2.PNG
ウガンダで教員の指導に当たるパンジュワニさん
(左から2人目)

パンジュワニさん 3.PNG
最愛の家族と共に。
左端がパンジュワニさん


一家和楽”勝利”の笑顔

 唱題で開いた「使命の道」

 その後も、試練の波は次々 と押し寄せました。

 父の死後、母は悲しみからうつの傾向が強くなり、弟は態度が粗暴
になって、家族に完全に心を閉ざしてしまいました。私はSUAへの
合格を勝ち取ったものの、家庭の経済状況を考えて進学を断念せざるを
得なくなったのです。

 すっかり自信を無くし沈み込んでいる私に対し、SGIの同志は”
自身の使命の道が開けるよう、いや増して唱題しょう”と励まして
くれました。

 ニューデリーの大学で学びながら、学会活動にも全力で取り組みま
した。唱題に唱題を重ねていくうちに、歓喜あふれる自分になっていく
のが分かりました。

 大学院では「紛争解決と平和構築」をテーマに修士号を取得。
卒業後は、インドの恵まれない子どもたちに教育支援するNPO「ティーチ
・フォー・インディア」に就職することができました。

 私は感謝の思いを込め、初任給の中からSUAに寄付することにしました。
自分はSUAに行けなかったけれども、そこで学ぶ学生のために、何か
お役に立ちたいという思いからでした。

 ここでは、3年間の経験を積みました。挑発を受ければすぐに暴力に
頼っていた子どもたちが、対話によって問題解決を図っていく姿に、
人は変わっていけるという事実を目の当たりにしました。

 幼い頃に、私自身が経験した劣等感は全て必要なことだったのです。

 2につづく 『聖教新聞 2017/04/24(月)』

 まとめ
世界の体験プラザ 劣等生から「平和構築」の専門家に(1)
世界の体験プラザ 劣等生から「平和構築」の専門家に(2)

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青年大会から歴史動かせ 北海道の若人が総立ち

青年大会 北海道 1.PNG

青年大会 北海道 2.PNG

「一人の力が世界を変える」をテーマに行われた北海道・三代城創価
青年大会のフィナーレの演目。集いの最後には、戸田北海道青年部長
を中心に、師に届けとばかりに全員で万歳三唱を。
竹岡青年部長、清水総合女子部長らが激励に駆け付けた
(札幌市の真駒内セキスイハイムアイスアリーナで)

 青年大会から歴史動かせ

 北海道の若人が総立ち

 札幌・真駒内で1万人が一堂に

 北の大地に新生の春を告げる北海道の「三代城創価青年大会」が4月30日
、札幌市の真駒内セキスイハイムアイスアリーナで盛大に開催され、
全道から1万人超える友が一堂に集い合った。

 これには池田先生が祝福のメッセージを贈り、広布開拓に励む友の奮闘
に心からの称賛を寄せた。

 また、大会には、北海道の各界から多数の来賓が列席した。席上、来賓
を代表して高橋はるみ道知事、札幌市の秋元克広市長があいさつ。
青年と熱と力がほとばしるステージに喝采を送った。(3面に詳報)

青年大会 北海道 3.PNG


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posted by mity504 at 16:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大会・会合

島津亜矢 岸壁の母 youtube



島津亜矢 岸壁の母.PNG
島津亜矢 岸壁の母 youtube

母は来ました 今日も来た
この岸壁に今日も来た
おどかぬ願いと知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて
………。

島津亜矢さんはこの「岸壁の母」を歌う前に二葉百合子さんに
伺い、許しを得て、了承され、指導も受けたそうです。

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アフリカに広がる地涌の連帯 仏法の人間主義を社会へ

アフリカの友 1.PNG


5.3「創価学会の日」「創価学会 母の日」記念
世界広布新時代 第25回 本部幹部会
SGI春季研修会 聖教新聞配達員大会 から(要旨)

 アフリカに広がる地涌の連帯
仏法の人間主義を社会へ

 活動報告
トーゴSGI イダ・ボドス・アジェビ議長

 一、トーゴ共和国は、かつて池田先生が長編詩で「西アフリカの真珠」
と讃えてくださった通り、広大な自然に囲まれた、とても美しい国です。

 女性は皆、働き者で、気さくで親切です。男性は、そんな女性の
おかげで少しのんびりしてます。私は、23人きょうだいの大家族の中で
育ちました。姉の一人が看護師だったこともあり、幼い頃から医療に
関心を持ちました。

 中でも出産後、満足に治療を受けられず、時には命まで落としてしまう、
お母さんたちの存在を知ったことは心に深く突き刺さりました。
大きくなったら、こうした人たちの力になりたいと、懸命に勉学に
励みました。

 高校を卒業後、1968年に国の奨学金を得て、セネガル共和国のダカール
大学医学部に進学。その後、さらにフランスの大学院でも学びました。
 
 そんな78年に、一人目の男の子を授かりました。しかし、相手の男性
とは未来を共有することができず、一人で子育てする道を選びました。
生計のために医療施設で働き、やがて博士論文の執筆も手付かずに
なりました。

 午前6時に息子を託児所に預け、午後8時に迎えに行く毎日を過ごして
いたある日、託児所の所長が私をSGIの座談会に誘ってくれました。

 メンバーの暖かな雰囲気、力強い題目の音声に心から感動し、私は
すぐに実践することを決意しました。80年6月に御本尊を受持。
題目を唱え抜く中で論文の執筆も順調に進み、夢であった医学博士となる
ことができました(拍手)。

 一緒の時期に信心を始めた夫と出会えたことも、私の最高の功徳です。
81年10月に結婚し、82年には共にトーゴに帰国。私は産婦人科医として、
首都・ロメの大学病院に勤務しながら、トーゴ広布への第一歩を
踏み出しました。

当時、国内に同士は一人もいませんでしたが、一人また一人と仏法を
語り抜きました。


アフリカの友 2.PNG
アジェビさんが開設した「ミョウレンクリ
ニック」。今も院長として、出産前の診断、
分娩、婦人科の手術などに携わる(ロメで)


 良き市民として

 一、少しずつ、題目を実践する人が増えてきた頃、ロンドンから
2人のメンバーが移住し、84年4月1日、初めて座談会を開くことが
できました。

この時に集った20人からトーゴ広布の歯車は、ゆっこりと回転を始め
ました。

 もっと座談会を充実させたい。もっと御書を学びたい。この情熱の
ままに、車で国境を越え、隣国のガーナSGIの同志のもとに向かった
こともありました。

 そして85年8月、トーゴにも待望の地区が結成されました。(拍手)
私は地区部長として、同志の激励に奔走しました。伝統宗教の信仰者、
キリスト教徒、イスラム教徒が大多数の中、私たちは良き市民として
の行動を貫き、団結して、あらゆる困難に挑みました。

 この頃、私にも宿業の嵐が襲ってきました。3人目の息子を死産で
失ったのです。

 医師として、広布のリーダーとして、皆の前では毅然と振る舞おうと
心掛けました。しかし、家に帰ると毎晩、悲しみに押しつぶされそう
でした。

 ただただ御本尊の前に座り、時間を忘れて唱題しました。その中で、
医師である前に、広布のリーダーである前に、一人の人間として、
この悲しみを乗り越えることが、私と亡き息子の宿命転換だと
気付きました。

徹して御書を学び、一日一日を懸命に戦い抜きました。92年、トーゴに
支部が誕生した時の喜びは生涯、忘れられません。


アフリカの友 3.PNG
「トーゴ平和会館」開館式の参加者が喜びのカメラに。
同式典には、各界の来賓も参加し、「トーゴSGIによる
平和のためのあらゆる運動を、私は支援します」などの
声が寄せられた(昨年3月、首都ロメ郊外で)


 医療で祖国に貢献

一、さらに99年、私の仕事にも転機が訪れました。母と子の幸福を
目指す私の医療に賛同してくれる人が現われ、ロメに産婦人科病院を
開設することができたのです(拍手)。

 病院の名前は、皆が妙法蓮華の当体であるとの意義を込め、「ミョウ
レンクリニック」と名付けました。診察では、私自身が深い悲しみを
経験した分、どんなささいな兆候も決して見逃すことなく、常に不安な
お母さんに寄り添う医療を心掛けました。

 そうした積み重ねが評判を呼び、国内全土から妊婦が集まるように
なりました。

 今では助産師の研修の受け入れ、国立病院との提携などを通して、
私の培ってきた経験が、わが国の医療技術の向上に役立っています。

 さらに、病院の評判を聞き付けた国営テレビ局から、番組の
医療相談コーナーへの出演を依頼されました。
視聴者からの相談に、診察室と同じように真心を込めて答えていた
ところ、これが好評を得てレギュラー番組になりました。

今では毎週水曜日と金曜日の朝の30分、司会者と2人で出演。
視聴者からは、”イダお母さん”の愛称で呼ばれています。

 現在、この番組は、コートジボワール、カメルーン、ブルキナファソ
、等々、アフリカのフランス語圏の7ヵ国をはじめ、ヨーロッパや
アメリカ、アジアでも衛星放送されるようになりました。(拍手)

 私の知識が世界中のお母さんの安心に生かせることに、大きな喜びと
功徳を感じています。

 一、トーゴSGIも発展を続け、現在は1総合本部・13本部の陣容となり
ました。

 昨年3月には、待望の「トーゴ平和会館」が完成(拍手)。
政府関係者など多くの来賓や隣国の同志を招き、盛大に開館式を
行いました。

 近隣の方々は当初、なじみの薄い仏教の施設を不審げに眺めていま
したが、喜々として集う幸福そうなメンバーの姿に理解を深め、
今では会館があることを町の誇りにしてくださっています。

 開館から1年、今までの倍以上の勢いで折伏も実り、35年前、一人に
語ることから始まった広布の拡大は、2700人を超える地涌の陣列へと
広がりました(拍手)。

 池田先生が呼び掛けてくださった「アフリカの世紀」は今、厳然と
幕が開きました。

 アフリカの幸福のために、正義のために、人々は日蓮大聖人の仏法を
待ち望んでいると確信しています。池田先生の人間主義の哲学のもとに、
さらに多くの青年を糾合し、必ずや私たちの手で、幸福と平和の新時代
を築いていきます(拍手)。

  『聖教新聞 2017/04/24(月)』


 いちから組織を作っていく、すごいな!こんなすごい人でも
誰かが折伏しなければ、仏法に縁することはなかった。
人の人生は縁することによって、変わっていく。
彼女はまさに「地涌の菩薩」だ。

 この「(愛称)イダお母さん」に「あっぱれ!」で賞

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posted by mity504 at 16:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 創価学会・ニュース

信仰体験 母ありて 86歳の現役美容師(2)

母ありて 2.PNG
ルビー美容室には、高橋さん(左)の明るい
笑顔とおしゃべりの花が咲く


信仰体験 母ありて 86歳の現役美容師(2)

 第16回 59年越しで夫が入会
語らいの花 さらに

 86歳の現役美容師

【東京都八王子市】”ルビーさん”の愛称で親しまれる高橋トワさん
(86)=新世紀支部、地区副婦人部長=は、美容師になって約70年。
一人で営む「ルビー美容室」で、今もはさみを握る。

 常連客の多くは70代、80代の高齢者。「お客さまが、やめさせて
くれないの。”あなたじゃなきゃ駄目。まだまだ元気なんだから”
って。そうよね。目も見える。指も動く。はさみを握ったら自由自在。
一番動くのは口かしら(笑い)」

 18歳で親戚の店に勤め、修行を。終戦間もない当時は暖房もない。
冬になると、手は霜焼け、足はひび割れ。火鉢で暖を取りながら、
カットしていた。1958年(昭和33年)に自分の店をオープン。

店名の由来を尋ねると、「準備が忙しく、当時付けていたルビーの
指輪を見て、”これでいいや”つて。そんな名前で、まさか60年近くも
続くとはねえ」。

 61年、常連客から仏法の話を聞き、創価学会に入会。長男の非行、
夫のリストラを乗り越え、信心の確信をつかむ。「唱題すると、”さあ、
やるぞ”っていう気持ちになれる。お客さまからも、『いつも一生懸命
で、すごいね』って」

 そんな高橋さんには、長年の悩みがあった。結婚して59年間、夫・
義一さん(85)=壮年部員=が信心に無理解だった。会合にいこうと
して、強く反対されたことも。自宅で唱題できず、同志の家に通い、
題目を唱えた。

「お客さまにヘアスプレーを届けてくる」と言って、会合に行った
こともある。

 ”夫が信心する日は来ないかも……”。何度も諦めそうになったが、
「昔、『必ず夫と一家和楽の信心の家庭を築きます』って、みんなの
前で宣言したのよ」。以来、ずっと祈り続けてきた。

 2014年(平成26年)の年末、義一さんが「たこつぼ型心筋症」で
倒れる。高橋さんは懸命に題目を唱えた。心肺停止から意識が戻ると、
医師からは「奇跡的な回復」と、病室で義一さんは、「俺は生き返った
んだなあ」とポツリ。

 翌年の夏、一時退院で帰宅。夫が寝ているベッドの横で、唱題して
いると、義一さんも小声で「南無妙法蓮華経」と唱えていた。
「お父さん、一緒に信心しよう」。高橋さんが語ると、義一さんは「
そうだな」と、静かにうなずいた。

 入会は、8月24日。地区の同志に囲まれ、いつになく笑顔の義一さん。
”こんな日が来るなんて”振り返れば、多くの苦難を越えてきた。
10年前、高橋さん自身、脊柱管狭窄症の手術を受け、昨年は胃潰瘍が
見つかった。

「仕事をやめて、ゆっくりしょうかなと思うんだけど、題目はすごいね。
元気とやる気が湧いてくるのよ」今でも、新規の顧客が増えている。
「お客さまから紹介されて、去年から95歳のご婦人も来てくださってい
て」。来店客と話し込み、「最近はカットよりも、おしゃべりの方が
長いね」。

 ”居心地がいい”と評判なのは、高橋さんの人柄が愛されている証拠。
毎日、近隣の人が集まるルビー美容室は、地域の憩いの場になっている。

 定休日には、入院生活を続ける義一さんを見舞い、買い物や掃除、
学会活動に歩き回る。「池田先生の『友情は人生の花』って言葉が
大好きなの。語りたい人がたくさんいるから、まだまだ看板は下ろし
ませんよ」

 今日も、”ルビーさん”の笑顔が、キラキラと輝いている。

 おわり

  『聖教新聞 2017/04/12(水)』

 まとめ
信仰体験 母ありて「耐えてなんぼの人生ですよ」(1)
信仰体験 母ありて 86歳の現役美容師(2)

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信仰体験 母ありて「耐えてなんぼの人生ですよ」(1)

母ありて 1.PNG


信仰体験 母ありて「耐えてなんぼの人生ですよ」(1)

 第16回 広島県尾道市 佐藤富貴子さん

 デニムのオーバーオールに赤いジャンパー姿。「いつもこんな感じ。
スカートなんかはいたら島中の話題になる」。とにかく明るい。
佐藤富貴子さん(71)=沼南支部、地区副婦人部長=の案内で、
瀬戸内海に浮かぶ百島を巡った。「頼もしい後輩」と紹介してくれた
のは島の消防団。
昨春まで佐藤さんも一員だった。

「消防のふき姉さん」で通る。30年務めた。尾道市初の女性消防団員
だった。分団長の重圧から円形脱毛症になったが、任期中の火災と
災害はゼロ。島の安全に力を注いだ。

 普段着の赤いジャンバーは、「カープの赤。消防団の赤。それから
信心に燃えてる赤」と、ちゃめっ気たっぷり。笑顔の艶に感心すると、
「潮風と苦労でこの顔になったんですけど」。

 百島の生まれ。20歳で島を離れ、都会の光と影を知る。41歳で大阪
から夫婦で帰郷し、古びた雑貨店を営む母と暮らした。

 当時、島には学会への無理解があった。出合う誰もが下を向いた。
”無冠の友”の佐藤さんは、本紙の切り抜きを手にあいさつした。
受け取ってくれる手はどこにもなかった。母には「忍耐の二字を
背負っていきなさい」と言われた。

 辛抱強さは母親譲り。「忍辱を行ずるは瞋恚(しんい)の病を除く
なり」(御書755ページ)。人との関りを渇望する日々は、師弟の
距離を縮めた日々でもあった。「とにかく池田先生の指導をかみ締めて
生きてきた。耐えてなんぼの人生ですよ」

 婦人消防隊に入ったことが、地域密着の糸口となる。「地獄のような
訓練」を受けた7年目、婦人消防隊の県代表として全国大会に出場した。

 忘れられないのは島の応援団がバス2台で横浜まで来てくれたこと。
「ますます島の人を守りたい気持ちが強くなった」。女性消防隊は
島の誇りとなり、指揮者の大役を果たした佐藤さんは一躍、人気者に
なった。

 NHKのドラマ撮影が島で行われた時、歓迎の花束を手渡す「ミス百島」
を誰にするかという話になった。愛嬌の良さから当時、五十路の
佐藤さんに白羽の矢が立った。

「気分はもう映画女優」と、まんざらでもなかったが、タスキの文字を
「ブス百島」と読み違えた人がいた。笑いの渦に包まれながら、「島の
人と私の笑顔が一致したな」と感じた。

 行動力は折り紙付き。分団長の2年間、尾道市の管理で消防車と救急車
の設置を、島の役員と実現した。粘り強く交渉した訳は、「百島には
境涯革命させてもらった恩があるから」。

 退任後は、信号もコンビニもない島で、「何でも屋みたいなことを
してます」。母から継いだ雑貨店を構えながら、高齢者を診療所や
墓参りに連れて行き食事やごみ捨てまで担う。

地域貢献の信条は?「人の喜ぶことなら何でもするだけ」島の人は宝物。
「ふきちゃんとおったら、元気が出てええわ」の声が何よりの幸せだ。

 今では、島の大半の人が本紙の購読者となった。母が残した言葉を思う。
「宿業は私で断ち切るから、富貴子は幸せになりなさい……」

   つづく

 『聖教新聞 2017/04/12(水)』

 まとめ
信仰体験 母ありて「耐えてなんぼの人生ですよ」(1)
信仰体験 母ありて 86歳の現役美容師(2)

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posted by mity504 at 17:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰体験
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